阪神淡路大震災から27年の今 | 〜天使ママブログ〜5人の子宝を授かりました

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2016年生まれ長女と2019年待望の第二子長男を胎児水腫で死産、2020年第三子を稽留流産。2022年第四子次女誕生。2024年第五子次男爆誕。自分の気持ちをありのまま綴っています。

今日は、阪神淡路大震災から27年が経ちました



以前、書いた事あったかもしれませんが

備忘録として、経験した事をノンフィクションで記録しておきます





※※リアルな部分があるため、思い出したくない方やしんどくなりそうな方は読まないでください※※




 













当時私は小学2年生でした





兵庫県西宮市は夙川と言うところに住んでいました





マンションの3階に住んでいて

目の前には阪急電車が通って居ました



一階部分にはお店が入ってて

上に電車が通っている感じです





線路下にあるお店には

美味しいたこ焼き屋さんがあったり

(ここのおじちゃん、見た目は怖かったけど常連の方にはサービスしてくれたり、子供には無料で3個くらいたまにくれたりしてました)

ケーキ屋さんがあったり

駄菓子屋さんがあったりと

いろんなお店が入っていました






マンションの一階にもコンビニくらいのお店が入ってました





よくお菓子買いに行ったり

お使い頼まれて

豆腐や野菜など買ったりして




そこのおじちゃん、おばちゃんとも仲良かったです







近所には幼馴染だった男の子2人と

女の子1人が住んでいて



よく4人で遊びました





そんな素敵な場所で、悲劇が起きました








1995年1月17日朝方




いつも通り寝ていたら、夢でジェットコースターに乗る夢を見ていました





激しく揺れるのがやけにリアルで

ゴォォォォーって言う音までしていて

身体が揺さぶられる感覚がした為

自然と目が覚めると





今まで感じた事無いくらい寝てるのに身体が揺れていました





何秒くらいだったかな





とにかく、いつ終わるんだろう






これって一体何?どうなってるの?





当時、地震の存在すら知らなかったので

何が起きてるのかさっぱり分かりませんでした






揺れが収まると






母の叫ぶ声が!?






私と姉は一つのベッドに寝ていて

丁度真横に母と弟が寝ていました






母の叫ぶ声が聞こえたので

身体は寝たままだけど

顔だけ向けると






そこには箱の下敷きになっている

母と弟が居ました





母は箱をどかせながら

弟の名前を叫んでいました





弟は当時まだ2歳くらいでした





小さな弟が物の下敷きになっていたので

母は、半分ダメかもしれないと思ったらしい





でも、名前を呼ぶと

手が動いたのが分かり

引っ張り上げると無傷でした






それは安堵しましたが






なんせ外はまだ暗いし

周りは停電してる為





部屋は真っ暗です






幸い、月の明かりがまだいつもよりは明るかったのと

目が慣れて、真っ暗では無かったです








すぐに家から出ようと

母が玄関に行こうとしましたが




扉が全く開きません






理由は、扉の向こう側で、棚が倒れていたからです






苦戦していると

余震があり、また揺れました






母は若干悲鳴をあげ





私たち三兄弟も怖くて仕方なかったのですが




母に、扉の仕切りにある桟のところに

3人は立っときなさい❗️と、言われて

動かないでいました





理由は、母がいつの日か昔に

底が抜けないのは柱がある部分だけだから

地震などがある際は、扉の仕切りにある床の桟に立っておくといいと教わったそうです





ホンマかどうかは知りませんが(笑)






でも、当時の母は必死で私達を守ろうとしてくれていたんだと思います






あと、この時なぜ父親が居なかったのかと言うと






父はまさかの東京に出張だったんですよね





ただ、父が居たら

父は間違いなく重傷だった可能性がありました





父が寝ていた場所


丁度寝ていたら

頭部の辺りに大きなブラウン管のテレビが見事に転がっていたからです





だから、居なくて良かった?のかな?








