ひでです。お早うございます。森藩陣屋跡(久留島陣屋跡)は4月27日に行ったお城です。

場所:大分県

城主:来島長親氏(久留島氏)

石高:1万4000石

別称:

来歴:現地に行った時と順番は逆になりますが、先ずは豊後森資料館で森藩の歴史からお話ししましょう。

村上水軍として瀬戸内に覇をとなえた海賊集団ですが、戦国時代になると能島村上家、因島村上家、来島村上家の3家に分かれ、それぞれ毛利家や河野家(両家とも同盟関係)との結びつきを強めていきました。

そのうち、能島家と因島家は毛利氏に臣従し、来島家は河野家に臣従するようになり、陶氏と毛利氏が戦った時には3家で毛利方につき勝利に貢献したり、織田氏と毛利氏が戦った木津川口の戦いでも毛利氏の勝利に貢献したりしていました。

しかし、来島村上家は村上通総の代において姓を来島に改め、徐々に河野氏から離れ独立する気配を見せました。毛利氏が大友水軍と戦った時にも協力していましたが、作戦をめぐって毛利水軍を率いる村上武吉と不仲になったとされてます。

その後、秀吉の調略を受け織田方となった来島家は毛利・河野両氏の攻撃を受け来島通総は来島城を棄て羽柴秀吉のもとに逃げますが、本能寺の変が起こり秀吉が権力を握ると、毛利と秀吉が和睦したおかげで、通総は来島城に復帰し、1万4千石を領する大名になることが出来たんです。そのため、能島と因島家は毛利の家臣、来島家は大名と道が分かれることになりました。

秀吉が亡くなり関ケ原の戦いが起きた際には西軍に与した来島氏でしたが、妻の伯父さんで功労第一の福島正則の取りなしのおかげで改易だけは免除され、その代わり山の中に転封となり森藩として再出発しました。ですが、来島ははばかりますので、久留島にしました。目出度し目出度し。

さあ、久留島氏庭園を目指していきましょう。今では三島公園と呼ばれているようです。

こんな感じです。

公園を進んでいくと

こんな感じで回りました。

久留島武彦先生の童話碑がど~んとそびえ立っていました

今、グランドのような公園になっていますが、そこに陣屋が立っていました。陣屋に面した庭園でした。

森藩は小大名だったので城は持てない決まりでしたが、以前毛利高政が角埋山に築いた角牟礼城が廃城になっていたものを修理して、詰めの城の様に管理していたようです。

行ってみましょう。

御長坂を登っていきます。

三島宮が見えてきました。

登ってきた道から左を見ると栖鳳楼が見えると言う事です。月見の宴とか各種饗宴に使われたそうで、2階からの眺めも良く、天守閣の趣だそうです。

それがこれ

右を向くと三島宮がありました

階段を上って角牟礼城跡に行こうと思って

少し進むと看板が

結構先みたい。左から行けば近かったようです。今日はここまでにしておきましょう。笑

豊後森資料館に模型があったんで行った気になりましょう。笑

 

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