ひでです。お早うございます。次の来たのはアグラー城です。この城も赤砂岩で出来ていて「赤い城(ラール・キラー)」と呼ばれていますが、普通インドの赤い城と言うときにはデリーにあるレッド・フォートを指すと言う事です。

私がインドで一番見たかったのはタージ・マハルではなく、囚われの城アグラー城なんです。でも、タージマハルも素敵でしたね。アグラー城ももちろん世界遺産で、この旅で8個目の世界遺産です。2日で8個ですよ。恐るべしインド、凄いですね~

アグラー城が見えてきました。

このアグラー城はムガル帝国の歴代皇帝が住まいした城で、第3代皇帝アクバルがデリーから遷都し築いた城です。材料はこの地方で産出する赤砂岩を用いて造られているため「赤い城」と呼ばれています。また、赤い色は皇帝の強大な権力の象徴でもありました。

アグラ城の建設に着工した皇帝アクバルは、イスラム王朝でありながらヒンドゥー教徒の妃を迎え、イスラム教徒以外の人々に課せられていた人頭税を免除するなど、他宗教との融和を図ったそうです。そのため中の建物はイスラムとヒンドゥーの建築的な融合が見られるそうです。どれか分かりませんが。笑

また、城内の多くの建物が純白の大理石なのは、第5代皇帝のシャー・ジャハーンによるものだそうです。さすが、タージ・マハルを建てた皇帝ですね。大風呂敷と言おうか派手好きと言おうか。でも、お陰様で今の時代になっても質実で優美なお城を見ることが出来るんですが。笑

さらに、その息子の第6代皇帝アウラングゼーブが高さ20mもの城壁を巡らせ、堅固な城塞としてのアグラー城を完成させたそうです。

正門であるアマル・スィン門から入ります。外門で入場券を見せ。

内門です。ここでセキュリティーチェックを受けました

ではここで、ムガル帝国について薀蓄を一言。

王朝名の「ムガル」とは、モンゴルを意味するペルシア語で直訳すれば「モンゴル人の帝国」になるんです。さすがにインドの人は言わないでしょうが。笑

アマル・スィン門から続く道です。長くて汗をかきました。

何故モンゴル?と思うでしょ。ティムール朝の王族であるバーブルが、近隣の国からの援助を受けて、デリー・スルタン朝を破り、北インドの平原を制圧して建国したのがムガル帝国なんです。

どこにもモンゴルが出てこないでしょ。問題はティムールなんです。ティムールはチャガタイ・ハン国の貴族でティムール王国を建てた人で、直接モンゴルとはつながらないんです。

もう一つの門をくぐります

では、チャガタイ・ハン国は?。次男のチャガタイが引き継いだ4つの国の一つでサマルカンド辺りを中心にした王国でした。じゃあ、チャガタイは誰の子?そうなんです。チンギス・ハンです。

と言う事で、長くなりましたが、ムガル帝国はモンゴル帝国の末裔なんです。なので、インドにモンゴロイドがいるのか?

ジャハーンギール宮殿です。この宮殿はムガル帝国の第3代皇帝アクバルが息子のジャハーン・ギールのために建てた2階建ての宮殿です

当時使われていたバスタブです。何故ここにあるのかは疑問です。それに、こんな大きな湯壺(うちではバスタブをこう言います。笑)だったら溺れませんか?

当そこ、ここに可愛いリスが。

大きい北海道のリスとは違い可愛いんですよ。そこに、リスを手に持ったインド人が近づいてきました。

「ひで様も持ちたいですか?」とガイドさんが聞きますので「もちろん」餌も一緒にくれて可愛いの。手乗りリスなんて初めてです。最後に勿論20ルピーです。笑

ジャハーンギール宮殿は一般人が入ることのできる唯一の場所として、皇帝が建てた建造物です。

宮殿の中庭から見える柱や梁には・・・どこがヒンドゥーとイスラムの融合なのでしょうか?。

先ほどアグラー城(囚われの城)と言いましたが、この城には悲しいお話があるんです。

「シャー・ジャハンが囚われていたところはどこなんですか?」「焦らいで下さい。そのうち行きますから」とたしなめられました。笑

そこら中に細かい彫刻があって凄いですね~

先ずシャー・ジャハンについてですが、第4代皇帝ジャハーンギールの3男だった彼は兄と弟を殺害し、熾烈な皇位継承争いを勝ち抜いて皇帝としてアグラーで即位しました。シャー=ジャハーンの意味は「世界の皇帝」だと言う事です。

(ジャハーンギールマハルと言うそうです。ここの彫刻も凄いです)

第5代皇帝となった彼はデカン高原にも版図を広げ、内政では財政を豊かにし、学者・文化人を保護して文化の発展に寄与するなどしてムガル帝国は最盛期を迎えました。

しかし、愛妃ムムターズ=マハルの死に対しては財政が傾くほどのお金を使いタージ・マハルを作り、側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになりました。20年以上に亘ってこんな生活を続けたため、晩年には重病となってしまいます。

そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなったのです。

(カースマハルと言って子供たちの寝殿だったかな?)

