【新宿JAMの奇跡】
昔、新宿JAMの辺りは暗かった。
ネオンの歌舞伎町を抜け、JAM方向へ明治通りを歩くと急に街灯がさみしくなり、横を走る車も新宿からの渋滞を抜けるのか、いくらかスピードを上げてすっ飛んでいった。
目指す先にある歩道橋の隙間から赤い看板がついた病院が見え、その手前が新宿JAMだった。
煤がかかった簡易ホテルの様なその病院は、まさか精神病院じゃなかったと思うが、あのど派手な歓楽街を抜けてきたばかりで見ると、暗がりに静かにたたずむその建物の中には、なんだか白衣の狂った医者や、ぶ太い注射器を持った看護婦がいる感じがして薄気味悪かった。
だがあの“バックフロムザグレイブ”という企画は、そんな雰囲気も後押しした新宿JAMでやったからこそ特殊な感じを持てた気がする。
自分のバンド、ギターウルフもある時から“バックフロムザグレイブ“の常連になっていくが、それを知るきっかけは
20代の中頃に、三鷹の友人の家に遊びに行った事から始まる。
友人はその頃フィーバーと言うバンドをやっていて、
そのバンドにぞっこんだったオレは、ライブの度に足を運んだ。しかし彼はそのバンドを辞めるという。
さらっと聞きながらも相当ショックを受け、続けて欲しい
一心で時折説得の言葉を交えながら話した。だが彼はうわの空で、手元にはギターがあった。それを弾きながらオレと話しているのであるが、さっきから耳に聞こえてくるそのフレーズが妙だ。
彼はチャックベリーをはじめとするR&Rギターが得意のはずであるのに、サウンドがなんだかテケテケしてる。
「オレ今度こんな音楽やるんだ」
とあらためてスイッチを押したラジカセからの音は何とサーフミュージックであった。
一瞬驚きつつ思った、エッ、時代遅れ!
その頃はジミヘン、R&R、ストーンズ、ブルース、パンク、ロカビリー、ハードロックが流行っていて、なぜにサーフィン!?今さらベンチャーズ!?
ところがギッチョン、時代遅れはオレだった!
サーフミュージックがあんなにワイルドなサウンドだったとは!
後にさすがと思わせてくれた彼の名前は、そう、オレがギターの師匠と呼ぶエノッキーサンダーボルト!まさにジャッキー&ザセドリックス誕生前夜の出来事だった。
数日後、彼から電話がある。
「今度新宿JAMで、クランプス好きの人の企画にでるんだ」
それが“バックフロムザグレイブ”だった。
誘われたその日オレは開演に遅れた。
辺りはすっかり暗く、赤い看板を斜め頭上に感じながら、地下ホールへの狭い階段をブーツでコツンコツン降りて行くと、それ以前のJAMにはなかった雰囲気が身体にゾワゾワまとわりつきだした。
すると!ホール手前の通路にTシャツが売られている。
エ―――!目が血走った、何とリンクレイのTシャツ!
オレしか知らないはずのリンクレイがここでは有名なのか!?
焦り80感激20の気持ちで思わず手に取るが我に返り、
すでに音が鳴る扉の中に入った。
あの夜、セドリックスに導かれて開けた扉の向こうの
“バックフロムザグレイブ”との出会いがその後のギターウルフを決定した。
あの場にいたセドリックス、5678s、テキサコレザーマン、そしてその後出会う事になる殆どのバンドが刺激的だった。
だれもメジャーなんて眼中になかったし、なれるとも思っていない。
その代わりそこにはいつもロックの実験室の匂いがしていた。
毎回、自分達だけが捜してきたカバーを演奏する事に快感を感じ、そして、突拍子もないアイディアを客に浴びせる。
お互いに仲はよかったが、ライバル心はもちろんあり、だけどそれぞれの個性が際立ち、且つ別な方向を見ていたせいか、似たようなバンドは皆無だった。
そしてだんだん熱を帯び、声高にこんな事まで言い出していた。
70年代のCBGBのシーン。
ハートブレイカーズ、ラモーンズ、テレビジョンのNYパンクが誕生していったあの時もこうだったに違いない!
今となっては果たしてどうだったかわからない。
だがあの瞬間、そんな夢を見られたあの新宿JAMの
“バックフロムザグレイブ”にいられた事は、自分にとってひとつの奇跡だった。
新宿JAMに乾杯!
PS:今年いっぱいで閉店の新宿JAM。
いてもたってもいられずギターウルフは12/22(金)の夜に急遽出演します。