【美女たちの中国史】第27章 謝道薀(六朝時代) | 男も楽しめ!華流エンタメ☆

【美女たちの中国史】第27章 謝道薀(六朝時代)

・時代区分について

 前回は、五胡十六国時代西晋崩壊後の動きを追っていきましたが、今回は、南へと逃げた東晋の流れを追っていきたいと思います。
 
 その前に、この時代の時代区分について少し説明しておきたいと思います。

 実は、この時代を表す言葉は複数あります。
 まず、後漢滅亡の220年から西晋の統一280年までを三国時代と呼びます。
 280年から始まった西晋の統一時代はわずか32年と言う短い時間で終わり、311年の永嘉の乱で実質的に西晋は滅びます(完全に滅びたのは316年ですが・・・)。
 その後、晋は南へ逃がれて亡命政権を作り、これが東晋となります。


 一方、華北では匈奴ら異民族が中心となった国が興亡しました。  
 西晋を滅ぼした前趙(当初の国号は漢)が興起した304年から439年の北魏による華北の再統一までを五胡十六国時代と呼んでいます。
 しかしこの胡の字には異民族に対する差別的な意味合いがあるため使用が控えられ、それに代わって東晋十六国の名前が使われ始めています。
 

 ただ五胡十六国時代の範囲には東晋滅亡後の20年ほども含んでいるためにこの用語も完全に適切とは言い難いとして、いまだ適切な言葉が見当たらない状態のようです。


 そしてその後の、439年から589年の隋(ずい)による南北統一までを南北朝時代と呼んでいます。

 またこれとは別にこの時代に江南地域(長江流域)に発展した文化・経済(六朝文化)を重要視する意味で三国時代のと東晋から宋、斉、梁、陳までの六の王朝を合わせて六朝時代(りくちょうじだい)とも呼んでいます。
 
 このように呼び名が複数でかつ互いに被っている年代もあるため、非常にややこしいことになっており、また後漢の完全滅亡は220年ですが、それより前から後漢の皇帝の実権は無くなっており、184年の黄巾の乱の時点からを中国分裂時代の始まりと見るべきであるとの考えと西晋の統一期間はごく短いものだから、ここを含めて一時代と見るべきだとの意見を合わせた観点から、黄巾の乱(184年)から隋による統一(589年)までを一括して、魏晋南北朝時代とすることもあります。


 今回紹介するのは、南朝で花開いた六朝文化を代表する才女のため、タイトルの時代区分も六朝時代としました。

・柳絮の才

 今回紹介する道薀(しゃ・どううん)という女性は、東晋の名宰相・謝安の姪にあたる女性です。
 もっと言えば、前回に紹介した天下分け目の戦い「淝水の戦い」において、前線で軍を率いた名将・謝玄の姉でもあります。

 謝安が、ある寒い日に、一族を集めて子女たちと文章学問について語り合っていました。 
 すると、突然雪が降ってきました。
 謝安は、「このハラハラと降る雪は、何に似ているかな?」と子女たちに問いました。
 一人が「塩を空中に撒けば、やや似ています」と言いました。
 さらにもう一人が「もっと似ているのが、柳の綿毛(柳絮)が風に吹かれて飛ぶさま」と答えました。
 この答えに、謝安は大いに笑い楽しみました。

 舞い散る雪を柳絮(りゅうじょ)に見立てた後者の人物こそ、このエピソードから「柳絮の才」と呼ばれる才女・道薀です。

 日本ではほぼ無名な彼女ですが、中国の宋代には、後漢末の女流詩人・蔡文姫と並んで、才女の代表とされている人物です。


 謝氏は、東晋を代表する名家でしたが、それと並ぶのが王氏でした。
 道薀は、その王氏の一人と結婚します。
 夫となったその男の名は、有名とは言えませんが、その父親は超有名人です。
 書道を経験された方などは、名前を聞いたことがあると思いますが、書聖と言われる王羲之(おう・ぎし)が、夫の父親でした。

 道薀は、自由奔放に育ったせいか、そんなエリート御曹司の夫に対しても、バカ男扱い。
 後に天下分け目の決戦で大金星を挙げる弟に対しても、辛辣にからかったりしていることが記録に残っています。
 時に男尊女卑だと批難される中国の古代社会においては、特異な存在だと言えるかもしれません。

