ひでです。お早うございます。いよいよ去年の春に訪れたお城探訪に一区切りがつきます。は~長かった~。もうすこし最後までお付き合いください。月山富田城は5月18日に行ったお城です。

場所:島根県

城主:佐々木(京極)氏→尼子氏→毛利氏→吉川氏→堀尾氏

石高:尼子時代は山陰・山陽11か国を統べる。

別称:月山城

来歴:近江の国を本拠地に持つ宇田源氏の佐々木氏が鎌倉幕府設立に尽力した功で守護となり築城したのが始めと言われています。その後、佐々木氏は勢力を増やすと、にちのち京極氏や六角氏と名前を変え、血筋は引き継がれて行きました。

足利尊氏が鎌倉討幕の挙兵をすると、京極氏の系統である佐々木道誉は、尊氏の幕府離反に同調して北条氏打倒に加わり、足利政権における有力者となりました。

話を戻して、鎌倉幕府から出雲守護に任じられた京極氏は、同族の尼子氏を守護代として近江国から下向したしました。その後、室町後期には尼子経久が京極氏から月山富田城を奪い、戦国大名として独立します。

経久は独立した勢いのまま近隣諸国を支配下に置き、山陰・山陽11か国を勢力範囲とし、尼子氏の全盛時代を築きました。その頃、尼子氏の配下だった毛利元就の器量に警戒心を持っていた経久でしたが、それを察した元就は尼子氏と敵対する大内義隆に寝返りました。そのため、怒った尼子氏による郡山合戦が始まりました。

結局、毛利征伐は失敗に終わります。それを見た安芸・備後・石見の国人領主から尼子氏を見限る者が増えていきます。しかし依然大きな勢力だった尼子氏に、元就は内紛の火種を投げ入れます。尼子氏の軍事力のかなめ、新宮党を切り離そうと策略を巡らせます。

そうしているうちに、経久が亡くなり、孫の(長男は戦死)晴久が家督を継ぐと、自然に新宮党の発言力が強くなり、それを嫌った晴久が、元就に計略もあって新宮党党首の尼子国久(経久の弟)と誠久を殺してしまいます。

これで尼子軍の戦力が低下したと判断した大内義隆は月山富田城目指して軍を勧めました。月山富田城に着陣した大内軍ですが、ここで思わぬ事態に見舞われます。最近大内氏に寝返った多くの国人領主が、まるで申し合わせたように尼子氏についたんです。

当初は優勢だった大内軍も出雲の奥深く迄攻め込んだ不利を悟って撤退しますが、月山富田城から攻め出た尼子軍に完膚なきまで叩かれ、総大将の養嗣子のまで晴持まで討たれる惨敗を喫してしまいました。

これ以降、大内氏は戦いから目を背け、陶氏の離反など、大内氏の衰退がはじまる一戦となりました。この戦いを第1次月山富田城の戦いと言います。

戦後、晴久は失った勢力の回復に尽力しましたが、大内氏の方では陶晴賢が下克上で大内氏を滅ぼし、その機に乗じて毛利氏も勢力を拡大し、また、三村家親、浦上宗景、山名祐豊などの毛利側国人・大名らと一進一退の攻防が繰り広げられました。

晴久はよく戦いましたが、脳溢血で急死してしまい、後を尼子義久が家督を継ぐわけですが、新宮党の粛清から、晴久の専制により高まっていた国人領主の不満が一挙に噴き出してしまいます。

この時には陶氏を滅ぼしていた元就は、豊後の大友氏と結び防府を大友氏に攻めさせると、自分は尼子氏を滅ぼすため月山富田城に攻め込みました。その前に、敵将を調略することは忘れませんでした。この戦いを第2次月山富田城の戦いと言います。

難攻不落の月山富田城はそれでも落ちず、元就は兵糧攻めと各個撃破で力を削ぐ作戦を取り、戦いは半年以上の長期戦となり、月山富田城の兵糧も付き、逃げ出す兵も多くなり、義久は元就に降伏を申し出た月山富田城は開城しました。

安来市歴史資料館に車を止め、今までの内容を仕入れました)

月山富田城の威容です。赤丸の上にある御殿は山中御殿で、赤丸の所まで車で行けます。

地図を頼りに城跡を目指します。目の前に七曲りでしょうか?曲輪が見えます。

駐車場に車を止め歩きます。

右に大土塁があると言う事です、その先にの堀尾吉晴(茂吉)の墓があると言う事ですが、行かずにまっすぐ進みます。

暑かったんでしょうね奥様は日傘をさしています。

山中御殿は後にして、先ず本丸を目指しましょう。

七曲りを登ります。

「え~こんなとこ登るが~」と奥様。「嫌ならそこにおれ」と私。笑

途中、堀尾家のお家騒動の首謀者とさた堀尾河内の守と、息子の墓と言われた宝篋印塔が有りました。

でも、今では堀尾勘解由(だれ?それ)の墓の可能性が強まっているそうです。

そのまま上がると山吹井戸があります。

山城の水源として枯れることがないと言われています。

大分上がって来て

三の丸に到着しました。

昔の石垣が良く残っていました。

二の丸の横を通り本丸を目指します

ここからの見晴らしは最高でした。

本丸跡には勝日高守神社があるそうなんでその鳥居でしょうか?

遠く海まで見えたんじゃなかったかな?

大内軍や毛利軍が陣を築いた京羅木山の山々も見えます

もうすぐ本丸です

この石垣の上が本丸です。

勝日高守神社に来ました。ここは、その時の城の支配者から城の鎮守社としてあがめられていたそうです。

お宮さんでお参りして、下りましょうか。

山中御殿まで下りました。

昔はここに殿様の御殿があったようです。

御殿の虎口の塩谷口がそうです。厳重な備えがしてありました。

規模から行っても天下の名城ですね。

 

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