ただ不公平しかない。
だってそうだろ? 生きたいとどれほど願っていても、病気だったり事故であっけなく命を失ってしまう。
生きられる体を持っているのに、精神を病んで自ら命を絶ってしまう。
この世界に優しい神様がいるなら、きっとそんなことさせない。
この世界にはきっと悪魔しかいない。
神様なんていない。
そう思っていた。彼女に会うまでは。
僕は生まれつき心臓が弱い。
心臓を移植すれば何とか助かるらしいが、ドナーなんて奇跡でも起こらない限り無理なことはよく分かっていた。
それでも両親は願っていた。奇跡が起こることを。
優しい両親はいつだって僕のためにしてくれた。
莫大な医療費は、一般庶民には厳しい。それでも父は必死で働き、母も必死で働いた。全ては治療費のために。
でも僕は二人には無理して欲しくない。僕なんかのために、命を削るようなことをして欲しくない。
半ば僕はこの命を諦めていた。
こんな命が一つ消えたところで、世界は変わらずに廻っている。
両親はきっと泣いてくれるだろう。だけどいつか僕を忘れてしまう。
もしかしたら、本当はうとましく思っているのかもしれない。僕がいることで、今あるはずの幸せな生活が乱されている。
病院という牢獄の中で、ただ生かされているだけの僕に一体どれほどの価値があるというのだろう?
昼間は両親が働いているので、一人で過ごすことが常だった。
幼い頃は両親の祖母たちが代わる代わる付き添ってくれたが、祖父母たちだって歳を取る。しかも遠方から来るのはやはり大変だということで、僕は毎日来なくても大丈夫だと伝えた。もう十分一人でいられる歳だし、祖父母にも負担をかけたくなかった。
僕が気を遣っていると汲んでくれた祖父母は一週間に一度、僕の顔を見に来てくれた。僕にはそれで十分だった。
今日はやけに空が青い。外は夏空が広がり、蝉が短い一生を悔いのないようにけたたましく鳴いている。
今年は梅雨らしきものはなかった。時々雨は降ったが、それもすぐに終わり、季節はいよいよ夏へと向かい始めていた。
相変わらず僕は病室に閉じ込められている。
看護士が開けてくれた窓からは少しずつ変わり始めた風の匂いが吹き込んできた。
ふと僕は外に出たくなった。こんなことは珍しい。
僕は看護士を呼んで、車椅子に乗り、外に連れ出してもらった。
庭の木陰に車椅子を止めてもらい、一時間後に迎えに来てもらうことにした。
一人になった僕は目を閉じた。
木の葉の囁き、木漏れ日、風の匂い、その全てを愛おしく感じ、嫌いになった。
どうせいつか僕はこの世界から突き放される。真っ暗な地の底へと落ちていく。
優しい腕も、甘い匂いも、暖かな感触も。
いつかきっと何も感じなくなってしまう。
それならばいっそ、僕から嫌いになってやる。
ふと視線を感じ、僕はハッとした。視線の方に目をやると、そこには一人、色の白い女の子がこちらを不思議そうに見ていた。
白いワンピースを着た彼女は、妖精と見紛うほど、美しかった。僕の拙い表現力では表現しにくいが、とても綺麗だった。
僕と彼女はお互い見つめ合ったまま、固まってしまった。この無言の時間をどうにかしようと、僕から口を開いた。
「キミは……? ここで何をしてるの?」
「……私はマキ。散歩してたの。……キミは?」
「僕は……ヒロシ」
「ヒロシくんか。キミはどこか悪いの?」
「……心臓」
「そう。母と同じだわ。母もここで入院してたの」
過去形が気になったが、聞く気にはなれなかった。良くなって退院したのか、もしくは……。その二択しかないのだから。
彼女は僕を見て柔らかく笑った。その笑顔は今まで見た誰よりも綺麗だった。
「ねぇ、ヒロシくんは生きたいと思う?」
初対面の人に聞く質問にしては直球過ぎるが、その目は真剣そのものだったので、僕は口を開いた。
「そ、そりゃあ、生きられるのなら……。でも……死ぬなら死ぬで……早く死にたい……」
それは本音だ。初めて口にしたが、ずっとこう思っている。だって生きてる価値なんてないのだから。
「……そっか。この世界は不公平よね。生きたいと願う人ほど早くいなくなってしまう」
彼女の言葉に驚いた。僕もずっとそう思っていた。
「上手くいかないものね」
マキはそう言って笑った。その笑顔は悲しさで満ちていた。
彼女は不思議な人だった。クルクルと変わる表情に僕は釘付けになっていた。
歪んだ心を持った僕には、真っ直ぐで綺麗な彼女が眩しかった。
彼女といろんな話をした。僕と彼女は百八十度違っていた。しかしその考え方の違いは僕にとって新鮮だった。新しい見方ができるのが楽しかった。
同じ物事でも目線を変えれば、全く違う。
どうしてこんな当たり前のことに気づかなかったのだろう?
