《土浦集団リンチ傷害致死事件》

「俺は組長の息子だぞ!」 組の“シマ”で暴れまわり

「街では煙たがられていました」

 逮捕された不良グループリーダーの素顔

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文春オンライン

「何、見てんだよ?」「見てねぇだろ、お前ら何なんだよ!」  きっかけは、そんなヤンキーたちの“メンツ”をかけた言葉の応酬だったという。

  【画像】逮捕された鴫原容疑者グループのメンバー  

2月12日午前2時、茨城県土浦市。辺りには幹線道路沿いの外灯ぐらいしか明かりのないナイトクラブ脇の薄暗い資材置き場で、1人の男性が殴る蹴るの集団リンチを受けていた。 

 この日は週末で、そのナイトクラブでは音楽イベントが行われていた。県外から来た若者も多く、普段以上の賑わいをみせていたという。それが結果的に、見ず知らずの若者たちを引き合わせ、悲劇を生んでしまう。 

 リンチを受けた男性は千葉県八街市の大工、浜田夕輝さん(21)。

 浜田さんはその後病院に搬送されたが、搬送時には既に意識がなく、暴行からちょうど1週間後に死亡した。

地元の不良グループ4人を傷害容疑で逮捕

 浜田さんに暴行を働いた男たちはその後、逃亡していたが茨城県警は2月20日、地元の不良グループ、鴫原大地容疑者(22)、マツセ・キタ容疑者(22)、小川大輔容疑者(22)、中嶋敦生容疑者(22)の4人を傷害容疑で逮捕したと発表。  その後、新たに中茎凌大容疑者(22)と19歳の少年3人を3月7日までに逮捕し、逮捕者は計8人にまで達した。いずれも傷害致死容疑に切り替え、県警は捜査を進めている。  逮捕された8人は、4人ずつの別グループで互いに面識はなかったという。 「最初に逮捕された鴫原ら4人は、『北関東最大の歓楽街』とも呼ばれる土浦・桜町で、たびたび飲んでは暴れる“イキった”チンピラでした。頻繁に警察のお世話になっていた連中です。後に逮捕された中茎ら4人は、埼玉に本部を置く暴力団の若い衆。死亡した浜田さんもまた別のグループで、千葉から複数人で来ていました。  3グループともそれぞれ面識はなかったようですが、たまたまクラブで出会い、つまらぬ口論から殴り合いの喧嘩に発展したようです」(鴫原容疑者の知人)

歓楽街で“イキって”いた鴫原容疑者らのグループ

 事件現場のクラブから数分車を走らせると、すぐに飲食店や風俗店が密集する土浦・桜町が見えてくる。  この街を拠点としていたのが、鴫原容疑者ら4人の不良グループで、事件数カ月前から、「類を見ない“イキり方”をしている」と町では有名だったようだ。別の鴫原容疑者の知人が語る。

「俺は組長の息子だぞ!」

「鴫原ら4人は18歳頃から桜町でよく飲み歩いていましたが、事件の3カ月ほど前から飲食店関係者や客の前で、これまで以上に尊大な態度をとるようになりました。特に店側に喧嘩を吹っかけ、強く出ることが多かった。 『お前、誰のおかげで店やれてると思ってんだよ?』という脅しが鴫原の決まり文句でした。鴫原は桜町を“シマ”にする暴力団の『二次団体の組長の息子だ』と言っていました。聞いてもないのに『俺は組長の息子だぞ!』と偉そうに振る舞い、街では煙たがられていましたね。  鴫原はまだ大学生ですが、このグループではリーダー格です。マツセ・キタは鴫原の中学の同級生で、他2人はつくばと霞ケ浦の出身の“ワル”。会社勤めの者もいます。4人はキャップにピチピチのズボン、太陽が出てないのにサングラスをかけているようなファッションでした。体格が特段イカついわけではありません。よくプリウスや古いボルボに乗って、桜町に飲みに来ていましたよ」  実際に鴫原の「組長の息子」という肩書きのため、仕方なく店側が非を認め泣き寝入りすることもあったという。

