TOBE「ボタン」が予定通り(笑)落選だったので、アメ限から再うpします

暇をもてあましている方、自信をつけたい方(^^;)、お目汚しですがよろしければ……

 

 
 
◇課題「ボタン」
 
  押してはいけない
                          
「ええ、すごく気に入ったわ。でも……どうしてこんなに安いの」 
  店頭の張り紙を見て案内してもらった中古マンション。建物は少々年季が入っているが、室内はリフォームしたかのように真新しい。一人で住むには十分な広さだし、私鉄の駅にも近い。それが相場よりかなり安いのだ。
「たいしたことではないんですが……というより、私も意味がわからないんだけど」担当者はリビングを突っ切り、掃き出し窓の前に立った。
「売却の条件があるんです」
「条件?」
「ええ。売り主さんが、必ず守ってもらいたいと言うんです」
 私は黙って次の言葉を待った。担当者は困ったような微笑を浮かべると、窓のわきの壁紙の、下の方を指差した。小さな赤いボタンがあった。
「このボタンを絶対に押さないこと」
「は? それ、何のボタンなの」
「教えてくれないんですよ。ただ、押してはいけないということだけで。……いや、無理にお勧めはしません。いい物件がまだたくさんありますから」
 一瞬の躊躇のあと、
「買います」私は力強く宣言した。
 わけが分からないが、要はそのボタンを押さなければいいだけのことだ。私の出せる金額で、これだけのマンションが他に見つかるとは思えなかった。
 賃貸アパートから引っ越しを済ませると、私はぴかぴかのフローリングに大の字に寝そべった。天井が高かった。
 小さな商事会社でOLを二十年務めてきた。ひとりで生きていくことを決意してからは、同僚たちの陰口に耐え、ひたすら貯金に精を出した。ようやく自分の城を手に入れた。首を回すと、掃き出し窓の外に、澄みきった青空が広がっていた。
 ちら、と赤いボタンが目に入った。
 いやなものが一瞬、胸のうちに動いたが、すぐに私ははじき返した。
「おかしな条件をつけたものね。何者なの、あんた。ほんと、馬鹿げてる」

 一週間が過ぎ、一か月が過ぎた。
 私は赤いボタンに触ることはしなかった。
 押すとどうなるっていうの。毒ガスが吹き出るの? 天井が落ちてくる? まさかね。──そう思いながらも、何かが心にブレーキをかけた。いや、そんな大層な問題じゃない。試してみる価値さえないことだ。
「石田さん、最近、疲れてるんじゃないの」
 課長が後ろに立っていた。はっとする。いつから私はパソコンの画面を睨んだままでいたのだろう。あわてて両手を動かす。
「顔色が良くないよ。少し休んだほうがいいんじゃないか」
「大丈夫です」と答えた語気が、思いのほかきつくなった。
 トイレの外から、若い同僚の声が聞こえた。
「さっき見ちゃったのよ。エレベーターが開いたら、石田さんがボタンをドンドン叩いてたの。鬼みたいな顔してさ」
「何それ。更年期ってやつ? 怖い怖い」
  三か月が経っていた。私は、自分でもわかるほどノイローゼになっていた。
 押したい。押したい。このボタンを押したい──深夜のリビングに座りこみ、私は赤いボタンを睨みつけた。ぜいぜいと息が鳴った。人差し指の先をそっとボタンに近づけた。
 
  何も起こらなかった。
 石像のように固まったまま、私はぎらぎらと壁や天井を見回し続けた。
 立ち上がり、キッチンや洗面所を確かめた。床に這いつくばって、調度類の陰も覗いてみた。異状はなかった。
 翌日も、一週間後も、部屋に変化は起きていないように見えた。売り主の悪い冗談だったのだ。ボタン一つで大層なことが起きるわけがない。──理性ではそう確信しているのだが、心の底にモヤモヤした不安がうごめいたまま、どうしても消えてくれない。
 仕事を休みがちになった。同僚が声をかけてこなくなった。課長は目を合わさないよう、パソコン画面ばかり見ている。
  マンションを売りに出すことにした。もっと狭くて古い物件なら、買い換えることができるだろう。一日も早く転居したかった。
 この半年間はいったい何だったのか。空しさでいっぱいになる。
 空しさが、売り主への憎しみになり、世界への憎しみになった。仲介の不動産屋に、私は付け加えることを忘れなかった。
「一つだけ売却の条件がありますの。──このボタンを絶対に押さないこと」
 
 
※これから、それぞれの親元の所を1週間ほど回ります。
ネットから消えるかと思います。あしからず、です<(_ _)>