過去と完了
 
                                                         ◇まゆつば国語教室 38
 
 
とつぜんですが、文法の話をしてみます。
文法、みんな大好きですよね(^^;)

ぼくは中学生の時、英語の「現在完了」というのがどうもよく分かりませんでした。
たとえば「ぼくは大阪で生まれた」は
I was born in Osaka.
と過去形を使うのに、
「春が来た」は
Spring came.
ではなくて、
Spring has come.
だと……。
過去形でなく、「現在完了形」というのを使わなくちゃいけないんだと……。
何なの? 
現在完了形って何? 
何がどう違うの?
 
 
今でも、過去と完了の区別がよくわからない生徒がたくさんいます。
英語でつまづく壁のひとつのようです。
なぜか?!
 

はい。それは、日本語には「過去」と「完了」の区別がないからです。
いや。
正確に言うと、
かつては、明確にその区別があったのに、いつの間にか曖昧になってしまった──からです。
 

過去というのは、時間軸に沿った区別です。
過去─現在─未来と流れる時間の中の、過去の時点の話だということです。
(んなこと、わかってるわい、という罵声が聞こえそう(゚o゚;;)
 
完了というのは、時間軸とは関係ありません。
ある動作が「達成される段階」の区別です。
「まだ行われていない」「すでに行われ終わった(変な表現……)」という区別の中で、「すでに行われ終わった」んだということを表します。

時間軸の中におけば、それが現在の話であれば現在完了、過去の話であれば過去完了、未来の話であれば未来完了──となります。
 
「時間軸」と「動作の達成段階」というのは、まったく別の物差しです。
そして、この二つの物差しが、英語を始めとするヨーロッパ語ではきちんとしている。
日本語では、かつてはきちんとしていたが、現在は曖昧になってしまった。
──ということです。
 

口語文法(現代文法)では、助動詞「た」の意味は3つある、と教えます。
 1)過去  2)完了  3)存続
です(中1レベル)。

つまり、過去と完了と存続を同じ「た」で表すわけで、それら3つの区別は、どうしても曖昧になってしまいます。
 
 「きのうは月曜だった。」の「た」→過去
 「先生が来たぞ。」の「た」→完了
 「窓辺に置いた花」の「た」→存続
 
というわけです。
 
「た」は過去の助動詞だと思い込んでいる人が多いんですが、実は、完了の「た」は多いんですよ。
 
  しまった。 おっ、見えた。 ちょっと待った。 まいった。 やったね。
 
昔のことを言う時でなく、今現在のこととしてこれら使いますよね。
 
文語文法(古典文法)では、過去の助動詞と、完了の助動詞はまったく別です。
 
  過去 → 「き」「けり」の2つ。
  完了 → 「つ」「ぬ」「たり」「り」の4つ。
 
2つ、4つのそれぞれの違いについては煩雑なのでパスすることにして、とにかく、過去と完了はまったく別の語を使った。
だから、昔の日本人は、過去と完了が別の物差しであることをはっきり認識していたわけです。
紫式部や清少納言が英語を学んでいたら、冒頭の「春が来たはSpring cameじゃなくて~」という話は、きっと簡単に理解できたはずです。
 

では、なんで、こんなことになってしまったのか。
知っている人は、話が冗長ですみません。
知らない人は、ちょっと考えてみてください。
口語文法の「た」とは何者なのか
 
 
 
    (゚o゚;;   (・Θ・;)   (⌒-⌒; )   (〃∇〃)   ( ̄∇ ̄+)   (*ノω・*)テヘ
 
 
 
 
はい。
「行きたり」→「行きたる」→「行ったる」→「行った」
という変化です。
 
完了の助動詞「たり」が、完了のライバル3つを蹴落として生き残り(吸収合併し)、なぜか、ついでに過去の助動詞2つまで飲みこんでしまったんですね。
 
どのように変化が起きたのか(how)は、そういうことです。

でも、肝腎の「なぜ(why)そんな変化が起きたのか」は分からない。
 
たぶん、過去と完了は別のものだという認識が「なぜか」薄らいでいったんでしょうね。
いや、言語学の常識に従えば、「言葉(の働き)が変わったから、認識の変化が起きた」ということか。
じゃあ、なぜ言葉のほうが変わったのか……?? 
事情をご存じの方がいらしたら、ぜひぜひ教えてください。(〃∇〃)
 