事件2カ月前にもバーでトラブルを起こした鴫原容疑者

「事件が起こる2カ月ほど前にも、桜町のバーで店長とトラブルになりました。その時も『俺は組長の息子だぞ!』となったそうですが、店長も気性が荒い人だったようで、『そんなの知らねえよ!』と揉めに揉めたそうです。  鴫原は組に電話し、実際に当番の組員がすぐに現場に駆け付け、場を収めることになりました。それで終わりかと思いきや、店は強制的に3日間の“営業停止”になってしまったようです。  ただでさえコロナで客も減っていて、給付金がもらえるわけでもないのに、“営業停止”は可哀そうでしたよ。他にも鴫原はキャバクラでトラブルになったこともありますが、店は『組長の息子だから手が出せない』と、引くしかなかったそうです。同様のトラブルは他でも何件かありました」(同前)  コロナ禍で同じような不良メンバーの歓楽街への出入りが減ったことも、鴫原容疑者らの行為に拍車をかけたようだ。 「もともと桜町には鴫原たちより数段、筋の悪い奴らがいましたが、コロナ禍もあって街に来なくなった。鴫原たちの態度が目に見えて大きくなったのはその頃からです。  鴫原以外の他の3人も、バックがあるという安心感からか鴫原といる時はいつもより大きな態度をとるようになりました。鴫原とツルみ始めてからは、『あの時はよくもやってくれたな』と以前もめたことのある半グレの先輩にも突っかかるようになりましたね。逆に4人とも安心な“シマ”である桜町の外で飲むことはありませんでした」  若気の至りとはいえ、“メンツ”にこだわるあまり、1人の未来ある若者の命が奪われてしまった悲劇。  県警は8人の認否を明らかにしておらず、今後の真相解明が待たれる。

「文春オンライン」特集班/Webオリジナル(特集班)

 

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という、コメント欄だったので、書かれていない何かがあるかな?

 

時々聞いた「半グレ」と言う言葉。

何のことかよく解らない、不良とかそういうカテゴリーとしか解ってなかったが

そもそも中国残留孤児から派生して、密入国者と合体したような存在だったらしい。

 

ヤクザを超えた「半グレ」の頂点・怒羅権 初代総長の告白 「差別を受けた私たちがすがったもの」

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現代ビジネス

2月に発売された書籍『怒羅権初代 ヤクザが恐れる最凶マフィアをつくった男』(宝島社刊)が話題だ。これまで数々の凶悪事件を引き起こし、関東連合とともに半グレ世界のツートップとも言われてきた怒羅権の歴史と実態が生々しく描かれており、関係者の間にも衝撃が走っているという。

  【写真】警視庁23歳の美人巡査がヤクザに惚れてすべてを失うまで…出会いの場所 

著者の佐々木秀夫(52歳)は怒羅権の創設者にして初代総長。現在は裏稼業から足を洗い、大工として働く傍ら、ユーチューバーとしても活躍中だ。 彼はこの本で何を伝えたかったのか。これまでさまざまな噂、伝説が飛び交ってきた怒羅権とは何なのか。本人の口から語ってもらった。 ----------

自らの存在証明のために書き記した「被差別と暴力」

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 「いい歳したおっさんが昔のやんちゃ自慢なんかして恥ずかしくないのか」 「お前らのやってきたことは犯罪だ」 「被害者たちの気持ちを考えろ」  現在YouTuberでもある佐々木秀夫が動画をアップするたびに、こうした批判コメントが必ず寄せられる。佐々木はそれを重々承知の上で、怒羅権に関するさまざまな事件やエピソード、知られざる裏側を、これまで可能な限り自身のチャンネル内で語ってきた。 

 そして今回、書籍という形で改めて佐々木視点の「怒羅権ヒストリー」、「怒羅権史観」をまとめ上げ、世に問うこととなった。そこには彼らが起こしてきた事件の数々や非合法な経済活動など組織の闇も多く描かれている。

