世界はすべてわたしでできている

 

世界はどこまでいってもわたしでできている

 

 

 

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今朝のふと。

 

 

 

お布団のなかで

ふと降りて来た言葉。

 

 

 

起きてその意味を頭で考えてみた。

 

 

世界(現実)は

私のものの見方や解釈や思い込みで構成されている。

 

 

わたしが誰かを意地悪な人と思えば

その人は意地悪な人として私の世界に存在する。

 

 

私は最近

ある人のことを

 

「穏やかで器の大きい人」

と思っていたのに

 

「ヘタレ」

と見方を変えた、笑。

 

 

いままでわたしの世界で

「穏やかで器の大きい人」

として

存在していたその人自体は

まったく変わっていないのに

 

私がその人への見方を変えたために

 

今は

「ヘタレ」

として現れている。

 

 

 

かわいそう!笑

(失礼な私)

 

 

 

 

おそらくだが。

 

その人は

穏やかな人であり

器の大きい人であり

ヘタレな人である

(ほかにもあるだろう)。

 

 

つまり

いろんな側面を持った複合体で

 

ヘタレ一色な訳ではないということ。

 

 

私が

ヘタレな部分にスポットライトを当てているがために

 

ヘタレという見方をされているだけ。

 

 

 

 

月がいい例かも。

 

 

三日月は

本当は丸いのに

光の当たり方と地球からの見え方のせいで

 

三日月と呼ばれる。

 

 

本当は丸いのに。

 

 

あの人三日月な人ね

(あの人はヘタレね)

私の光の当て方が偏っているから。

 

 

正面から当てれば

丸いことに気づくはすなのに。

 

 

でも、「丸」もまだ不正解だよね。

 

 

本当は「球」だから。

 

 

いろんな角度から観察しないと

本当の事は分からないんだろうね、きっと。

 

 

 

ということで改めて書くと。

 

 

世界はすべてわたし(の解釈)でできている。

 

世界はどこまでいってもわたし(の見方)でできている。

 

 

 

 

でも、

これすらも、私の世界で見えていること。

 

 

 

 

あなたの世界からみたあなたの世界は

いったいどんな世界なんだろう?