ひでです。お早うございます。インドの旅行記はもう少し時間を頂いて、お城編を終わらせます。悪しからず。

小倉城は5月15日に行ったお城です。

場所:福岡県

城主:毛利元就→毛利勝信(旧名森吉成)→細川氏→小笠原忠真

石高:15万石(小笠原時代)

別称:勝山城

来歴:「小倉生まれで玄海育ち~」でお馴染みの小倉城です。笑

関門海峡に面した小倉は交通の要衝であり、この地を手に入れようと色々な大名が攻防を繰り返しますが、戦国時代に入り毛利氏が城を立てたのが小倉城の始まりです。

(お姫様に案内してもらいましょう。御籠が小さく見えます)

その後、豊臣秀吉の九州平定の功により、森から改名した毛利勝信(備前の毛利とは関係ありません)が小倉を与えられます。

関ケ原の戦いで西軍についた毛利勝信が改易されて、後に細川忠興が入城します。

しかし、熊本の加藤氏が改易になり細川氏が熊本に転封され、後には小笠原氏が入りました。

小笠原氏は徳川家の血を引く譜代大名として、九州諸大名の監視の命を帯びていたと思われます。

この小倉が戊辰戦争の時に一躍表舞台に立つことになります。

第二次長州征伐に従軍していた九州各藩ですが、幕府への不満や薩長同盟の締結により薩摩藩から長州藩への物資の供給で九州各藩は戦闘に消極的で、長州藩の矢面に立った小倉藩は城に火を放ち退却してしまいます。

小倉城を長州藩が占領するわけですが、幕府は将軍の死亡を理由に長州征伐を中止してしまいます。結局、小倉城下は小倉藩に返還されず、長州藩支配下に置かれ続けました。

以降、幕府の権威は地に落ち、大政奉還から戊辰戦争へと続き、幕府は消滅してしまいます。と、ここまでは城内の資料を参考にしました。

堀を渡って城内に入ろうと思いましたが、?ここって神社じゃないの?

やはり神社でした。

天守閣はその先の様です。

多門口門跡を入ります。

本丸口ですね。虎口になっていました。

水堀が見えました。

巌流佐々木小次郎と二天一流宮本武蔵の戦いの場面です。

それから390年後、私たちが舟島に行って戦った時の物です。

当時、武蔵は豊前小倉藩細川家に二天一流の師として仕えていました。佐々木小次郎は巌流の師として仕えていました。一説によると、弟子らが互いの師の優劣で揉めたことに端を発し、門人らの争いが私闘を引き起こしたとされています。

色々な話が伝わっていますが、常識を覆す説を一つ。約束の刻限に遅れてはならじと船に乗ろうとする小次郎に、浦の者が「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください」と小次郎を止めました。しかし、小次郎は「武士が約束を破るは恥辱」と強引に島に渡り一人で挑みます。

しかし、武蔵には4人の弟子が加勢していて、小次郎は討たれてしまいます。浦人たちは小次郎の義心に感じいって、この舟島に墓を作り冥福を祈り、それ以来ここを「巌流島」と呼ぶようになりました。

普通の常識は、本とか講談とか映画とか仕込んだもので、当てになりませんね~。

さあ、天守閣に登りましょうか。

 

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