「どうして地球は丸いと思う?」
「さぁ?」
突然の彼女に質問に僕は驚いた。そんなこと考えたこともなかったのだ。
「誰も隅っこで泣かないように。みんなが手を繋げるようにだよ」
目から鱗だった。そんな風に考えられる彼女を羨ましく思った。
「だけど今の世界はダメね……。みんな、自分のことしか考えてない」
そう言った彼女の目線は下へ下がる。その言葉に僕は頷いた。
「だって……神様なんて……いないもん……」
そう吐き捨てるように言うと、彼女はきょとんとした。
「どうしてそう思うの?」
「だってそうだろ? もし神様がいたなら、こんな世界許さないよ」
僕の言葉に、彼女は頷く。
「確かにそうかもね。……でも神様だって、我慢してるのかもよ?」
「え?」
彼女の言葉に僕は驚いた。そんな風に考えたことがなかった。
「だって、生まれつき悪い人間なんていないもの。生まれた場所、環境、時代。いろんな要素で人は善人にも悪人にもなる。始めから心根が悪い人なんていないわ」
「そう……だけど……」
彼女の言葉は妙に説得力があった。
「いつかきっとこの世界を浄化してくれる。私はそう信じてる」
そう言った彼女の目は凜としていて、意志の強さを感じた。
「ヒロシくん」
呼ばれた方に顔を向けると、看護士が迎えに来ていた。
「そろそろ病室戻りましょうか」
「あ、はい」
促され、僕はマキの方を振り返った。しかしそこには誰もおらず、さっきまで確かにそこにいたはずの彼女の姿はどこにもなかった。
「どうかしたの?」
看護士が訝しげに聞いてくる。
「あ、いえ。何でも……」
そう言うと、看護士は僕の車椅子を押し始めた。
今のは誰だったんだろう? どうして彼女はここにいたのだろう?
不思議で仕方がなかった。たった一時間なのに、何時間も彼女といたような錯覚に陥る。
本当は彼女は存在しなくて、僕が見た幻想だったのではないか?
そう考えて、僕は首を振った。そんなはずはない。
確かに彼女はここで僕と話をしていた。だって僕と百八十度違う考え方を持ってたじゃないか。
きっとタイミングが良すぎたんだ。
僕はそう思うことにした。
翌日も空は晴れ渡っていて、心地よい風が吹いていた。
看護士に頼み、昨日と同じ時間に同じ場所へ連れて行ってもらった。
相変わらず優しい木の葉の囁きが僕の耳を占領する。
「あら」
声がした方に顔を向けると、彼女が立っていた。
「今日も散歩?」
彼女はやはり柔らかい笑顔を向け、そう聞いてきた。
「うん。キミも?」
そう言うと、彼女は頷いた。
「今日も会えるとは思ってなかったわ」
彼女は本当に綺麗に笑う人だった。
「本当はキミに会えるかなって思ってきたんだ」
そう言うと、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに優しい笑顔になった。
「そんなこと言われるとは思わなかったわ。ありがとう」
素直な彼女に思わず照れる。
「キミは……神様がいるって信じてるの?」
突然の質問に驚いたようだったが、彼女は頷いた。
「だって、そう考えた方が素敵じゃない?」
彼女の目が輝く。
「素敵?」
「この世界は確かに歪んでる。でもそれは人間だけ。昔からある自然界は何も変わらず、ただ優しく存在してる。空は相変わらず青いし、木の葉の囁く音も風の匂いも太陽の光も、全部変わらない。それらは変わらずに存在していて、長い年月、人を見守り続けてる。身勝手な人間たちに存在は危険に晒されてるけど、それらは今までもこれからもきっと存在し続ける。それって永遠を生み出した神様がいるってことのような気がするわ」
彼女の話は納得できる。だけどそれだと疑問が生まれる。
「じゃあ……どうして人は永遠じゃないの?」
「それは……命を無駄にしないようによ」
「え?」
彼女の答えに正直驚いた。
「もし永遠に生きられるなら、きっと無駄に時間を過ごしてしまう。だから“終わり”を作ったのよ」
彼女の話はもっともなことのように思えた。
いや、それよりも彼女が本当は神様なんじゃないかと思う。だって彼女と話しているだけで、こんなに温かい気持ちになれるんだから。
「ヒロシくんは『死ぬなら早く死にたい』って言ってたけど、どうしてそう思うの?」
直球な質問に驚いたが、彼女の真っ直ぐな目に口を開く。
「……僕なんかが生きてても意味がないからだよ」
「どうしてそう思うの?」
