浦島太郎とかぐや姫
 
 
                                        ◇まゆつば国語教室 28
 
 
前回、浦島太郎の話がどう変遷してきたかについて書きました。
今回は、かぐや姫について。

実はこの二つ、古代人たちが宇宙をどうとらえていたかを考える上で、示唆深い話なんです。
 
始めにお断り。
「まゆつば~」と言いながら、これまではほぼ確実な国語知識ばかりでしたが、今回は正真正銘の「まゆつば」です。
文献による考証なし(笑)の、まったくの「カン」ですので、あらかじめご了承ください"(-""-)"
 
 
まず、浦島太郎と竹取物語を二つの要素に分けてみます。
 
[浦島太郎]
A 主人公が神仙界へ行って、帰ってくる話。(原型)
B 竜宮城とか、玉手箱とか、亀いじめなどの要素(追加分)
 
[竹取物語]
A 主人公が天上界から来て、帰っていく話。(骨格)
B 求婚を巡るドタバタ劇。(ミニエピソード集)
 
こう並べただけでも、構造が似ていますね。
骨格となるのは、現世と常世(とこよ=神仙界・天上界)を往復する形です。
 
Bの部分は、物語の色づけにすぎないので、とりあえず無視します。
 
Aには中国の古代思想が色濃く表れています。
浦島太郎は言わずもがな。かぐや姫も、同じような話が中国の奥地に伝わっているそうで、そもそも月に関する知識も中国から導入したんだから、影響が濃いのは当然。
 
二つが異なるのは、移動の方向(出発点)と、もうひとつ、
浦島太郎が「海のかなた」
竹取物語が「空の上」
へ行くことです。
 
さて、常世というのは、本来、どちらの方にあるんでしょう???
 
 
 
古代人の宇宙観を想像してみましょう。
現代の知識はおいといて、素朴な感性がどんなだったか想像してみましょう。
 
地面はどこまでも平ら。
日本は島国で、西の方に中国やインドがあることはわかっている。
 
そして空は、昼も夜も、東から動いてきて、西へ向かっていく。
一日に、地面のまわりをぐるりと一回りする。
 
おなじみ、マウスで描いた下手なイメージ画にすると、こんな感じ。
 
 
そうなんです。
空の上へ行くことも、海の彼方へ行くことも、同じなんです。
どちらからでも、常世に行ける!
どちらからでも、この世を取り囲む、丸い「覆い」の向こう側に行けるんです。

浦島太郎と竹取物語、ますます似てきました。
 
常世について、大事な点があります。
浦島太郎 → 仙界(竜宮城)での3年が、地上では300年だった。
竹取物語 → かぐや姫は地上で、ものすごい早さで成長する。
 
父母に別れを告げる時、かぐや姫はこう言います。
 
片時の間とて、かの国よりまうでこしかども(参上しましたが)、かく(このように)この国には数多(あまた。たくさん)の年を経ぬるになんありける。
 
常世(月の都)では「片時の間」。
それが現世(地上)では「数多の年」。
 
常世では時間はゆっくり流れる。
地上では時間が早く流れる。
 
なぜでしょう。
また、かの図を見てください。

時間が経つのは、太陽や月が回るからです。
 
その「枠」の中にいる者たちは、太陽や月が1度回るたびに、1日ずつ時間を経ていきます。
しかし、その「枠」の外にいる者たちは、太陽や月の影響をあまり受けない。
だから、時間はゆっくりと流れ、少しずつしか年を取らない。
 
「常世」と呼ばれるのも、そのゆえなんですね。
 

浦島太郎と竹取物語。
みんな、まったく別の物語と思っていますが、根っこはつながっています。
どちらも、古代人の宇宙観にもとづいた、同じような物語なんですね。(たぶん)
 
 
 
  <(_ _)>    ( ̄∇ ̄+)    (・Θ・;)    \(*`∧´)/    "(-""-)"
 
 
 
ちなみに、竹取物語のB部分。

求婚してくる貴公子たちに対して、かぐや姫がトンデモ条件を出し、貴公子たちは次々に失敗して沈没するエピソード集です。
ぼくはこの部分は、つまらない作り物だと思っています。
でも、これがきっと作者の眼目なんでしょうね。
 
作者は不明ですが、
 
1)上流貴族をおちょくるような、コケにしてあざ笑うような視線。
2)親父ギャグ(だじゃれ)が多いこと。
3)「永遠の乙女」のイメージと、乙女と父親(竹取の翁)との別れに焦点が当たっていること。
 
──から、ぼくは土佐日記の作者、紀貫之をつい重ね合わせてしまいます。
 
学問的には“問題外”なんでしょうが(貫之説なんて聞いたことない(;´Д`))、
土佐日記と竹取物語、文体がなんか似ているんですよ。
 
紀貫之は学者の家柄で、名門のプライドを持ちつつ、下級貴族でした。
出世はおぼつかない。
愚かでずるい上流貴族たちに対して、つねにうっぷんを抱えていたのでは………。
 
国司として赴任した土佐(高知)から帰京するときの様子を書き記したのが『土佐日記』。
土佐で、貫之は最愛の娘を亡くしています。
都についたとき、家族との再会を喜び合う家来たちを見ながら、死んだ娘のことを思い出してひとり涙する場面は、ぐっと胸に迫ります。
 
最愛の妹トシを亡くし、夜空を駆ける銀河鉄道にトシの面影を重ねた宮沢賢治と同じように、月の都に帰るかぐや姫に、亡き娘の永遠の幸せをイメージしたのではないか
──という気がしてなりません。
 
 
<おまけクイズ>
 
竹取物語は、平安貴族の世界では、娘に読ませてはいけない本、つまり禁書だったと言われています。
なぜでしょう ???
 
 
  <(_ _)>    ( ̄∇ ̄+)    (・Θ・;)    \(*`∧´)/    "(-""-)"
 
 
はい。
かぐや姫が、帝(みかど)の求愛を断ってしまうからです。

天皇といかに姻戚関係を作るか、それが平安貴族のいちばんの関心事。
だから、帝のお召しを断るなんて、ありえない。
「あり」だなんて、娘が思ったら、ぜったいに困るんですね。
 
竹取物語が「危険な書物」だったなんて、なんだかおかしいですね(^^;)