真っ暗な中、3人で立ちすくんでると


姉が言いました




『何かお父さんの服が光って見える』




ふと見ると、父が着てた白いTシャツが

確かに白っぽく発光してる様に見えました






その時、母は諦めて

ベランダから出ようと窓を開けて周りの様子を見てみました




すると、所々灯がついてる様な明るさが見えて




人の声もチラホラ聞こえて来ます





でも、我が家は3階

ベランダから逃げ出すと言っても

隣との間には分厚い壁があるので

逃げれません





すると、母は大きな声で

助けを求めました






でも、誰も気が付いてくれません







母は助けを求めるのを辞めたのか

何も言わなくなりました





姉も弟も何も言わないし





何とかしなくちゃ、と必死に考えて

恥ずかしかったけど


私も大きな声で助けを求めました






助けてくださーい

助けてくださーい



何度か叫んでると





隣のマンションの駐車場に



1家族が現れました






それは、幼馴染の男の子の家族でした






私は何度か叫んで助けを求めましたが

結局、助けには来てくれませんでした







母は意を結した様子で

急に隣との間に塞がる壁を壊す事にしたようで






靴下しか履いてないのに

何度も何度も力一杯蹴り飛ばして

やっと1枚割れました





更にまだあと2枚割らなければなりません





母は、1枚割るだけでもかなり痛かった様でしたが





頑張って2枚目も割ることが出来ました







しかし、あまりの痛さに

もう限界で、残りの一枚を割る元気が無かったらしく





確かに母はその時

しゃがみ込んだりして

脚が痛いって言ってました





また地震が来たら怖いな…

どうなっちゃうんだろう…





と、4人が不安でいっぱいだった時






丁度、男の人が帰ってきて最後の壁があるところを通りかかりました






母が、男の人に助けを求めましたが

その人は自分の事で必死で母の求めにはスルーしました






しかし、何度か母がその人に

子供も居て外に出れなくて困ってるので

どうか助けてもらえませんか?




すると、男の人は

スルーしたけど戻って来てくれて






どうしたら良いのか母に尋ねました






母は、最後の壁を壊してほしいとお願いすると

男の人は





え!?こ、これ壊すんすか?{emoji:アセアセ}{emoji:アセアセ}{emoji:アセアセ}






と、引いていたらしく





母はすかさず



2枚は割れたんですけど

どうしても最後の一枚が壊せなくて{emoji:アセアセ}





と、半泣きでお願いすると






男の人は意を結し、最後の一枚を蹴破ってくれました






そして、あとはくぐり抜けて脱出出来るだけだったのですが






その壁は、かなり分厚くて

隣との間には隙間がガッツリ空いていて

子供の私達はジャンプしないと落ちちゃうくらい空いてて怖かったんですが




母に下はあまり見ないように飛びなさいと言われ





頑張って飛びましたが

やはり怖くて動けなくなってると





男の人が抱き抱えて救出してくれました






何とか脱出し、男の人にお礼を伝え

またいつ揺れるか分からない恐怖の中

マンションの外に出る事が出来ました






すると、幼馴染の女の子家族や

知らない人が何人か居て立ち往生していました





少し落ち着きましたが、何せ極寒の中

パジャマに裸足だったのですが

周りの大人が

寒いだろうと、服を貸してくれたりしました




ただ、寒さよりも足の裏が痛過ぎて立ってられませんでした




初めは、足の裏が切れまくってるんじゃないかと

暗がりでしたが確認するも



血も出ておらず何で痛いのかサッパリ分かりません




姉も同じく痛がっていて

2人で痛い、痛いと言ってると



この上に立っときなさいと、

誰かが毛布を貸してくれて

その毛布のおかげで痛くなくなりました




何で痛かったんだろう?と、周りの大人に聞くと




誰かが、寒過ぎて地面も冷たいから痛く感じたのかも





と言われ





そうなんだぁーって思いました









すると、何処からか泣き叫びながら助けを求める人の声が聞こえてきました







どうやら家族が家の下敷きになったのか?





