子供を愛せない大人たち  | 人生好転させ屋

人生好転させ屋

毒親育って、愛されて来ていない。手間暇、お金をかけてもらっていない。その経験から「どうせ愛されない・どうせ豊かになんかなれない」という疑いや信念を持ち、夢や希望を持てない、途中であきらめてしまう。そうした負の人生を好転させるブログ

子供を愛せない大人たち

親には親の事情(飢えと苦しみ)がある

愛せないのには理由があります

愛したくても愛せない 

愛に飢えた幼い自分・大人に虐げられた幼い自分が

愛に触れられる喜びに浸る者を見ると

嫉妬の呵責に焼かれる

嫉妬の呵責から逃れるには・・・愛さない

この負の連鎖を終わらせる(自分を癒す)ことは私達一人一人の責任だともう。

辛い作業だけど、痛みや苦しみを認めて自分を楽にさせる事が大事。

 

1939年(昭和14年) 第二次世界大戦始まる。
1941年(昭和16年) 太平洋戦争(大東亜戦争)始まる。

1943年(昭和18年) アッツ島の戦い、学徒出陣
1945年(昭和20年) 
3月10日 東京 大空襲

             8月06日 広島市への原子爆弾投下
             8月09日 長崎市への原子爆弾投下
             8月15日 終戦

1964年(昭和39年) 東京オリンピック開催。
1970年(昭和45年) 日本万国博覧会(大阪万博)開催。

2017年(平成29年) 今現在 終戦から72年

 

http://www16.plala.or.jp/senso-koji/4-furoujitoha.html

浮浪児とは
浮浪児=寝る所がなくさまよい歩く子。戦前には浮浪児はいなかった。
敗戦後は浮浪児が3万5千人(朝日年鑑)いたという。
戦争の落とし子である。
戦争孤児が住むところもなく、食べるものもなく、巷をさまようのである。
浮浪児は戦後、数年間は巷にあふれ、大きな社会問題となった。
アメリカ占領軍から「汚いから浮浪児を一掃しろ」と命令された国は、浮浪児を捕まえる。
その捕まえることを「刈り込み」といった。
捕まえても大勢の浮浪児を収容する施設が足りない。
劣悪な環境の施設に押しこめ、逃げ出さないようオリの中に閉じこめたが、
逃げ出す子が多かった。
 

 

 

浮浪児狩り
浮浪児はアメリカ占領軍の「目障りだから浮浪児を一掃せよ」という命令をうけ、
国は「刈り込み」と称して浮浪児を捕まえ、
一匹二匹とトラックに放り込み各収容施設に送り込んた。
収容先は定員の数倍にふくれあがったといわれている。
 
その孤児の収容施設は、
粗悪な食事に軍隊もどきの厳しい体罰の日常化、
逃げ出さないよう丸ハダカにする。
窓のない一部屋に15人ほど押し込め、カギをかけて閉じこめる。
まさに牢獄の生活であった。犯罪者扱いで、孤児たちはスキをみて脱走した。
 
昭和21年7月にお台場で撮られた孤児写真(毎日新聞)にも大きな衝撃をうけた。
当時お台場にはアメリカ占領軍の食料倉庫があった。
その食料をめざして孤児たちが盗みに入る。
盗みをした孤児たちを捕まえ、逃げ出さないようにハダカにして鉄格子の中に閉じこめた。
猿よりひどい扱いであり、人間扱いしていない。
大人の起こした無謀な戦争で、親も家も奪われ、
孤児にさせられた子に対して、この子らに罪があるのか。
 
浮浪児狩りをしても、あとからあとから浮浪児が増えていく。
これは前述したように親戚や養子先を逃げ出す子が後をたたないからである。
 
浮浪児になった子の証言
M Mさん、12歳男(小6年)
両親を失ったたあと親戚へ預けられたが、嫌がらせをうけ、いたたまれずに家を出た。
行く先はなく寝るところも食べ物もない。
上野地下道には自分と同じ弧児たちが大勢いたので仲間になった。
浮浪児と呼ばれ「近づくな、目を合わせるな」と、
世間の人たちは汚物を見るような目で遠巻きにして眺めるだけ。
食べ物を恵んでくれる人はいなかった。

