結婚教育相談員 ムーママ(村島和代)です。
さて、私が看護師になるまでを書きましたが、
私の祖父母の話をしたいと思います。
私の祖父母は実は、私とは血のつながりのない人たちでした。
その事実を知ったのは、中学3年生の時です。
机の上に置いてあった戸籍謄本を何気なく見た時に、
母の名前の横に 養子と書いたあったのです。
見てはいけないものを見てしまったような罪悪感に、知らぬ顔をしていました。
後で、ひそひそと祖父母が戸籍謄本を机に置いていたことで喧嘩をしていましたが、
私には何もなかったかのようにそのことについては一言も触れられませんでした。
当時の私は、「だから母はこのうちにあんまり帰ってこないんだな」と感じたのを覚えています。
今にして思えば、祖父母は自分たちの子供はおらず、母と私二人を大切に育ててくれたのだと、
この年齢になって改めて感謝することができるようになりました。
この年齢になってというのも、子供のころは厳しい祖母に、つらい想い出しかないからです。
「しつけ」が厳しく、叩かれたり、水をかけられたり、包丁を突き付けられたこともあります。
今の時代ならば虐待ですよね。
なるだけ家の中ではしゃべらない子になっていました。
一番つらい思い出は、私が寝ていると思って祖母と母が会話していた時のことです。
母に、「連れて帰って自分で育てなさい」という祖母に
「できない、どうしよう」と困惑する母の言葉。
次の日、母が私に「一緒に住む?」「転校しないといけないよ、田舎と違って勉強だってついていけないかも知れないよ」と聞いてきました。
それまで、いつか迎えに来てくれると思っていたことが、現実になりそうなとき私は、
「行かない、ここがいい」と泣きながら答えていました。
この時この先も埋まることができない母との溝を感じていたのかもしれません。
私の居場所はどこなのか? 早くこの家を出て自立したいと思うようになったのはこのころからです。
今当時の母の気持ちになってみると、40年も前の時代に女で一人で子供を育てるということがどんなに大変なことなのか、それまで育児をしたことのない母にとっては不安だったのではないかと思うのです。
子を産んだだけの母、子を育てただけの祖母、どちらも経験した私には、
それぞれの気持ちを、やっと理解できる歳になりました。
結婚教育を学んでから、相手がどんな思いなのか? なぜそういう発言や、行動をしたのか?
考えるようになりました。
きっと、どちらも必死で、その時その時を生きてきたのだと思います。
しかし、それが理解できなかった私は、二人のことを好きになれませんでした。
つづく