僕がこの仕事をを始めた理由。
少し写真の整理をして戸棚を開けたときに、保存していたモノが出てきた。
正直を言えばかくして保存していた。
というのが正解かなぁ。
ただのライター
実はそうじゃない。
ここに至るまでの経緯を記録と記憶として書いておきたいんで。
ちょっとエゴっぽい記事ですがご勘弁を。
18才の夏
母がFGAの資格取得の時に僕に化学式を聞いてきたことから始まったことで、
母が使っていた顕微鏡と見ていた宝石の中身を顕微鏡で見て、
「宝石の中に蜂が飛んでるやんけ!」
この事件から全てが変わっていったのが事実です。
高校の卒業旅行で両親に連れられアリゾナのツーソンへ旅立った。
FGAを取得した母が
カシミール産のサファイアが欲しいと言うことで旅立った旅行だった。
つたない英語でAGTAの中を走り回り、母の知り合いの同志社大学英文科の教授と一緒に探し回っていたときだ。
とあるブースに若い美男子の王子風の男に聞いてみた
「カシミール産のサファイアある?」
「あるよ。」
「見せて。」
「うん。いいけど。」
「これなんだ、初めて見た。親父とおかん連れてくる」
走り回って両親とその友達を連れてその男のブースへ行く。
よくよく話を聞くと
その男は母の尊敬していた博士の孫という。
Edwrd Boehm だった。博士の名は Phd Dr Edward J Gubelin
そんな事は僕は知らなかった。
とにかく値段交渉をし親父がJCBのカードで支払いをした。
値段交渉と支払いの交渉は僕だった。
Edward Boehmはその後勤めていた会社の社長にしこたま怒られたらしいが今日になっては笑い話になった。
その後僕は Edward に連れられ遊びに行った。
未成年だった僕だが二人で飲み回ってサボテンを二人で蹴り倒してた所までは覚えている。
親友になった。
その後僕はイギリスに渡り、EDWARDことEBが日本に来るたび帰国した。
EBの上司だったBill Larsonも親父のように感じ始めた。
みんなで加賀の温泉へ行き
「熱くてタマらねーぞおい!」とBillが大浴場を腰まで使って歩き回っていたのも思い出だ。
まるで兄弟のになった様な感じになった
兄ちゃんが出来た気分だった。
ある年の正月前、帰国し僕はFGAの資格の論文を書き、床へ付いた。
数時間後、家がおもいきり揺れ始めた。
阪神大震災である。
地震直後即電話をくれたのがEBだった。
ツーソンに行く予定だったがEBは即物資を送ってくれた。
コンテナ2つ分だった。
この電話の後、EBと電話をしてツーソン行く費用が浮いちゃったので2ctのNNのルビーを買った。
その年だったか翌年だったか、兄がおじいちゃんを連れて田崎真珠に行くから、迎えに来てくれと言う。
Edward J Gubelin 博士が 神戸に来る。
田崎真珠からの送迎を断り、僕を選んでくれたのだ。
大問題勃発だった(w)
母は卒倒しかけ、送迎の綿密なスケジュールを立てた。
僕の車と父の車と妹の車でEBと博士の乗る父の車に乗り、
先導を僕の車を運転する父の会社の従業員さん
後ろに妹の運転する車
父の運転する車の左右四方に護衛車を用意した。
その写真がコレだ。
田崎真珠までの
先生に色紙にサインを書いて貰い、
某ホテルで待つ。
又、ホテルから新幹線までの道のりを送迎する。
そのときに先生が、
「凄く助かったよ、必ず又会おう。孫を頼むよ。」
この一言で僕はアメリカへ行くことを決めた。
渡米
勉強しながらEBとのルームメイトならぬ兄弟生活が始まった。
その3ヶ月後、兄はアトランタへ引っ越す。
PalaIntelから独立し、自力で立ち上がるためだ。
兄を見送り父親代わりのBillの所で働きながら勉強をした、無論今や弟になったウィリアムとカールの面倒もみながらだった。
そして僕も世界を走り回るようになる、
世界一周の旅だった。
ドイツで1ヶ月その後スイスで一ヶ月先生のところでお世話になったのだ。
毎日が先生とのお話。勉強、技術、非常に充実した毎日だった。
ただこの一ヶ月
僕がタバコを吸っていることを隠し続けるのが辛かったが
僕がスイスを出る最終日HOTEL NACIONALから出る直前で先生が知ったのだ。
「え?君はタバコを吸うのかい?そこまで気を遣わなくて良かったのに。」
僕は答えた。
「いえ、コレは僕の修練です。先生の前では失礼が出来ません。」
先生は言う。
「いつもすまないね、今度来るときは堂々とタバコを吸いなさい。気にしなくてもいいから。また帰っておいで。」
涙が出る思いだった。
その後又兄のEBと共に世界を回る。
各国を回り
僕が日本へ戻る1年前にEBはサンディエゴに戻ってきた。
そして僕は日本へ戻り。
僕は独自路線を、兄は王道の道へ進む。
ただしお互い離れることはなかった。
あくまでも兄、尊敬する学者でありディーラーのままだった。
数年後
母を連れてドイツ、スイスと周り
先生と兄と母と僕で昼食を食べた。
数年後、意識のはっきりされたまま、先生は他界した。
そして先生の亡くなったあと
先生が必ずポケットに忍ばせておられたライターと時計を形見分けで頂いた。
未だに僕はこのライターを使ったことがない。
やはり先生の前ではタバコが吸えなかった。
いつの日か、このライターでタバコの火を付けようと思う。
自分が全て納得した日に