佐々木はなぜ、このコンプライアンス重視時代の今、敢えてこのような本を出そうと思ったのか。  

怒羅権発祥の地、東京都江戸川区葛西駅近くの中華料理店で佐々木は雄弁に語った。  「政治や経済、真っ当な文化は歴史として記録され、後世に残る。でも怒羅権のようなアウトサイダーの歴史をきちんと記録してくれる歴史家はいない。メディアではたびたび取り上げられてきたが、勘違いや作り話も多い。だったら当事者である僕自身が書き残しておく意味があるはずだ。  中国残留孤児とその子どもたちが日本で差別や不当な扱いを受けてきた歴史。そして20世紀後半から21世紀にかけての一時期、たしかに怒羅権という一群がこの日本に存在し、いいことも悪いことも含めて、懸命に生きてきた男たちがいた。自らの存在証明として、僕は怒羅権というものをちゃんと書き残しておきたかったんです」 

 時折見せる鋭い眼光には凶暴な不良時代の残滓が感じられるものの、3年前に刑務所を出所して以降、昼は大工として、夜はYouTuberとして「カタギ」の暮らしを送る現在の佐々木は総じて穏やかであり、バカでかい声で豪快に笑う姿は「気さくないいおっさん」にさえ見える。

いや、実際そうした一面もあるのだろう。  怒羅権とは何なのか。単なる暴走族なのか。

半グレ組織なのか。マフィアなのか。警察から準暴力団指定を受ける謎多き組織の実態について佐々木に尋ねた。

 

一つの菓子パンを分け合って食べていた

怒羅権発祥の地・葛西

 時代はバブル真っ盛り。景気は沸騰し、街には高級車や高級ブランドに身を包んだ人々があふれ、夜毎嬌声が飛び交っていた。そんな浮足立った時代背景の中、怒羅権は生まれた。1986年、東京都江戸川区葛西。かつて政府の帰還事業によって帰国した中国残留日本人孤児の寮があったことから、残留孤児とその子弟たちが多く住むエリアとなっていった。  この地で佐々木を含め7人の残留孤児2世の少年たちが怒羅権を結成。次第に暴走族化した怒羅権は日本人の不良少年も取り込んで肥大化し、敵対するチームとの喧嘩に明け暮れるようになった。 

 「時代はバブルだったけど、そんなの関係ないですよ。僕らは貧乏もいいところ。そもそも日本語もわからない親がまともな職につけるわけもないから、国からの援助でなんとか暮らしいている家庭が大半だった。当然、日本人の子どものように小遣いなんてもらえないからいつも腹を減らしていたね。仲間で集まると、1つの菓子パンをみんなで分け合って食べたり、家に帰りたくない日は河川敷でホームレスみたいに寝てましたよ」 

 腹を減らした少年たちが喧嘩、窃盗や万引き、恐喝などの犯罪に手を染めていくのは当然の成り行きだったが、彼らがどんどん凶悪化していった根底には差別といじめがあったと佐々木は力説する。 

 「僕たち残留孤児の子どもたちは中国では『日本鬼子』と言われていじめを受け、日本に来たら『中国人』と差別されてきた。これは紛れもない事実です。僕らは暴走集団、犯罪集団を作ろうと思って作ったんじゃないですよ。いじめや差別を受ける中、同じ境遇の仲間たちと身を寄せ合っているうちに、結果としてそうなっていった。自分たちを正当化したいわけじゃない。ただ、そうした背景があったことは知ってもらいたい」

ヤクザを刃物でめった刺し 「凶悪」イメージの源流

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 小中学生のときに親とともに日本に渡ってきた残留孤児の子どもたち。当然、最初の数年間は日本語もままならず、学校や社会になかなか馴染むことができなかった。当時の日本経済は絶頂期を迎えており、「貧乏な遅れた国」からやって来た中国人を見下す人間もたしかに多かった。当時の佐々木には周囲の日本人がすべて「敵」に映っていたという。 

 「街で暴走族風の日本人の若者を見つけると、理由もなく殴りつけていましたね。

毎日、5人、6人と手当り次第です。そんなことを繰り返していれば、当然地元のヤクザに目をつけられる。それで自衛のためにメンバー全員、サバイバルナイフやマチェーテ(山刀)を携行するようになったんです」  実際、佐々木をはじめ怒羅権のメンバーたちは数多くの刃傷沙汰を起こし、ヤクザでさえその標的となった。佐々木は語る。