シャー=ジャハーンは長男を後継者としていましたが、他の3人の兄弟はそれを認めてはいませんでした。3男のアウラングゼーブはデカン太守として都を離れていましたが、このままでは他の3人の兄弟の誰かが皇帝になると思い、急遽都に立ち戻り、直ぐに父を監禁し、他の兄弟を殺して第6代の皇帝になっりました。父のシャー=ジャハーンと同じ道を辿ったことになります。因果応報ですよね。

(2階部分は世間に顔を見せることができない女性の為のお部屋だったと言われています。細かい細工が凄いという言葉ばかりでは、語彙がありませんね)

中空の壁なんかあって風が通って、水が通って考えられていました。

第5代皇帝シャー・ジャハーンが妻の居室として建てられました。ここからは、タージ・マハルを眺めることができます。
白い大理石に描かれた蔦や花柄が、とても女性らしく描かれていました。王妃の部屋だな~と納得ですね

アングリー庭園はよく手入れされた幾何学模様の庭園です。日本の庭園ではあまりお目にかかれない庭園なんで、なんだか不思議な魅力を感じます

 

ところが、シャー=ジャハーンは直ぐには亡くなりませんでした。それから10年余り、亡くなるまで囚われた塔から愛妃の眠るタージ・マハルを見ながら・・・何を思ったんでしょうね。彼が亡くなった後はタージマ・ハルで王妃と共に眠っています。

(ここがどこだったか思い出せないな~)

この出窓のようなところが、問題の「囚われの塔」です。

シャー=ジャハーンは宝石から何から、金目の物は息子のアウラングゼーブにすべて取られてしまい、自由になったお金はタバコ銭くらいだったと言われています。タージ・マハルで国家を傾ける位お金を使った親ですから当然と言えば当然ですよね。笑

ムサンマン=ブルジュ(囚われの塔)は今も閉まっていました)

うっすらではありますが、囚われの塔からはタージ・マハルが見えます。
シャー・ジャハーンもここからタージ・マハルを眺めていたと言われ、彼の妻に対する愛の大きさが垣間見え、ちょっと切ない気持ちになりました

右に見えるのがディワーニ・アームで、こちらの神殿も白大理石で建てられていました。幾重にも重なったアーチ型の柱の造りは本当に美しかったです。

ところで、下の2枚の写真はどちらがタージ・マハルに近いと思いますか?

正解は下の写真です。ガイドさんが歴史の説明そっちのけで「不思議ポイントです」と言って連れて行くんですから。でも、本当に不思議でした。

因みにアウラングゼーブは、熱心なイスラム教スンナ派の信徒でした。そこで、ムガル帝国のアクバル以来の方針を転換し、ヒンドゥー教徒との融和策を放棄し、イスラム教徒以外の人頭税を復活させ、ヒンドゥー・仏教・ジャイナ教などイスラム教以外の寺院のモスクへの建て替えなどを強行し、従わなければ破壊しました。

ディワーニ・アームの玉座だったかな?

このイスラム第一主義は非イスラム勢力に激しい反感を買い、周辺の諸国が一斉に反旗を翻しました。と言うわけで彼の後半生は周辺の反勢力の討伐に明け暮れ、最後は戦場で亡くなりました。

井戸だったかな?広い施設に一カ所しかない大切な施設です。

版図は広がりましたが、多数の民族・宗教を抱えたなかで、宗教不寛容政策は宗教対立を招き、討伐に明け暮れる生活は莫大な戦費で財政を破綻させ、宮廷に仕える者は出仕しなくなり、各地で反乱が起き、帝国領はたちまち分裂・衰退し、ムガル帝国の求心力は急速に失われ、イギリス・フランスによる植民地侵略が始まるのです。

さあ、アグラー城はこれくらいにして、アグラーからカジュラホに向かうのに列車をチョイスしました。初めての外国での列車です。ドキドキ

 

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