なにしろ腹がへる。10日も食べられない日もあった。盗んで食べるより仕方なかった。
盗むと大人から殴る蹴る、コン棒でメチャクチャに叩かれた。
それでも盗む。盗みが成功したときは食いだめをする。
そのせいか腹をこわすし胃拡張になり、常に飢えていた。
死んだ子は大勢いる。餓死や凍死、変死した。自殺した子もいた。

「刈り込み」で捕まり板橋養育院へ入れられた。
子どもの死体がごろごろ廊下にまでころがっているのを見て、
いずれ自分もあのような姿になると思い、
逃げないよう鉄条網で張りめぐらされていた塀を夢中で乗り越え逃げた。

それからお台場へいき盗みをした。台場は当時は離れ小島だった。
台場にはアメリカ占領軍の食料倉庫があり、食料は驚くほど豊富にあった。
そこで水上警察に捕まり「東水園」という孤児施設に入れられた。
施設は水上警察が見るに見かねてつくったのではない。浮浪児を持てあましていたのだ。
昭和21年9月に東水園が設立され、最初は14人が入所、自分はその内の一人だ。
東水園で生活したのは22年9月ごろまで1年足らずだった。
そこでの生活は海にもぐり、B29の残がいを引き揚げてくる作業だった。
遺骨も海底にあった(空襲死者の遺骨か?)。
大人でも大変苦しい仕事を子どもにやらせるのである。
あまりにも苦しく辛い作業に、隙をみて逃げたが、また捕まった。

東水園では勉強はしなかった。水上警察署の職員は我々子どもに非常に冷たかった。
殴る蹴るは日常茶飯事であった。子どもに配給される米を横取りしていた。

その後キリスト教の「あいりん会」が経営する「若葉寮」に入った。
ここは軍隊の馬小屋を孤児施設にしたところである。
施設長がいい人だったので逃げなかった。
中学、高校へ通い、あいりん会の職員になって夜間大学へ通った。
 
K Hさん、14歳男(中学生)広島原爆孤児
原爆でたったひとり残された。東京へ出てきたが、行く先がなく上野地下道で浮浪児に。
浮浪児の生活はMとまったく同じである。
明日は生きていないかもしれないと思う日々だった。
また、なんらかの形で、大人は孤児を利用しようとした。
ひどい仕打ちをうけてきた。子どもは訴えられない。
大人は自分に都合のいいことしか言わない。
人間扱いされなかった。二度と思い出したくない。
Mとは東水園、若葉寮と一緒だった。

 金田メモ
1999(平11)年戦後54年目、ある映像会社がお台場で生活した孤児の放映を計画、
上記2名に取材を申し込んだが拒否され、「金田さんなら取材に応じてもよいが、
氏名、顔写真は出してはならぬ」という条件つきで、
私が千葉県まで取材にいき話を聞いた。
当時のお台場には数千人の浮浪児がいたといわれているが、
東水園へ入所しても逃げ出す子が多かった。
台場で生活した孤児2名だけが現在判明した。他は不明である。
 
山本麗子さん、9歳女(小3)東京空襲訴訟の原告
1945(昭和20)年5月24日の空襲で父死亡、母も同年11月に病死。
3人の子どもが残され孤児になった。3人は別々の親戚へ預けられた。
私は叔母宅へいき、学校へは通わせてもらえず、海水から塩をとる作業をさせられた。
昼は山へいき薪を背負い海岸へ運び、
夜は薪を一晩中燃やしつづける、昼夜別なく働いた。9歳では重労働だった。

2年後、弟の具合が悪いと叔父から呼ばれた。
いってみると弟はやせ細り、馬小屋に寝かされ、
うどんのような回虫を吐き「おかあちゃん」と呼びながら死んだ。
その弟の姿を見て私は叔母宅へは戻らず、静岡から東京へ徒歩できた。行く先はなかった。
 
上野で浮浪児になった。喪失感からぼんやりと過ごし
2日に1回おにぎり1個をくばってくれるおばさんを待つ日々だった。
刈り込みで捕まり、トラックに載せられ、山奥へ棄てられた。
(後で考えると茨城の土浦方面だったと思う)子どもたち同士で声をかけあい、
山を下り、上野へ戻り、また浮浪生活を数年した。生きているのが不思議に思う。
 