  「はじめて人を刺したのは18歳のときです。相手は暴力団の青年部に所属していた若いヤクザでした。そこからは、人を刺すのが半ば日常になっていきました」 

 事件やトラブルを起こすたびに、次第に怒羅権は地元周辺でアンタッチャブルな存在となっていった。そしていつしか、彼らの「凶悪イメージ」は東京中に広まっていくのである。

  後編では、暴走族からマフィアへと変貌を遂げていった怒羅権の知られるざる実態と、暴力団が仕切る日本の裏社会で勢力を拡大することができた理由を明らかにしたい(後編はこちらから)。 ---------- 佐々木秀夫著『怒羅権初代 ヤクザが恐れる最凶マフィアをつくった男』は 宝島社から好評発売中 ----------

根本 直樹(ライター(マーブルオフィス))

 

 

 

日本最凶マフィア「怒羅権」創設者が「ヤクザ襲撃」「交番襲撃」の実態すべて語る

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 中国残留孤児2世らで結成された不良グループ「怒羅権」は、「関東連合」と並び、半グレ世界のツートップとも言われてきた。創設者で初代総長の佐々木秀夫が、前編に引き続き、初期・怒羅権の実態を明かす(前編はこちらから)。

  【写真】警視庁23歳の美人巡査がヤクザに惚れてすべてを失うまで…出会いの場所

暴力団に牙を剥き、警察権力に楯突く

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 怒羅権は伝統的な日本の不良集団とは明らかに異なる特性を備えている、と語るのは1990年代に警視庁の国際捜査課(現在は組織犯罪対策部に改組・吸収)で怒羅権や不良中国人の捜査を担当していたことがある元刑事だ。  「日本の裏社会のトップに君臨しているのは今も昔も看板を掲げた暴力団です。これまで、どんなにイケイケの不良も暴走族もヤクザの前ではひれ伏すのが普通のことでした。  中国系の多い怒羅権にはそんな日本の常識が通用しない。とくに90年代から2000年代半ばにかけて、怒羅権によるヤクザ襲撃事件、強盗事件が多発した。ところが表沙汰になることはめったになかった。暴走族上がりの中国人にやられたなんて周囲に知れたらヤクザの恥ですから。実際『怒羅権とは関わりたくない』とこぼすヤクザも多かったですよ」  また警察に対する態度も、暴力団を含む既存の不良集団と大きく異るものがあった。元刑事は言う。 「とくに関東のヤクザは警察には従順です。関西や九州のヤクザにしても反抗的な部分はあるが、表立って警察に牙を剥いてくるなんてことは稀。だが初期の怒羅権は、警察を敵と見なし、平気で喧嘩を売ってきた。明らかに異質な存在が登場したと思いましたね」  実際、佐々木自身、仲間を引き連れてたびたび交番を襲撃した。 

 「仲間が明らかに不当な逮捕をされたときなど、バイクに中国国旗を括り付けて、仲間数人で交番を急襲。ビール瓶を投げて窓ガラスを割ったりしてました。逮捕された仲間を奪還するために、葛西警察署を数十人の仲間と取り囲んで大騒ぎになったこともあります」(佐々木)  喧嘩で刃物を使うことと、逮捕された仲間を警察から奪い返す行為は怒羅権の伝統として受け継がれていった。佐々木はつづける。  「仲間が捕まるとパトカーや押送車を取り囲んで足止めしたうえで、力づくで仲間を奪還する。新聞沙汰になったことも1度や2度じゃないですよ。今の時代じゃ考えられない話ですが」  まるで日本赤軍のミニ版のような話だが、当時の怒羅権の反権力ぶりと仲間との絆の強さを示すエピソードだろう。  しかし、ここまで舐められて日本の警察が黙っているわけもなかった。1997年1月、警視庁少年2課は「怒羅権」の一斉取締りをスタートさせ、暴走族として暴れ回る怒羅権の壊滅を目論んだのである。すでに現役の暴走族からは距離を置いていた佐々木だったが、警視庁は創設者である佐々木を実質的リーダーと見なして徹底的にマークした。  そしてこの頃から、暴走族としてスタートした怒羅権メンバーの一部は地下に潜り、「マフィア怒羅権」として暗躍するようになる。