「だってそうだろ? ただ病院に閉じ込められて、ただ生かされてるだけ。家族は僕の治療費を稼ぐのに自分の命を削ってる。それなら……僕がいない方が幸せじゃないか!」
思わず口調が荒くなる。初めて口にした自分の思いは、声に出すことで一層強い思いに変わった。
「優しいんだね」
思ってもない反応に僕は眉をひそめた。
「優しい?」
「だって自分のことよりも、家族のことを思ってる」
そう言われ、一瞬たじろぐ。
「違う……! 僕は……この辛い治療生活から一刻も早く解放されたいだけだ! ただ逃げたいだけの弱虫だよ!」
「ヒロシくんは弱虫なんかじゃない。強い人よ。だからそんな風に言わないで。……あなたはもっと生きなきゃダメ」
「何言って……」
彼女があまりに真剣な目でそんなことを言うので、僕は口をつぐんだ。
「ヒロシくん」
呼ばれ振り返ると、看護士が迎えに来ていた。急いでマキのいる方へ顔を向けたが、やはり彼女は忽然と姿を消していた。
「ヒロシくん?」
看護士に呼ばれ、ハッとする。
「どうかしたの?」
「……いえ、何でも……」
僕は車椅子を押され、病室に戻った。
いくら何でもおかしい。あんな一瞬でいなくなるなんて。タイミングが良すぎるとかいう問題じゃない。
彼女は一体何者なんだろう? どうしてあそこにいるのだろう?
明日会ったら聞いてみよう。
しかし思惑は外れた。翌日は忘れていた梅雨を思い出したかのような土砂降りだった。
この雨じゃもちろん外にも行けないし、行ったとしても彼女は現れないだろう。
それから雨は一週間降り続いた。
ようやく晴れた日、僕は例のごとく外に連れ出してもらった。
土はまだ乾き切っておらず、唯一通れるコンクリートの上を車椅子はゆっくりと進んでいた。
久しぶりに晴れ渡る空は、何だか懐かしく、愛しく、嫌いだった。
『あなたはもっと生きなきゃダメ』
彼女の言葉がこの一週間ずっと脳裏に焼き付いて離れなかった。どうして彼女はこんなことを言ったのだろう?
僕が自殺志願者にでも見えたのか? あながち間違いじゃないけど。
ふと空を見上げると、ちょうど目に太陽の光が入ってきた。眩しくて目を逸らす。
こんな暖かく光ある眩しい世界に僕は必要ない。
何の役にも立たず、ただ生かされているだけのこんな僕なんて……。
光があるなら僕は闇だ。だから光の世界にはふさわしくない。闇の世界がお似合いだ。
看護士と別れ、いつもの場所で彼女を待つ。
しかし一向に現れない。この一週間、ずっと雨で彼女もそれを期に来なくなったんじゃないか? 彼女はもうここには来ないんじゃないか? そんな気がしてきた。
それならそれで構わない。たった二度しか話したことがない。情が移る前で良かったとさえ思う。
どうせ僕は嫌われる。だったら早いほうが……。
諦めてる。この世界で“普通”に生きることさえできない僕は、何を望んだってダメなんだ。
押し潰されそうな感覚。どうせならこのまま押し潰されて消えてしまえたらいいのに。
そう願ったって僕はこうしてしぶとく生きている。
自ら命を絶つことさえできない自分はただの弱虫だ。
風が吹き、木の葉がざわめく。木漏れ日が揺れ、まだ残る雨の匂いが鼻をくすぐる。
止めてくれ。もうこの世界の優しさを見せつけないでくれ。
頭を抱え、目をぎゅっと瞑る。目の前にはただ真っ暗な空間。
僕にふさわしいのはこういう世界だ。
色とりどりの美しい世界なんて、僕には似合わない。
消えてしまえばいい……! 僕なんか! 僕なんか消えてしまえばいいのに!
木々のざわめく音。いつもより強い風が吹き抜ける。
その瞬間、誰かの気配がして、顔を上げた。
「……マキ……!」
驚いて思わず名前を呼んだ。相変わらず彼女は綺麗だった。
白い肌は更に色白く、透き通るようだった。そして相変わらず彼女は柔らかく笑った。
「久しぶりね、ヒロシくん」
彼女の透き通る声が耳をくすぐる。
なぜだか分からないけど、涙がこみ上げてくる。泣きたくなる気持ちを抑え、心の奥に押し込む。
「どうかしたの?」
マキは僕の様子がおかしいことに気づいたようだった。
「……何でもないよ」
彼女の綺麗な瞳に吸い込まれそうな気がして、目を逸らす。
「本当に?」
念を押されるように聞かれる。僕が何も答えないでいると、彼女はゆっくりと近づいてきて、僕の手を取った。
彼女の手は優しくて温かくて、冷たかった。
「ねえ、ヒロシくん。忘れないで。あなたは生きるために生まれてきたの。だからいなくなればいいなんて考えないで」
「!?」
どうして僕の考えが分かったんだろう?
