誰かの言動に激しく感情が動く時、
そこには抑圧された自分の本心が隠れているかもしれない。


例えば。

私は、怒る人が嫌いだった。
カウンターで店員に怒鳴っている人とか見ると

あほか
とか
子供か
とか
恥ずかしい
とか

そんな感情が湧いて

あーゆー人きらい
って毎回思ってた。



でも、
最近はこんなことを思う。


もしかして、
私はその人のことが羨ましいのか?

もしかして、
私もあんな風に怒鳴ってみたいのか?

もしかして、
ずるいとか思ってるのか?

本当は
いいなぁ、とか思ってるのか?

本当は、
私も怒鳴ってみたいとか思ってるのか?




まさか!

いやいや!

んなわけない!




私は
自分の感情が動いた時

特に抵抗の感情が動いた時
それは
自分にとって禁止していることを目の前でされた時に激しく反応するのかもしれないと思っているので


そういう状況になった時には
許可してみる
ということをしている。

先の例で言えば
「私も怒鳴っていい」


大抵恐怖が出る。

怒鳴ったらだめでしょ
そんなことしたら
大変なことになる。

怒られる。


誰に?

大抵は
「お母さんに」だ。


感情に任せて怒ってもいい、怒鳴ってもいい。


そう何度もつぶやいて
自分のブロックを
外していく、ということをする。

となると、だ。


他人様は
自分のブロック発見機でしかなくて

いうなれば
センサーの役目でしかなくて。

そうなると
目障りで、気に触る他人様は
自分の価値観の偏りを知らせてくれる 親切な人
ってことになる。

私の中の現実創造の仕組みの一つに
「未来は創るもの、というより
選ぶもの」
というのがあって。


価値観が偏っていると
選択枠が狭くなるんですよ。

選択枠が広がれば
未来の選択枠も広がるわけで

それは自由度の高さでもあって。


これとこれから選んでください
と言われるより

なに選んでもいいんだよ
って言われた方がときめきませんか?


開放感が違いますよね。


遠慮して
我慢して
妥協して
偏った価値観で選んだ未来と


遠慮せず
我慢せず
妥協しないで
自由な心で選んだ未来と


どちらが満足度の高い未来になるんでしょう?


現実創造って
実は
自分の選択で決まるって

当たり前すぎて
きがつかなった私ですが

それに気づけば
どんな選択が満足どを高めるか


それは
自分が一番わかってるし
自分が一番体感できる部分です。


頭でなく
ハートで選ぶ

頭でなく
体の反応で選ぶ。

そうすれば
満足度の高い未来は
きっと手に入るのではないかと

そんなことを
思っております。