働ける年代になって寺の茶坊主になり、20歳前に東京へ出て料理店で働くようになった。
学校は小学3年で止まった。
11歳の兄とは両親死亡後あっていない。行方不明になったままである。

金田メモ
山本さんは病気療養中にもかかわらず、高額金が必要な訴訟の原告になった。
(原告は国へ納める印紙代5万円その他が必要、
敗訴になれば更に1、5倍の費用がかかる)。
それでも控訴に加わった。
国からゴミとして棄てられた彼女の無念、怒りが訴訟へ駆り立てたと思う。
生きてきた最後の叫びだ。
 
金子トミさん、15歳女(中学生)
東京の江東区に住んでいたが、家族揃って母の実家のある山形へ疎開した。
その疎開先で8月10日、家の裏に爆弾が落ち、
母と妹が死んだ。父も後を追うように死んだ。
残されたのは私と小学4年の弟と小学2年の妹の子ども3人だった。
伯父から父の実家へ行くようにいわれたが、
母は父方の親戚と付きあいがなかったので面倒はみてくれない。

自分が働いて弟妹の面倒をみようと東京へ出てきたが、
東京は焼け野原になり廃墟になっていた。
東京大空襲のことは何も知らなかった。
結局、上野公園の昔式の便所(畳半分ぐらい)で3人が寝ることになった。
山形を出るとき母の弟が内緒でくれたお金があったので、その金でさつま芋を買い、
弟と妹に与え、自身は食べないときもあった。
昭和20年8月、敗戦後に上野へきて、21年の春先まで上野て浮浪児生活をした。

おいも屋のおばさんから田舎の農家を紹介され、3人で農家へいった。
その農家では朝早くから夜まで、田んぼ、畑、蚕など働き通しだった。
弟と妹は小さいので仕事が充分できない。お仕置きをずいぶんされた。
たまらなくなりそこを逃げた。

3人で二晩、山で野宿した。
その後、妹だけを親戚へあずけ、私と弟は別の親戚へいったが、
そこで私は女中を紹介され、弟と別れた。
それから妹や弟は行方知れずになった。
何回手紙をだしても、おじたちから返事がこない。
数年後、八方手をつくして捜し、やっと弟、妹を見つけ再会した。
妹は貰い子になって苦労し、弟は小学校へもいかず働かされ、
読み書きができなかった。浮浪児の生活は夫にも我が子にも話してこなかった。
 
戦争孤児が、自己の体験を語れなかった理由
イ、惨めすぎる過去を晒したくない
 生きるために盗みをしなければ生きていけなかった浮浪児たちは、
前述したように惨めそのもの、浮浪児だったことを家族にさえ話すことができませんでした。
幸せな結婚生活をしていた孤児が、もと戦災孤児だったことが判明して自殺した人もいます。
「あの人は刑務所に入っていた」「売春婦であった」とか、後ろ指をさされ、
軽蔑のまなざしに耐えきれなくなり自殺したと思います。
白眼視されたり、蔑視されますから、一生黙ったままです。

ロ、空襲下での極限状況が刻印されている
 親が自分の目の前で火だるまになって、死ぬのを見てきた子は、
あまりの凄惨な極限状態が刻印され、思い出すまいと心底に抑えつけてきました。
空襲を想起するようなもの、たとえば地震、災害、赤色、焦げた魚など見ると、
パニックを起こしますから、絶対に見ないようにしています。
今でも、その場面になるとワッと泣き伏し、「まだ語れません」といいます。
その刻印の深さは、はかりしれないほど深いのです。

ハ、親戚の悪口は語れない
 親戚は仮にも置いてもらったという負い目もあり、悪口は個人攻撃になり、やはり言えませんでした。
私もこれまでの自分史には、親戚の悪口を書けませんでしたから、
読んだ孤児からは「金田さんは孤児として幸せだったのね」といわれ、
知人からは「親戚に感謝しなさい」といわれました。
私は母の貯金があったので高校まで通わせてもらえましたが、
18歳で無一文で東京へきてから、崖っぷちを歩くような貧窮生活でも、
心の自由があり自分を取り戻せました。
親戚で自由を奪われ、何をされても口答えひとつできない、心を殺す生活ほど辛いものはありません。
一点の光もない絶望生活でした。
「生は死より辛い」あのころを思いだすと、どうしても生きていて良かったと思えません。
親戚への憎しみから生きてきたという人もいます。