とにかく助けを求めていましたが





みんなそれどころではなく





自分の家族の事だけで必死でした







そんな中、ようやく少し落ち着いてあたりを見回すと







煙があちらこちらで立ち昇っていて

薄明かりがいろんなところにありました





でも、その明かりは

実は火事になってる炎の明かりだったんだなぁと

後から分かりました




ついでに、阪急電車の一階のお店は崩壊しており

線路は剥き出しに見えていました





それからは、断片的にしか思い出せないのですが






しばらくして、避難場所に行く事になり





一つ目は水道局?か、何処かに避難しました






結構人がいて、あまり良い雰囲気では無かったのは覚えています






次にまた、外が明るくなってきてから

今度は近くの病院に移動すると母が言うので

行く事にしました





病院の中に入ると





たくさんの人が居ました






私たちは、あまり中の方には行かず

入口付近の待合ロビーみたいなとこで

過ごしました






すると、知り合いの方が居て

その方の息子さんが

家の中でタンスの下敷きになり

打ちどころが悪く亡くなったのを知りました





その病院に搬送されたらしく

その息子さんに空いに行く事になりました






しかし、母は、私達に言いました





この先からは何が何でも目を開けないで、お母さんの手を握ったまま

ついて来なさい




と、言われ

恐る恐る目を瞑り

ついて行きました




しかし、目を瞑りながら歩くのがたまに怖くて




下を向きながらですが、うっすら目を開けると







そこには、ブルーシート?の上に足先だけ見えたまま、布が頭まで被された状態の横たわる人がたくさん寝ていました





私は小さいながらに

きっと生きてる人じゃないんだ…



と、怖い気持ちになりました





すぐ目を閉じて母について行くと






そこには、ベッドがたくさん並んでいて




そこも布が被せられた人がたくさんいました





ようやく知り合いの息子さんのところに辿り着き

顔を見ました






あまり覚えてない顔でしたが

何度か遊んでもらった記憶がありました





でも、死 に対してまだよく分かってなかった

私は、ただただ、ボーっと見てました





すると、おばさんが

身体をさすってあげてと、私達に言うので




ひたすらみんなで身体をさすりました







今考えると、子供に亡くなった人の身体を

終わりなく触らすって、どう言う神経してんだ⁉️って


親になった今の私なら、子供にはそんな事させないかもなって思いました





そして、その病院にいると

タンカーで運ばれてくる人はたくさんいて





同じ学年の知ってる子が運ばれて来ました





私は、ただ

知ってる人が居る事が嬉しくて



母に、何度も大きな声で




○○くんだ!!○○くんがいたよ!





って報告すると




母は何故か暗くなり


分かったから静かにしなさい




って叱られました






多分、今思えば

あまり良くない状態だったのかもしれません







どれくらいその病院に居たのか分かりません






たまに病院にはコンビニかどこかから配給される




おにぎりやサンドイッチなど

飲み物もごくわずかながら配給されてました





母は行く気力がないのか

取りに行った事があるのかは覚えてないですが





知り合いだったのか知らない人かに



おにぎりとサンドイッチを渡されました





その時、ずっと食べてなかったからお腹空いてたけど

母も元気がなくて、お腹空いてるからだと思ったから




お母さんに、サンドイッチ半分子しよう?と言うと




お母さんは要らないから

あんたらだけ食べ!




と、言われました






当時の事を母に聞くと

あまりの疲労にお腹空いてなかったと言っていました







そして、何日経ったのかわかりませんが






体育館みたいなところに行った記憶があります




そこでは、ポン菓子とか作ってくれたりしたので

並んで食べたりしてました







そして、更にどのくらい経過したのかはわかりませんが





最後はまた病院に居ました






毎日、何処でどんな風に寝て食べて過ごしていたのかは覚えて居ません






最後に覚えてるのは






病院にいると

母の姉夫婦が迎えに来てくれると

母から聞きました




おそらく、どうやってか連絡を取り合えたのだろうと思います





母の姉夫婦は、今も当時住んでいた家に住んでいて

断水はしてるけど、あまり被害が無かったようです








そんな姉夫婦が

来るのを首を長くして待っていました






三兄弟で、どんなふうに過ごしていたのか

覚えてません



多分、姉とはよく遊んでたんじゃないかなぁとは思います






待てど暮せど来なくて

ずーっと待っていたら





夕方くらいだったかな?