このライターでタバコを吸えるだけの人間になりたいと思う。
正直を言えばかくして保存していた。
というのが正解かなぁ。
ただのライター
実はそうじゃない。
ここに至るまでの経緯を記録と記憶として書いておきたいんで。
ちょっとエゴっぽい記事ですがご勘弁を。
18才の夏
母がFGAの資格取得の時に僕に化学式を聞いてきたことから始まったことで、
母が使っていた顕微鏡と見ていた宝石の中身を顕微鏡で見て、
「宝石の中に蜂が飛んでるやんけ!」
この事件から全てが変わっていったのが事実です。
高校の卒業旅行で両親に連れられアリゾナのツーソンへ旅立った。
FGAを取得した母が
カシミール産のサファイアが欲しいと言うことで旅立った旅行だった。
つたない英語でAGTAの中を走り回り、母の知り合いの同志社大学英文科の教授と一緒に探し回っていたときだ。
とあるブースに若い美男子の王子風の男に聞いてみた
「カシミール産のサファイアある?」
「あるよ。」
「見せて。」
「うん。いいけど。」
「これなんだ、初めて見た。親父とおかん連れてくる」
走り回って両親とその友達を連れてその男のブースへ行く。
よくよく話を聞くと
その男は母の尊敬していた博士の孫という。
Edwrd Boehm だった。博士の名は Phd Dr Edward J Gubelin
そんな事は僕は知らなかった。
とにかく値段交渉をし親父がJCBのカードで支払いをした。
値段交渉と支払いの交渉は僕だった。
Edward Boehmはその後勤めていた会社の社長にしこたま怒られたらしいが今日になっては笑い話になった。
その後僕は Edward に連れられ遊びに行った。
未成年だった僕だが二人で飲み回ってサボテンを二人で蹴り倒してた所までは覚えている。
親友になった。
その後僕はイギリスに渡り、EDWARDことEBが日本に来るたび帰国した。
EBの上司だったBill Larsonも親父のように感じ始めた。
みんなで加賀の温泉へ行き
「熱くてタマらねーぞおい!」とBillが大浴場を腰まで使って歩き回っていたのも思い出だ。
まるで兄弟のになった様な感じになった
兄ちゃんが出来た気分だった。
ある年の正月前、帰国し僕はFGAの資格の論文を書き、床へ付いた。
数時間後、家がおもいきり揺れ始めた。
阪神大震災である。
地震直後即電話をくれたのがEBだった。
ツーソンに行く予定だったがEBは即物資を送ってくれた。
コンテナ2つ分だった。
この電話の後、EBと電話をしてツーソン行く費用が浮いちゃったので2ctのNNのルビーを買った。
その年だったか翌年だったか、兄がおじいちゃんを連れて田崎真珠に行くから、迎えに来てくれと言う。
Edward J Gubelin 博士が 神戸に来る。
田崎真珠からの送迎を断り、僕を選んでくれたのだ。
大問題勃発だった(w)
母は卒倒しかけ、送迎の綿密なスケジュールを立てた。
僕の車と父の車と妹の車でEBと博士の乗る父の車に乗り、
先導を僕の車を運転する父の会社の従業員さん
後ろに妹の運転する車
父の運転する車の左右四方に護衛車を用意した。
その写真がコレだ。
田崎真珠までの
先生に色紙にサインを書いて貰い、
某ホテルで待つ。
又、ホテルから新幹線までの道のりを送迎する。
そのときに先生が、
「凄く助かったよ、必ず又会おう。孫を頼むよ。」
この一言で僕はアメリカへ行くことを決めた。
渡米
勉強しながらEBとのルームメイトならぬ兄弟生活が始まった。
その3ヶ月後、兄はアトランタへ引っ越す。
PalaIntelから独立し、自力で立ち上がるためだ。
兄を見送り父親代わりのBillの所で働きながら勉強をした、無論今や弟になったウィリアムとカールの面倒もみながらだった。
そして僕も世界を走り回るようになる、
世界一周の旅だった。
ドイツで1ヶ月その後スイスで一ヶ月先生のところでお世話になったのだ。
毎日が先生とのお話。勉強、技術、非常に充実した毎日だった。
ただこの一ヶ月
僕がタバコを吸っていることを隠し続けるのが辛かったが
僕がスイスを出る最終日HOTEL NACIONALから出る直前で先生が知ったのだ。
「え?君はタバコを吸うのかい?そこまで気を遣わなくて良かったのに。」
僕は答えた。
「いえ、コレは僕の修練です。先生の前では失礼が出来ません。」
先生は言う。
「いつもすまないね、今度来るときは堂々とタバコを吸いなさい。気にしなくてもいいから。また帰っておいで。」
涙が出る思いだった。
その後又兄のEBと共に世界を回る。
各国を回り
僕が日本へ戻る1年前にEBはサンディエゴに戻ってきた。
そして僕は日本へ戻り。
僕は独自路線を、兄は王道の道へ進む。
ただしお互い離れることはなかった。
あくまでも兄、尊敬する学者でありディーラーのままだった。
数年後
母を連れてドイツ、スイスと周り
先生と兄と母と僕で昼食を食べた。
数年後、意識のはっきりされたまま、先生は他界した。
そして先生の亡くなったあと
先生が必ずポケットに忍ばせておられたライターと時計を形見分けで頂いた。
未だに僕はこのライターを使ったことがない。
やはり先生の前ではタバコが吸えなかった。
いつの日か、このライターでタバコの火を付けようと思う。
自分が全て納得した日に
このライターでタバコを吸えるだけの人間になりたいと思う。