今日は母の命日です。
もう私の記憶が正しければ14回忌になります。
奈良のお墓に行くことはできませんが、
いつもこの時期メンタルのバランスを崩すのもあるし
せめて命日ぐらいは静かに母を思い過ごしたくて
本来なら木曜は忙しくてシフトが入っているのですが
上司のご好意でお休みにして頂きました。

今日は静かに母を思い出し
ただ日常の忙しさで忘れているだけで
消えない悲しみ寂しさに浸り、
母との何気ない会話や母と近所までよく買い物に行ったりしたことを思い出したいと思います。
入院してる母が、保険屋さんが来たときに、桜はもう咲いてますか?と朦朧とする中聞いていたそうです。

母はお花が大好きな人でした。
毎年春には近所の公園の前は桜で満開で桜通りのようになって母と眺めながら歩いたのを思い出します。
しかしながらその年は母に桜を見せてあげることはできずにこの世を去りました。
その数日後その公園の前の桜は咲きました。

今でも後悔することは沢山あります。
だから、せめて同じ様な思いをされている方が後悔されないようにという意味も込めてこのブログを始めました。
そして母が癌と闘った証としては残したかったのもあります。

同じように癌で苦しむ方はいまも沢山います。
でとあれから10年以上経って医療もかなり進化したと思います。新薬も沢山出たでしょう。
先日自分の保険に入るために保険屋さんに行って知ったのは
昔は手術から始まり、退院して通院治療だったのが、
今は入院日数を、減らすためというのもあるのとかで
まずは通院治療から始まり癌を小さくしてから入院して手術をする様に変わってると聞きました。
その方が患者さんの体への負担も少ないと思います。

母はステージⅣの末期で、モルヒネもあまりもう効かず、でも薬と痛みで意識は朦朧とし、
樹木希林さんが言ってた全身癌でした。
癌は全身に転移していて、頭蓋骨やらあらゆる骨などに転移してしまっていました。
相当辛かったと思います。
それでも母は諦めずに生きようとしました。
リハビリをがんばったり、足の骨に転移してしまってるのでもう歩けないと担当医に言われて泣いたり、
負けず嫌いで強かった母は最後まで強かった。
本当に強かった。
でも私は親御という二人きりの近い空間で素直になれず、私自身も転院を迫られていていろんな病院にCTと紹介状を持って行っては断られ、毎日会社の上司に抱けば事情を話して面会時間の少し前に毎日会いに行き、でも段々としんどくなってきて土日祝日は早く来てというメールがいつも来るけれども昼から面会に行き、酷いことも言ってしまったし、素直に接することができなかったのが本当に後悔です。

一人っ子の私を遺して自分が亡くなるのはとても心配だったと思います。
そして何よりまだ生きたかったと思います。
やりたいことまだまだ沢山あったと思います。
癌は無情にも母の願いを叶えぬまま命を奪いました。

今日が山だと言われてナースステーション横の観察室に移されて亡くなる直前異常に高熱になり、高熱のせいだとは思いますが涙が沢山溢れ出ていました。
最後にわたしは初めて、お母さん愛してるよ、この世で一番愛してるよ、お母さんの子供に産まれてきて良かったと言えました。
伝わったかはわかりません。
でも父親と母親って無償で愛してくれる唯一の存在だと思うんです。
何があっても無償で愛してくれる母がいなくなることが辛くて悲しくて寂しかった。
いつもわたしのことばかり心配してくれていた。
いつも強くて、わたしの前では弱味なんて見せない人だった。
なのに私はとてもとても弱っちい人間です。

できることならもう一度母に会いたい。
ここの地方はまだ桜は咲いてないけど桜が咲く頃母と一緒にこの道を一緒に歩きたい。
綺麗な綺麗な満開の桜を見せてあげたい。
綺麗ねって一緒に手を繋いで歩きたい。
親不孝な娘でごめんね。
寂しい思いたくさんさせてごめんね。
優しい言葉かけられなくてごめんね。
早くお見舞いにいけなくてごめんね。
お墓からは桜は見えますか?
お父さんと一緒のお墓で、あの世で今は仲良くやってますか?

私は元気です。
あの時27歳でしたがもう40歳になりました。
もう大人です。
でも大人になりきれてないところが沢山あります。
いまだに弱っちい人間です。
お母さんが生きた年まであと20年も?20年しか?ありません。
私はお父さんとお母さんの分まで長生きしたいです。

よく昔言ってましたね。
死ぬ時は苦しまずに迷惑かけずにころっと死にたいと。
でも母と過ごした109日間の病院での闘病生活は私には大切なものでした。
母は辛さしかなかったかもしれません。
ころっと死にたかったかもしれません。
なのに苦しい思い沢山させてごめんね。

お葬式の時火葬場で見た母の骨は細くて細くて…
父の時も思いましたが先ほどまで生きていた人間を焼いてしまうなんて残酷なと思いました。
母の時も同じことを思いました。
母が亡くなったあの日はお天気が良くて暑いぐらいでした。
空は真っ青でした。
父が亡くなった日もお天気が良くて空が青くて暑かった。

私は27歳で初めて喪主を務めました。
喪主は決めることが多くて悲しんでる暇もなかったけど、時間が空くたびに、私がかわりに死ねば良かったとその時お付き合いしていた彼の横で号泣しました。
本当になぜあんなに強くてまっすぐで頑張ってきた母が亡くなって私が生き残ってしまったんだろうと思いました。
生き残された人の方が亡くなった人より辛いとも思いました。
辛くて辛くてこの辛さから逃れられるなら死にたいと思った。

それでも喪主はしないといけません。
参列者の方は涙で誰がきてくださったか見えませんでした。
ただ上司が来てくれていたのは覚えています。
そして確かお通夜が終わった頃、仕事が終わった先輩、同期、後輩が来てくれました。
あの時見慣れた顔を見て安心したのかまた号泣してしまいました。

私の人生はあれから沢山の素晴らしい人たちに支えられて今まで生きています。
父と母が亡くなった代償に、私に人との出会いを置いて行ってくれたのかなと思っています。
母はいつも私に行っていました。
「感謝で謙虚な気持ちを忘れないこと」
いまもそれは忘れません。

ブログを書いていたら久しぶりに沢山涙が出ました。
今日はまだ桜は咲いていませんが母と一緒にいるつもりで散歩しようと思います。

このブログの本当に一番初めは母の闘病記です。
癌に関する本や情報も少し書いています。
少しでも気になった方は一番最初を見てくださると幸いです。

最後に私に関わってくださった皆様
母の病気と向き合ってくださった主治医、担当医、そして看護科の皆様、ケースワーカーの方
心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。