おじちゃんの車が見えて

喜んで母に報告しに行きました






母は半信半疑だったけど






本当に来てくれました






私は嬉しさと不安が入り混じった感情で

良く分からなかったけど



助けに来てくれた感覚があって



おじちゃんの顔を見て

走って抱きついた瞬間

大号泣したのを覚えています




これで、助かった!





って心底思いました






姉夫婦の車に乗り





高速道路は使えないから

山越えで帰ろうと回り道しました





母の姉、叔母は、おにぎりやおやつ等も用意してくれていて





私たちは、めっちゃ食べました





お腹がいっぱいになり一気に眠気が…



それもそのはずですよね



助けに来てもらい

頼りになるおじちゃん達がいて

一気に安堵し、温かい車の中で

久々にゆっくり寝る事が出来ました




おそらく母もだいぶ安心したはずです





夜になり、なにやらおじちゃん達がざわざわしてるから目が覚めると






山越えで帰ろうとしてたら、地震の影響で

土砂崩れになって通行止めになっていました





一瞬不安になりましたが

何せおじちゃん達が頼りになるから

大丈夫だろうと思って

また眠りました





そこからの記憶は無いですが

無事に姉夫婦の家に着きました





姉夫婦の家には祖母もいたので

よく遊んでもらいました






それから何日かして、父から電話がありました





母は話してくうちにだんだん喧嘩しだして

電話を切りました




私は父と話がしたかったのに

喧嘩して切るから

もう話せないんだと思って悲しくなりました




また数日経ってから


今度は父が姉夫婦の家に迎えに来てくれました




夜到着したんですが





あまりの嬉しさに

外に飛び出して

父に飛び付いて

パパー!?って言いながら

抱きついた記憶があります





当時の私は、まだ父の事何にも知らなくて

会えた時は安堵しかありませんでしたが




蓋を開けたら

当時から最悪な人だったんだなぁと

思いました







そんなこんなで、そのあとは

家の片付けと掃除をする為

母と父、弟だけが家に帰り




私と姉だけが残って

1か月か2か月くらい

姉夫婦の家に、いました



その間、学校に行かないのもあれだし、と




短期間だけど、近所の学校に通う事になり



姉と2人で登校しました





でも、登校中に上級生に嫌がらせされたり

いじめられる様になりました





姉は学校に行きたがらなくなり

体調を崩しました



姉が行かないなら

自分も絶対行きたくなかったので

叔母に言いましたが


叔母には行かないとダメ❗️って、怒られ…





不安がピークに達しそうになってると

祖母とおじちゃんが、行かなくて良いと言ってくれたので、行かなくて済みました






学校に行っていない間





祖母に、掛け算の九九を覚えなさいと言われ

祖母が書いた掛け算表をひたすら覚えました




今となれば、ありがたい事でした








そんな日々を送ってると、やっと父と母が迎えに来てくれました





多分2か月くらい?は姉夫婦の家に居たんじゃ無いかと思います









帰宅後、数日経ってから、学校がスタートしました





ただ、給食は復旧してなかったので

毎日コッペパンと牛乳のみ、みたいなメニューでした




体育館に集められ、震災で亡くなった生徒の追悼式をした様な気がします








そこからは、もうどんな風に過ごしたのかは

覚えて居ません






友達も居なくなったきり

学校には来なくなった子も居たし





でも、どんどん通常に戻っていきました







ただ、あの日から

身体が記憶している様で





少しの揺れや、地響きが聞こえると察知してしまい

ドキッとして、しばらくドキドキが止まらないです





今でも、あの時の恐怖や不安は

身体はちゃんと覚えてるんだなぁと思います 









以上、阪神淡路大震災の記憶でした







亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。