ベンタイン市場から歩いてやってきたのは、ベトナム戦争証跡博物館。
え!入場待ちの人がこんなに並んでるとは予想外だった。バスツアーで来る人もたくさん居たみたいだよ。
入場料は40000ドン(約240円)ととても安い。
外には戦車などがたくさん展示されている。
後から知ったんだけど、ここは3階→2階→1階と見学する順路だったらしい。
全く無視して逆から行っちゃったわ
この辺りは、世界中の色々な国で行われたベトナム反戦運動について。
ベトナム戦争を取り上げた新聞や広告の数々が展示されている。
Beheiren=ベ平連=『ベトナムに平和を!市民連合』の略らしい。
18歳で亡くなった学生運動活動家の山崎博昭と言う人が居たそうだ。
佐藤栄作が南ベトナムに入るのを阻止するために羽田空港近くで起きた第一次羽田事件で命を落とした、とある。
(Wikipediaによると、学生たちと機動隊が激しい攻防を展開し、彼は仲間が機動隊から奪った警備車に轢かれて亡くなった、と警察は発表した。)
10年に渡って撒かれた枯葉剤の影響で枯れてしまったマングローブ林(上)と、ヤシの木(下)
ダイオキシンが大量に含まれた枯葉剤の影響で、奇形や障害を持って生まれた人たち。
2世3世にも影響が残り、今でも後遺症に苦しむ人がたくさんいるそう。
20年前に来た時は、ホルマリン漬けの奇形の胎児が展示されていたと記憶しているんだけど、見当たらなかった。
(以前はあったと言うコメントをいくつかいただきました。撤去されたみたい。)
戦争犯罪のコーナーには、見るに堪えない残酷な写真もたくさん展示されている。
「父を殺さないで」と懇願する少女(左)、米兵に拷問を受ける農民(中)、米兵に尋問される民間人(右)
元上院議員ボブ・ケリーはベトナム戦争で右足を失い、軍人に与えられる最高勲章の名誉勲章を授与された『英雄』だったが、
1969年に彼が率いる米海軍特殊部隊が、Thanh Phong村で女性や子供を含む数十人の村人を虐殺していたことが2001年になって明らかになった。
彼は大統領選候補にも名前が挙がったことがあるそう。
2009年に家族から寄贈された実物の下水管。
当時三人の男の子がこの下水管に隠れていたが、ボブ・ケリー率いる特殊部隊に捕まり、10歳、8歳の二人を刺殺し、
6歳の男の子の内臓を取り出した、と書いてある。
その虐殺で犠牲になった民間人たちの名前と年齢。幼い子供が殆どで、中には5か月の赤ちゃんも。
次の写真は
閲覧注意です。遠目だけど犠牲者の写真が含まれます。
無抵抗の村人504人が虐殺されたソンミ村事件の写真の数々。
これはベトナム反戦運動のシンボルとなり、国外でも大きな批判の声が起こり、アメリカ軍が支持を失うきっかけとなったそう。
アメリカ兵だって、普段なら罪のない村人や女性や子供を殺せるような人たちではなかったと思う。
戦争と言う異常な状況の中で、正常な感覚を失って残虐な行為を残虐だと感じなくなることが恐ろしい。
帰還して我に返った時、どう感じたんだろう?PTSDになる帰還兵は多いと聞くよね。
誰もが一度は目にしたことがあるこの写真。ピューリッツァー賞を受賞した『ナパーム弾の少女』
1972年に米軍によって投下されたナパーム弾で火傷を負った9歳の少女。
AP通信のニック・ウト氏は、この写真を撮影後すぐに負傷した子供たちを自分のワゴン車に乗せて病院に運んだ。
病院からは断られたものの、「放置したら死んでしまう」と医師たちを強く説得して入院させることができ、少女は助かった。
そのことが書かれている記事。
CNNニュースのインタビューで、当時のことを大人になった本人とウト氏が伝える映像もあるよ。
本人は裸で逃げる自分の写真が世界中に晒されたことを恥ずかしく思い、
「なぜこんな写真を撮ったの?兄弟やいとこは服を着ているのになぜ自分だけ裸なの?」とずっと苦しんできて、この写真が嫌いだったという。
カナダに政治亡命することが認められた1992年以降初めて、
『この写真は自分にとって貴重な贈り物』だと思うことができ、自らの体験を本に書いたり、
戦争の犠牲になった子供たちを支援する慈善団体を設立したりするようになったそう。
同じくピューリッツァー賞を受賞した沢田教一の『安全への逃避』
これも誰もが一度は目にしたことがあると思う。
当時、ナパーム弾の爆撃が始まりこの家族が川に飛び込んだところ、撮影していた沢田に助けられた。
彼はその後も何度か村を訪れて子供たちにケーキを配り、死亡の知らせが伝わると村中が悲しんだ、とWikipediaに書かれていた。
撮影の翌年、沢田は撮影地を再訪し「幸せに」との言葉を添えた受賞した写真と、
賞金30万円のなかから6万円を家族に渡したことが伝えられている。
彼はプノンペンで銃撃を受けて、34歳で亡くなっている。
取材中に命を落としたジャーナリストたち
『地雷を踏んだらサヨウナラ』の一ノ瀬泰造の被弾したカメラの写真もあった。
彼はカンボジアのアンコールワット潜入後すぐにポルポト率いるクメール・ルージュに捕まり、1973年11月に26歳で処刑された。
20年前に東南アジアを回っていた時は、カンボジアの彼のお墓を訪れる一ノ瀬泰造ファンのバックパッカーがたくさんいた。
99年に公開された浅野忠信主演の映画の影響もあったのかもしれないね。
私も文庫本を持ってる。
本人の死後に、日記や家族や友人にあてた手紙から構成された本。
映画も見たけど、やっぱり本の方がよかった。
ベトナム戦争はもう50年前に終わっているのに、
「つい最近も同じような映像をニュースで見たな~」と思うことだらけだった。
戦争が世界から無くなることはないんだろうね。
この博物館は、何とエアコンが効いていなかった
(もしかしたらこの日だけだったのかも)
扇風機は回っていたけど、展示室の中は蒸し暑くて頭が痛くなってきてしまい、あまりゆっくり見学が出来なかった。
昨夜は機内泊だったこともあって疲れてしまって、頭痛薬を飲みベンチで座ったまま仮眠した。
よし、体力復活!頭痛も治ったし、外に出よう。
外には当時の拷問の様子が人形を使って展示されていた。
『Sunbathing Rooms(日光浴部屋)』では、囚人は裸にされ、灼熱や寒さにさらされた。
囚人は服を脱がされ、滑走路の表面を覆うために使われた多数の穴が開いた鉄格子の上で何度も転がされた。
引っかかって髪は抜け、血が出るまで皮膚や頭皮が剥けたと書いてある。
頑固な政治犯を収容した『Tiger Cages』は120部屋ほどあった。
脚は固定されている。
話す、笑う、咳をする、蚊を叩くことさえ看守たちの暴力の口実となり、鋭い棒で叩いたり石炭をシャベルで落としたりした。
囚人の食事は、質の悪い一握りの米と干物の小さなかけらのみで、水は毎日缶に半分与えられるだけ。
有刺鉄線で囲まれた檻。屋外に設置され、一度に数人が入れられた。
囚人たちは真っすぐに座るスペースさえなく、横たわったり体を曲げた状態で座るしかなかった。
『ギロチン』
ふぅ・・・・気分がど~~~~~~んと重くなる博物館だったけど、ベトナムに来たからには見るべきところだよね。
そろそろ外に出て、次の目的地に向かおうかな。
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