 しかし、彼女は才能を鼻にかけた生意気な女性であったというわけではなく、そのこき下ろし方には、どこか憎めないユーモアもあり、その様は「精神がスカーッとしており(神情散朗)、竹林の七賢のような趣がある」と評されています。


・孫恩の乱と東晋の滅亡

 前回に紹介したように、383年、前秦苻堅(ふ・けん)率いる百万の軍勢を道薀の弟・謝玄が撃破します。
 この奇跡の大勝利をあげた「淝水の戦い」の頃が、謝氏の絶頂期で、東晋王朝にとっても最後の輝きでした。

 謝安と謝玄もその後数年で他界していってしまうと、東晋は衰亡の一途をたどるようになります。

 失政にあえぐ民衆の熱い支持を得て、道教の一派である五斗米道を奉ずる孫恩をリーダーとする「孫恩の乱」が勃発しました。

 その際に、道薀の夫は会稽(浙江省紹興県)の長官の地位にありましたが、孫恩率いる反乱軍に為す術もなく殺されてしまいました。

 ある宗教の熱心な信者であった彼は、
「神様にお願いして、神兵が助けてくれることになっているから、賊は自滅するぞ」
 などと世迷言を言って、何の備えもしなかったといいますから、書聖の子とはいえ、道薀の言うように、少しぼけた所が多かったのかもしれません。

 この時、道薀は夫や息子たちが殺害されたと知るや、侍女に輿を担がせて、自ら刀を振りかざして出撃。反乱軍と斬り合い、数人を斬り殺したものの、結局は孫恩に捕らえられました。

 しかし、捕らえた方の孫恩も、この怖いもの知らずの気丈な才女の気迫に飲まれ、結局は手を下すことはできず、道薀はその後も命長らえて、人々に畏怖されながら平穏な老後を送ったとされています。

 一方、朝廷の方も劉牢之(りゅう・ろうし)を派遣して、孫恩を乱を鎮圧しますが、それに呼応するかたちで、今度は桓玄(かん・げん)という人物が反乱を起こします。彼の父、桓温(かん・おん)は東晋の有力な将軍で、帝位の簒奪を目論んでいましたが、当時の宰相であった謝安がやんわりと反乱をさせないように抑え込んでいました。
 その亡き父の遺業を成し遂げようとした挙兵でした。
 

 朝廷側は再び劉牢之に反乱軍の討伐を命じましたが、なんと劉牢之は桓玄側に寝返り、東晋の実権は桓玄が握ることになりました。
 
 桓玄は、すぐに劉牢之の軍を解体して、その実権を奪いました。
 劉牢之もそれには反発して、桓玄を討とうとしますが、裏切りを繰り返す彼の味方に付く者はなく、結局は自殺に追い込まれました。

 桓玄は皇帝に禅譲を迫り、楚を建国しますが、劉牢之の元で反乱軍鎮圧に功のあった劉裕(りゅう・ゆう)のクーデターにより、わずか数ヶ月後に殺されます。

 劉裕は東晋を復活させますが、自分の地盤を固め、自分に反する勢力を徹底的に粛清したのちに、禅譲させた後に、東晋の皇族をことごとく殺害します。意外にも、禅譲の後に、旧皇帝を殺すようになったのは、この時からです。
 劉裕は宋という国を建国します。
 ちなみにこの宋は、統一王朝の宋と混同しないために、歴史上は劉宋と呼ばれます。


・五胡十六国時代の終焉

 一方、その頃、北方では、華北を統一していた前秦は分裂。
 当初は、慕容垂(ぼよう・すい)後燕姚萇(よう・ちょう)によって建てられた後秦が強大でした。
 後燕は394年に西燕を、後秦も同年に前秦をそれぞれ滅ぼして領土を拡大し、再び東西での睨み合いとなるかと見えました。
 しかし、から改称した北魏と、匈奴によって建てられた夏(大夏)とが次第に強大となりました。

 それぞれの国々は、建国者は優秀で甲乙付けがたいという所だったのでしょうが、結局は建国者の死後には急激に弱体化するパターンが多く、結果、最も優秀な後継者を得た北魏が華北の最終的な勝者となりました。

 北魏の道武帝の時代、439年に華北は統一されます。
 これにより、五胡十六国時代は終わり、時代区分としては、南北朝時代へと突入します。