・・・えっと、今回長いです、すみません。( ̄ー ̄;
昨日、年上の絵描きのM子さんとお会いして、
お互いの声が枯れるまで、(笑)途切れることのない、
楽しい芸術についての、お話をした。o(^▽^)o
今回、M子さんの言葉で、今まで自分でも意識していなかった、
いろいろなことに気付くことが出来た。(*v.v)。
そして今日は、Tさんのメールを読み返してみた。腑に落ちることが多く、
M子さんと同じような解釈もあった。
私は、「突然に死んでしまった姉」や、
「昨日まで元気に喋っていたのに、次の日から寝たきりになって、
意思の疎通が殆ど出来なくなった母」や、
「治らない持病のある、半身麻痺の父」を持つ。
私はここ何年かで、今まで知らなかった、死の淵を覗き込んできたのに、
自分ではそのことに、あまり気が付いていなかった。
(いや、目を逸らしていたのかもなぁ・・・。)
自分は、よく考えてみれば、死と生の世界を、ちゃんと観て来たのだ。
それが感覚となって、自然と身に付いていたのではないだろうか?
常に私の周りに付き纏っていた、痛みの世界。
その痛みを、優しさや愛情で包んで、
“観てくれる人の、傷を癒せるような画”・・・を作りたい、と、昨日、思った。
おこがましいけれど。
私は今まで、大学の教授の、
「観客のイメージを膨らませるような絵は、失敗作。
作者の意図したものが伝わらなければ、それは失敗なの。」
・・・という言葉を、ずっと信じ続けてきた。
でも最近、あ、そうではないな、ということに気が付き始めた。
Tさんの言葉や、M子さんとのお話の中で。
昔、国語のテストでも、同じことがあった。親友のいちこちゃんから、
聞いたことがある。(いちこちゃん、間違ってたらごめんね~!)
国語のテストの模範解答を見た作家が、
「この答えは、私の考えと違うんだな~。」・・・と、言ったそうだ。
学校の先生だって、作家の思考が分からなかったのだ。
絵画の世界でも、同じことなんだ。
教授の考え方は、教授のポリシーで、師匠にもそう教わり、
実行してきたのだろう。素晴らしいことだ。
でも、今の私には、共感出来ない。違うんだ。
絵画は、算数じゃない。観てくれる人の分だけ、答えがある。
勿論、私の意図が伝われば、最高で、とっても嬉しい。
でも、悲しい気持ちの人が観れば、悲しい画に映るだろうし、
幸せな気分の人が観れば、希望を感じる画に映るだろう。
M子さんは、
「紫ちゃんの今の人生の時期はね、秋なのよ。
今まで、様々な体験をしてきたわね。
介護や、家のこと、お姉さんの死は、辛い出来事だったわね。
でも人生には、何の無駄も無いのよ?
全てが、紫ちゃんの大切な、糧となっているの。
私もね、おばあちゃま(お姑さん)の介護は、辛かったわ。
私の手を掴んで、噛みつこうとされたり、
病院へ行くたびに、「何しに来た!帰れ!」・・・と、怒鳴られたりね。
あんなに素晴らしかった、おばあちゃまが、すっかり変わられてしまって。
悲しかったわ・・・。
寝たきりの息子の、自宅介護も大変だったけど、
自分でちゃんとすることが出来て、本当に良かったと思っているの。
紫ちゃん。今まで、人生の春と夏の時期に、たくさんの種をまいてきたわね。
今はその豊かに育った実を、全て刈り入れる時期なの。
あなたは是非、今までの体験を踏まえて、見目麗しい画を作ってね。」
「私の今の人生の時期はね、冬なのよ、うふふ。
冬はね、次の春へ向けて、準備をしながら、待つ時期なの。
私は、そんな冬が大好きよ。」
・・・と、仰った。・°・(ノД`)・°・
(分かりやすいように、ちょっと変えてあります。)
そして、Tさんも同じことを仰ってみえたが、
やはり画は、パソコンの中で観る、データという形だけではなく、
具体的なカタチにしてみた方がいい、と仰った。
(オブジェや、紙に写してみたり・・・。)
生と死。私は、両方を知っていた。(少し、はね。)
若い時は、なーーーんに分からずに、マスターほにゃららな絵ばっかり、
描いていたような気がする。
(それはきっと、若い、エネルギーが溢れて出ていた、夏の時期だね。(・∀・)
でも、これからはそうじゃない。豊かで美しく実ったであろう、たくさんの実を、
大切に刈り入れようと思う。画でね。
濃い紫色の、見目麗しい実のような、作画を目指したい。
そんなに簡単には、出来ないだろうけれども、ね。ヘ(゚∀゚*)ノ
紫の実