力の源泉は「密入国中国人」だった

 そもそも「マフィア怒羅権」とは何なのか。佐々木に問うと「暴走族はしょせん若い奴らの遊びです。一方のマフィア怒羅権は合法、非合法を問わず、さまざまなシノギをして金を稼ぐビジネス協同体といったところ」だという。  

また、「暴走族怒羅権」のメンバーたちがそのままスライドして「マフィア怒羅権」を形成していったわけではないとも佐々木は語る。  「90年代半ば以降、いわゆるマフィア怒羅権と呼ばれる勢力がいつくか生まれました。僕が率いていたグループを含め、大きく4つの派閥があった。幹部クラスは暴走族出身者が多かったが、そうでない者も大勢いた。  他の派閥についてあれこれ言うことはできないが、自分の作ったグループの話で言えば、当初メンバーの大半は暴走族時代の仲間ではなく、僕が大人になってから個人的に縁を持った中国大陸からの密入国者たちでした」  この「密入国者」の存在こそが、裏社会で怒羅権の存在感を一気に高めた要因の一つだった。佐々木は90年代に悪名を轟かせた中国福建省出身の密入国者グループを自らの配下に取り込むことで、ヤクザも恐れる強力な「暴力装置」を手に入れた。  「密入国者とはつまり顔のない人間です。何をしたところで、本来日本に存在しない人間たちなのだから現行犯でもなければそうそう捕まることもない。いよいよ危ないとなったら、別人のパスポートを使って国に帰ってしまえばそれまでです。 

 90年代半ばから2000年代前半にかけて、ジャパンマネーを求めてそんな密入国者が大挙して日本に押しかけていた。その中でももっとも危ない奴らと言われていた福建グループを仲間に引き入れたことで、僕のグループの力が一気に跳ね上がったのは事実です」

  福建人を取り込んだことで佐々木が手にした最大のメリットは暴力よりも経済面だった。

顔のない人間たちを犯罪的なシノギの実行犯として雇えば、強盗だろうがクレジットカード詐欺だろうが武器の売買だろうが、足が付きづらい。

福建グループとの連携は結果として佐々木グループに大きな利益をもたらした。 

 「裏社会で凌いでいくには、頭がよくて金だけ持っていてもダメなんです。最終的にはやはり力、武力がものを言う世界。あの頃の怒羅権は故郷中国との繋がり、人脈を活用することで、金と力の両輪を手に入れた。僕のグループだけでなくて、みなそうですよ」

 

暴力団への締め付けが、怒羅権の隆盛を生んだ

写真:現代ビジネス

 金と武力の両輪が必須の裏社会で、暴力団の影響力は年々低下の一途をつづけている。暴対法や暴排条例などでがんじがらめにされた暴力団の構成員は今や名刺を出しただけで脅迫罪に問われ、銀行に口座を開設することもできなれば、自動車ローンを組むことさえ許されない時代の中で息も絶え絶えといった状況にある。  そうしたなか、暴力団関連の法律に縛られず、地下世界を縦横に泳ぐことができた怒羅権が、暴力団も無視できないパワーを持つに至ったのは当然の話かもしれない。  しかし時代は大きく動いている。全国のいたるところに防犯カメラのネットワークが張り巡らされ、世間のコンプライアンス重視の風潮は高まる一方だ。そんな時代に怒羅権のような闇の集団の居場所はあるのだろうか。  佐々木は「いいちこ」の水割りをぐいっと飲み干すと、こう呟いた。  「たしかに不良が生きづらい世の中になってきたのは間違いないです。怒羅権にしてもますます地下に潜っていくしかないだろうね」 

 アウトローたちにとって「いい時代」はとっくの昔に過ぎ去ったようだ。

 ---------- 佐々木秀夫著『怒羅権初代 ヤクザが恐れる最凶マフィアをつくった男』は 宝島社から好評発売中 ----------

根本 直樹(ライター(マーブルオフィス))

 

 

 

