ひでです。お早うございます。サールナートにはもう一つの特出すべきものがあります。ダメーク大塔(ダメーク・ストゥーパ)がありますので行きましょう。これが、10個目の世界遺産でしょうか。

ここサールナートは仏典では鹿野苑(ろくやおん)として登場します。金閣寺の正式名称「鹿苑寺」はここから来ているのではないでしょうか?。考えすぎかもしれませんが。笑

入口には壮大な建物があったことを想像させるレンガの遺跡跡があります。鹿野苑と言うんで鹿がいるのかなと思いましたが、鹿には出会いませんでした。

鹿野苑は発掘の結果、古くは紀元前250年ころのアショーカ王の太古から、インドで仏教が滅ぶ12世紀ころまでの彫刻が出土していて、敷地内にある考古学博物館に所蔵されているそうです。

当初の旅行社の計画では考古学博物館に行く計画は無かったんですが、ある出土品があるんでぜひ行きたいと言う事で、行程に入れてもらいました。個人旅行の良い点ですよね。

鹿野苑の平面図です。とっても広かったのが分かります。

遺跡の向こうにダメーク・ストゥーパが見えました。感激です。

皆さんアショカ王ってご存じでしょ?中学校の歴史で習うインドの最初の統一王朝であるマウリヤ朝の第3代の王様です。即位は紀元前250年前後です。

(この日は結構暑かったんです。それに朝早かったんでバテバテです)

そのアショカ王が建てたダメーク・ストゥーパは、高さ約42m、元の所の直径は約28mもあり、近くに寄ると部分部分に彫刻がされていました。

彼はマウリヤ朝全盛期の王様で、仏教の保護者としても知られています。その支配はガンジス川流域・インダス川流域からデカン高原まで及び、現在のインドとパキスタン、バングラデシュのほぼ全域を支配しました。

アショーカ王は国内に道路を建設し、井戸を掘り、病院や薬草園を造るなど民衆の生活の安定を図りました。仏教に帰依し、その理念の元行動していましたが、アショーカ王の死んだ後はマウリヤ朝は衰退に向かいました。

言い伝えの範疇ですが、アショーカ王最初から良い王様では有りませんでした。即位するときも兄弟と争い、99人もの異母兄弟を殺したといいます。即位後も暴虐の限りを尽くし、人々から恐れられました。

その王が仏教に改宗したのは、デカン高原にあった強敵カリンガ国を征服したときです。その時、彼は民間人を含む数十万人を殺したと言われています。

彼の通った所はすべて焼き払われ、草木が一本も生えていないといわれるほどの暴君でしたが、あまりにも無残な戦いを反省し仏教に深く帰依したとされています。(そんなうまい話があるでしょうか?。まるでお寺で聞く説教話ですね。笑)

悔い改めたアショーカ王はインド全土を仏塔で飾ろうと思い立ち、また自らの今後を「法(ダルマ)による政治」と宣伝し、またそれが実行されているのかどうかを確認してまわる「法の巡幸」を開始したそうです。

その中で、アショーカ王はお釈迦様由来の地を巡り、ブッダガヤにも詣でています。

アショーカ王は、お釈迦様の亡くなった後に建てられた塚から仏舎利(釈迦の骨)を取り出し、新たに8万4千もの塔(ストゥーパ)に分納したと伝えられています。このストゥーパもその一つなんです。

さあ、遺跡の中に入っていきましょう

(何だったか忘れました)

ダルマによる政治の宣伝方法は、統治の理想を定めた詔勅を国内各地に立てた円柱などに刻ませました。この碑文はアショーカ王碑文と呼ばれ、今でも広大なインドのあちこちに残っています。

これは何だと思います?わかる人~。笑

これがアショカ王の作った円柱なんです。私たちは歴史を見ているんです。感激です!!

そしてこれがアショーカ王の碑文です。私は今、紀元前と対面しているんです。でも、当時に一般庶民は字が読めたのかな?

皆さんは仏教には大きく分けて二通りあることをご存じですね、日本の大部分である大乗仏教と、ビルマやタイなどの東南アジアで盛んな小乗仏教です。

小乗仏教はアショカ王に(時代的には小乗仏教が先なんで)保護されて、スリランカから東南アジアに広く伝播していきました。言うなればアショカ王なくして小乗仏教の隆盛は無かったと言う事でしょうか。

(何だったか忘れました)

ところでストゥーパですが、アショーカ王時代のストゥーパの原型は、お椀をひっくり返したような形でしたが、中国に伝来するころには仏塔と呼ばれ塔の形になりました。

中国から日本に伝来すると木造の塔となりました。三重の塔や五重塔も仏舎利の一つですね。

東南アジアに伝来したものはパゴタと言う石造りの建物になりました。

また、日本の一部の地域で、死者の供養のためにお墓の後ろなどに立てる梵語などを書いた板を卒塔婆といいますね。この言葉もストゥーパに由来しているんです。

考古学博物館に入ります。写真を撮るのに別に料金がかかるそうです。「どうしますか」もちろん支払います。

先ほどもお話したように、ストゥーパはもともと、お釈迦様が火葬された後に残された遺骨などを納めた塚でした。お釈迦様が亡くなり、遺骨や遺灰(仏舎利)などは8つに分けて配られました。アショーカ王はそれらを掘り起こし、一粒一粒細かく分け、8万4000個の新たなストゥーパを各地に建設したといわれます。

(鹿野苑から出土した色々な仏像がありました)

その後、仏教が各地へ広まると、仏教の盛んな地域にもストゥーパが建てられ仏舎利を祀るようになりましたが、仏舎利には限りがあります。

最初はインドやタイにある仏舎利(仏様の本物の遺骨や遺灰の入った)の前で供養した宝玉などを仏舎利として祀るようになりましたが、あまり遠くではそこまで行くことも出来なかったため、経文や高僧の遺骨などを仏舎利とみなすようになりました。

そんなアショーカ王ですが、彼は紀元前の歴史上の人ではあるんですが、彼が掲げた壮大な政治理念(ダルマ)は、今の連邦制を敷くインド共和国では、国家運営の指標とされていると言う事です。

1950年の共和国記念日の祭典ではアショーカ王が作った石柱の頭の部分に乗っていた四頭の獅子が、その象徴として飾られたそうです。

そうなんです。それが考古学博物館に展示されているんです。それを見に来たんです。写真は発掘当初の四頭の獅子です来た。

この獅子は、広くインド政府の文書をはじめ、インドを象徴するあらゆるものに用いられているます。また、アショーカ王の石柱には法輪が刻まれていて、これは仏教を象徴するものでしたが、今ではインド共和国の国旗のデザインとして、そして紙幣にもガンジーと並んで、

それに10ルピー硬貨にも表されています。(1個だけ持ってきました)

さあ、お待たせしました。考古学博物館のロビーに燦然と輝いていたアショーカ王の石柱の頭の部分に乗っていた四頭の獅子像が、そして、法輪が

これが石柱に載っているのを見たかった~。

ここでバラナシへ戻ります。

バラナシへの道すがら、チャウンガンディ・ストゥーパがありました。このストゥーパは迎仏塔と訳され、のちに弟子となる五人の修行者との出会いの場所だそうです。この五人の修行者はお釈迦様とともにブッダガヤで苦行をしていた仲間でした。

頂上にある方形の建物はイスラム教徒が建てたものだそうです。イスラム教徒も要らんことをしますね~。

 

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