ほんとに少しだけ。





2015年から6年間。
守屋茜さん、ほんとうにお疲れ様でした。


普通は行くんだろうけど、
尖ってるヲタクだったのでそこはブレずにいくわ。




僕が現場行ってたのは、
2016年から2018年までの3年間なので、
よくよく思えばたった半分なんだなって。
就職とかコロナとか、そこからの月日は振り返ろうにもそこまでの思い出はなくて、
そう考えると毎月だったり毎週だったり現場通ってたのって相当無茶してたんだな。


でも、たった3年間でも、
人生の中で1番楽しかったなって
思える期間を過ごさせてもらえました。
本気で守屋を応援できてよかった。





1st で夢を聞かせてくれて
一緒にこうなりたいって話したことをメディアでも発信してくれてて
本気でヲタクしたいなって思わせてくれた


2nd で変わったことによる悩みを聞かせてくれて
背中を押してあげたいって必死に伝え方を考えた。
この期間、ストップウォッチで秒数測りながら話すこと考えてたのは痛い思い出。
でも、恩返しって言葉をくれて間違ってなかったって思わせてくれた。


3rd でフロントになって、
嬉しさと悔しさといろんな感情の話をしてくれて
アイドルを偶像としか捉えられない時代遅れのアホに泣かされたあの子の愚痴を、なぜか枚数使って聞いてたの今となっては面白い。
じぇるさんと並びで愚痴られてたのは京都だったかな。


4th は色々ありすぎた。
細々とやってたおれらに結構な人数の仲間が増えた。
握手はぜんぜんしてないし、守屋から怒られてますます行く気なくなってたのを覚えてる。
不協和音自体はおれ自身嫌いで、あまり思い出ない。スペイベ外れたし、今思うと踏んだり蹴ったりだなw


アルバム期間 はライブのイメージが強い。
全部行ったわけじゃないけど、危なっかしい計画が無敵すぎたな。クソたのしかった。
握手はなんかメンヘラだった。世に発信するってことの怖さと、ヲタクが離れていく怖さがあったんだろうな。
もっと来てって言葉には、他のヲタクと同じように離れてくんじゃないかって感情が混じってる気がして、色々考えてた。自分が素直じゃなくてキモい。


5th は外仕事に向けた話。
この頃から終わりを見据えての話を始めてた。
アイドル活動のその先に何があるのかって、その後にまで残るような話はなんだろうって。
風に吹かれても初披露でレスくれたのが多分最初で最後じゃないかな。2016年TIF以来だったんじゃねぇかな。


6th は就職して環境が変わった。
卒業式ぶっちして握手まとめにいったりしてたな。正直もうグループがどうとかいう目線はなくて、個人に対して発信の拡張の話ばっかりしてた。
珍しくおれが守屋に教え子のJKとのコミュニケーションの相談してたな。笑われて終わったけど。


7th は変化の話。
卒業を見据えて自分のやりたいことを大切にって。あれが最後のまとめになったのかな。





そのあと守屋の感情がどう変化していったのかまではわからない。
卒業を決めた時どう思ったのかとかもわからない。

考えた上での結論なんだろうなって思うことはあっても、話を聞きたいなって感情にはまったくならなかった。自分でも不思議だけど。


夢を追いかけてるあの子自身が夢のような人で、だからこそいつかは夢のように消えてしまう。そんなのは6年前からわかってて、
それを踏まえてあのレーンで後悔ないように話をしてきたつもりです。


いつだったかな。
写真集おめでとうっていったら、そんな言葉は要らないって言われたんだよ。
多分あの頃からおれがレーンにいる価値はもうなかったんだろうな。
話してきた3年間が色褪せるような接触はしたくないし、ミーグリは絶対に嫌だから、結局行かなかった。


顔を見たいって感情はあるし、おめでとうって伝えたい。
でも、それはおれの感情で、
3年間ずっとあのレーンにいたいって思うんじゃなくて、いてほしいって思われたかったんだから。
来てほしいわけじゃないだろうから、もういいよね。



本気でヲタクさせてくれてありがとう。







幸せになってください。









一緒にヲタクしてた仲間たちへ。


おれみたいな接触してると、
周りからとやかく言われるし、握手は楽しくてもすっきりしないことも多いし、
でも、それとは関係なく遠征の車の中での笑い話や、イベントの後の飲み会は楽しかったです。


守屋と話さなくなっても、話せるのって不思議だね。









欅坂46、守屋茜さん
どうもありがとう。