半グレ荒稼ぎ「静かな浜に戻して」…水上バイク禁止へ住民決起 沖縄

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琉球新報

沖縄県南城市佐敷津波古の天の浜で、水上バイクの航行で遊泳者に危険が及んでいるとして、津波古区は2月27日、水上バイクなどの乗り入れ禁止を求める総決起大会を天の浜で開いた。区民ら約200人が参加し、水上バイクの規制に関する条例制定などを求める決議案を採択した。区は今後、玉城デニー知事や第11管区海上保安本部長らに決議文を送る。

  【動画】半グレら無許可「食べ放題店」数千万円を荒稼ぎ  

 

決議では「水上バイク乗り入れで、衝突事故の危険がある。区民の親水空間としての自由な利用が阻害されている」と指摘。天の浜を管理する県や海保などに「条例制定や積極的な法執行」を求めた。  高江洲順達区長は「区民から危ない、どうにかしてほしいとの声が上がっている。天の浜での水上バイクを禁止にして、静かなビーチに戻してほしい」と話した。  天の浜では、暴力団などに属さず犯罪行為を繰り返す「半グレ」の男らによる迷惑行為が続いていた。2021年9月には、県からの営業許可を得ず生肉などを調理し、臨時営業の飲食店を営んだとして、県警が食品衛生法違反の容疑で「半グレ」の男らを逮捕した。県警によると、男が指定暴力団旭琉会構成員とも関係があることから、売り上げなどが暴力団の資金源になっていた可能性もあるという。 (照屋大哲)

 

どうしても、カテゴリーが思いつかず、ヒトと動物の中に入れちゃった。

動物は、生物は、生きていこうとする。

自分の持つ能力を駆使して。

ルールとシステムで組みあがったヒト社会の中に適応して

食物を得て生きる方法がなくても、何としても生きていこうとする。

あっさりと諦めて餓死するものはいないだろう。

東京の大都会の夜に、密やかに反映している、

ネズミだの狸だの、そんな姿を捉える動物番組をなんでか思い出す。

気付かないところで、彼らは生きている。

観察し、記録するものがいないと、いるとは認識されてないが。

 

特定外来種がただ連れて来られて、そこで生きていこうとするうちに

生態系が変わる。

その様子と同じじゃないかと思って、ヒトと動物のカテゴリーに

入れることになった。

あまりにも、自然と生き物そのものの姿なので。

 

全ての動物、生物は生きようとする。

同じテリトリーを争う。

ルールとシステムの中で生きるヒト属は、

そのルールを守る者たちの中で生きる。

そこに合わない、ルールを守らないものは、排除しようとする。

しかし、排除された生きものも、やはり生きようとする。

 

暴力が支配的になれば、その暴力から守ってくれる強いモノの影に隠れるようになる。

強いヒトの後ろに回って守ってもらう。

本来は自分たちは、逃げて身を守る、ガゼルのような種類なのに、逃げられないから。

 

「この街に暴力団はいらない!」神戸で暴力団追放・住民運動「山健組、解散を!」

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ラジオ関西

 特定抗争指定暴力団「六代目山口組」の傘下団体「山健組」が事務所を置く神戸市中央区で、住民グループが積極的に暴力団追放運動を進めている。このグループは神戸市中央区で2021年12月に結成された「花隈町暴力団追放市民の会」。

  【写真】山健組事務所(神戸市中央区花隈町)  

山健組事務所周辺では2010年10月、手榴弾が爆発する事件が発生。

2015年に山口組が分裂し、対立抗争事件が相次ぎ、2019年10月には近くの路上で組員2人が射殺された。  不安を募らせた住民は、暴力団事務所がある街というイメージを払拭し、安心・安全な街を目指してグループを結成、兵庫県警に相談し、連携して事務所撤去を目指すことになった。3月には住民約40人の委託を受けた公益財団法人・暴力団追放兵庫県民センターが、山健組事務所の使用を差し止める仮処分を神戸地裁に申し立てている。  事務所にほど近い花隈公園には「暴力団追放」と書かれた大きな看板も設置された。住民や兵庫県警などによる決起集会も開かれ、住民らは「山健組事務所周辺は何十年間も不穏な雰囲気があった。小学生の通学路でもあり、子どもたちを守るためにも、山健組を解散させて

『怖い街・花隈』というイメージを払しょくしたい」と話した。