「どうして……?」
僕の疑問には答えず、彼女は優しく笑った。
「私はずっと、あなたの傍にいるから。だから……生きて」
「それってどういう……っ!」
その瞬間、全身が沸き立つような音がした。胸が熱くなり、激しく鼓動を打つ。
知っている。これは発作だ。
『次に発作が起これば、命の保証は……』
以前こっそり聞いた医者の声を思い出す。
そう、僕には“期限”がある。普通の人よりも遙かに短い期限が。
こんな僕がどれだけ彼女に『生きて』と言われても生きられるはずがない。
望んだって変えられないのに……。
「ヒロシくん!!」
慌てて駆け寄ってくる看護士の声が遠くで聞こえた。
視界がボヤけてる。全ての音が遠ざかる。
相変わらず光は僕を突き刺して、木々の囁きは耳を劈く。
ああ……もうこの世界とお別れなんだね……。
闇に落ちていく僕に最後のお別れをしてくれてるんだ……。
ありがとう。優しくて暖かい光の世界。愛おしくて嫌いだったよ。
目を開けると、そこには見慣れた天井があった。
「ヒロシ!」
聞き慣れた声が僕を呼ぶ。少し目線をずらすと心配そうに覗き込む父と涙ぐんでいる母が見えた。
あれ?
「良かった! 目が覚めた! 先生呼んでくる!」
父は慌てて病室から出て行った。母は祖母に肩を抱かれ、泣いている。
「あれ……僕……」
事態が飲み込めない僕は、近くにいた祖父に視線を向けた。
「奇跡が起こったんだよ」
「え?」
僕が倒れた後、手術室に運ばれた。ちょうどそのとき脳死判定された心臓があり、適合すると判断され、移植されたらしい。
まるで絵に描いたような出来事だ。
奇跡なんて起こらないと思っていたのに……。こんな僕に奇跡が起こるなんて。
その後、退院の日も決まり、僕は晴れて自由の身になった。
自分で歩く。普通の人にとってはごく当たり前のことも、今までできなかった。なるべく心臓に負担をかけないようにと、移動は全て車椅子だった。
僕は自分の足で、彼女と出会った場所へと向かった。
コンクリートで固められた地面は固くて、不思議な感触だった。
相変わらず光は降り注ぎ、木々がざわめき、風が鼻をくすぐる。
突き抜ける青い空も、青の海を漂う白い雲も、眩しすぎる太陽も変わらずここにある。
だけどどれだけ待っても彼女は現れなかった。
あの日、僕が倒れたあの日。もう彼女は現れないと分かっていた。
彼女のあの真剣な眼差しと柔らかい微笑みだけは、今もこの目に焼き付いている。
目を瞑ると、真っ暗な空間が広がる。だけど……それでも、光を感じる。木々の囁きは更に音を増して聞こえる。風の匂いを感じ、太陽の暖かさを感じる。
胸に手を当てると、鼓動を打つ音が聞こえる。僕じゃない誰かのこの心臓は、確かに鼓動を打っている。
『私はずっと、あなたの傍にいるから』
ふと彼女の声を思い出す。凜とした透き通る声。
気づけば僕の目から涙が溢れていた。ただただ涙が零れた。
あぁ……そういうことか。キミだったんだね。
僕の胸で鼓動を打っているのはキミだったんだ。
一つ一つの鼓動は僕に『生きて』と訴えてる。
ありがとう。生きるよ。これからどんなに辛いことがあったとしても。
例え死にたくなるような辛くて惨めな人生だったとしても。
キミがくれたこの命を無駄にしないように。
今日も相変わらず空は青くて、日差しは暖かくて、木々が囁いてて、風は優しい。
嫌いだけど、愛おしい。
ありがとう。僕の神様。
久しぶりに書いたら書き方が変わってる気がします・・・。
しかもインスパイアなのに短編ぐらいのボリュームに(;0_ゝ0)
まぁ・・・たまにはいいかなーとか自己完結してみたり。
ずっと書きたかったもので、PC壊れてた間にほぼ一気に書きましたw
最後の方はあとから書いたけど。
イメージ壊れたらごめんなさいorz
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