ニ、精神に異常をきたした
 坊ちゃん、お嬢さんとして育てられた子は、その落差に苦しみ、
また気の弱い子も喪失感から無気力になり、自殺したり、あるいは精神異常になりました。
精神病院に入院中、あるいは治療中の人を私は何人も知っています。
愛人になった人が、心も身体もボロボロになり、
「私が孤児になったから」とうわ言をいいつづけている人もいれば、
幻覚に犯され周囲から狂人扱いされている人もいます。

ホ、学力無く、コンプレックスを持っている
 小学校も卒業できなかった孤児は、読み書きもできず、話をまとめる能力がない。
と自分自身に非常な劣等感、コンプレックスをもっています。
人前で話ができない。人の影に隠れ、人に知られないように生きてきました。
ある子は小1年で親の空襲死、それから学校へ行かせてもらえず、
私のアンケート調査に「カタカナしか習ってないので、字が読めなくて、
友人に読んでもらいました」と電話がかかってきました。

ヘ、村八分になる
 東北地方の農家などへ労働力として貰われていった子は大勢いました。
逃げるところがなく昼夜なくこき使われ働きづくめ、努力を重ね、やがて結婚、子どもや孫ができました。
ある地方の地元の先生が「当時の話を聞かせて」と尋ね歩きましたが、だれも頑なに証言を拒否しました。
愛情こめて育てられたのなら、よどみなく話ができるでしょう。
事実を公表すれば村八分になり、村に住めなくなります。せっかく築いた家庭も壊されます。

ト、人間としてのプライドがある
 人は自分を認めてもらいたい、飾りたい本能を持っているようです。
対等の立場でなく、上からの目線で、憐れみをかけられたくない、
同情されたくない、というプライドがあります。
惨めな話は軽蔑されるだけです。このプライドは男性に多いように思いました。

チ、人間を信用できなくなった、だれにも心を開かない
  大人や社会から利用され、虐待され、子どもたちからもバカにされ、
社会の底辺へ追いやられた子は、全く人間を信じられなくなり、心を開かなくなりました。
なかには反抗的になる子もいました。
「俺たちが良い子になったら、また、大人は戦争をおっぱじめるだろう」という子もいました。
大人に対する不信感は、相当根強く、孤児の心をむしばんでいます。
 
 孤児たちは親、家もないことで、就職、結婚も差別されてきました。
「親がいないからどんな育て方をされてきたかわからない」「どこの馬の骨かわからない」と。

  性格が暗いと孤児だから、明るいと孤児らしくない(両親ある子でも明るい子と暗い子がいる)。
何事も孤児というレッテルを貼られ、差別、偏見、蔑視をうけますから、
まるでエイズ患者のように、孤児であったことを隠して生きてきました。
 
 しかし、戦後60年前後から、ようやく孤児たちが話しはじめました。
孤児になった狩野光男さんは、画家を本業としながら、空襲体験画を描けなかったのですが、
75歳になってから描きはじめました。
浮浪児になった山田清一郎さんは、凄惨な浮浪児体験「俺たちは野良犬か」を2006年に出版しました。
そして、また親戚での実態も話をしなければ、孤児たちの本当の姿が浮かびあがりません。
少しずつですが、語りはじめました。みな高齢になっていますから、遺言です。
 
 孤児証言がでるには、これほど長い歳月が必要でした。
まだ語れない人は多くいます。戦争孤児は子ども故に訴える術をもたず、
成人してからも差別、蔑視をうけつづけ、組織をつくることもできず、孤独との闘いの日々でした。
従軍慰安婦より、中国残留孤児より遅く出てきたのは、それほど重い、深刻な、問題なのです。
 
 
参考資料

東京大空襲から68年-戦争孤児の実像 3月10日

「戦争孤児は国から捨てられた」「絶対こりごり」 3月23日

NNNドキュメント「戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年」

浮浪児と軽蔑された戦災孤児  *ボクの見た戦中戦後(14)