 
それにしても、過去は分かるけど、完了はやっぱり理解しにくいですね。
mizukiさんが二次創作してらっしゃる『伊勢物語』から、有名な「東(あずま)下り」の一節を見てみましょう(完全に授業モードww)。
 
三河の国、八橋といふ所にいたり(至った)。
そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば(水の行く川が蜘蛛の手のように八つに分かれているので)、橋を八つ渡せによりてなむ八橋といひける。
その沢のほとりの木の蔭に下りゐて、餉(かれいい。乾燥させた携行用のコメ。というか餅)食ひけり。
その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり(とても美しく咲いている)。
それを見て、ある人のいはく、
「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」
といひければよめ
(詠んだ歌)。
 
唐衣 着つつなれ し つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
(唐衣のように慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばると来てしまった旅をしみじみと思うよ。) ※鬼のようにいろんな技法が使われているので、文意をとるだけの訳にしました。
 
とよめ ければ、みな人、餉の上に涙落して、ほとび けり(かれいいは涙でふやけてしまった)。
 
 
過去の助動詞は「けり(ける、けれ)」と「き(し)」の2種類。この違いはおいといて、とにかくどちらもここでは「昔の話だ」ということを表しています。
 
すべて昔の話なんだから、語尾にもすべて「けり」とかつけるべきなのでは? 
──という方がいらっしゃるかもしれませんが、小説でも語尾を「走った」にしたり「走る」にしたりしますよね。それと同じで、ぜんぶ過去の助動詞をつけたら、臨場感がない。

で、赤字の語が完了の助動詞です。
 
「八橋といふ所にいたりぬ」の「ぬ」は、八橋に向かう途中ではなく、完全に到着しきった(笑)、ということを表します。
「慣れにし」「ほとびにけり」の「に」、「はるばるきぬる」の「ぬる」は、ともに「ぬ」が活用しているもので、同じ意味です。
 
「橋を八つ渡せるによりて」の「る」は、終止形が「り」という助動詞で、「ぬ」と同じく完了だけど、こちらは「完全に行われて、その状態が今もある」という意味を表します。「橋を完全に渡した、そして橋はそのままある」ということです。
「~といひければよめる」の「る」、「~とよめりければ」の「り」も同じ。
 
「いとおもしろく咲きたり」の「たり」も、「り」と同じ働きをする助動詞。「完全に咲いて、今も咲いた状態である」ということ。
 
この完了の助動詞と、過去の助動詞がくっついたものが、「~にけり」「~たりし」などなどというものです。
 
ちなみに、学校では、「り」や「たり」について、「完了」か「存続」かどっち? ──と区別させることが多いですが、「完全に行われて、その状態が今もある」という意味を表すのだから、そのような区別はほんとは無意味です(とぼくは思います)。
 
     *       *       *       *       *
 
過去2つと、完了4つ。
こんなにいろいろあった助動詞が、いつのまにか「た」に統合された……。
 
文法がだんだん単純になっていくことは、世界中でしばしば見られます。
英語だって、もともとは大陸のヨーロッパ語と同様に、男性名詞と女性名詞の区別があったそうだし、語形変化ももっと煩雑だったらしい。
古代ローマの公用語だったラテン語なんか、文法は気の狂いそうになるほど複雑だったと聞いたことがあります "(-""-)"
 
まあ、外国語を学ぶ人にとっては、文法は単純なほうがありがたいですね。
英語万歳です。
「た」万歳!
──いやいや、こちらはどうかな?
過去と完了の区別は、西欧をはじめとして多くの言語で続くだろうから、国際化必須のこれからは、日本人はかえって困りつづけるだろうなあ。