人間の群れには無秩序がつきものだ。
アリの群れとくらべて不都合が多すぎるが、また臨機応変な柔軟さを併せ持つことも差異としてあげられよう。
ロボットを考案し、その手で作り上げるにも関わらず人間の群れは「見かけ」のシステム化しかされていない。
進化の過程においてヒトは本能に加えた形で理性を得た。
「考える力」を手にしたヒトは「動物」の集合から自ら逸脱し、
「哲学」を手にしたヒトは「神」をはじめとした「目に見えない何か」を定義付けしてあたかも非力な自分達を蔑むかのようなフェイントの裏で「人間」を神格化したのである。
ヒトは人間となって動物の集合だけではない、自然の集合からも姿を消した。
八百万の考え方においても同様である。
「見えない何か」を人間とは遠い存在(つまり神という位地)として置くことによって更に人間という存在を孤立させて来たのだ。
しかし今日、ヒトがそうやって古来から築き上げてきた人間の地位が、自然科学の解明によって危ぶまれているということは言うまでもないだろう。
自然科学が徐々に解明されていくにつれ、今まで姿が見えなかった不可思議な現象の証明が可能になったのだ。
神という厚くしかし脆い偶像は、積み上げてきたよりも遥かに短い年月の中で崩れ落ちた。
ヒトはまた一つ学んだのである。
「目に見えない何か」は自然科学を持ってして人間の集合の中に取り入れることができるのだ。
そうして自然は神という座を退かれ、人間界に取り込まれた。
ー私が書こうとしている本題とはあまり関係のないことだが、環境問題云々と必要以上に騒ぎ立てるヒトの群れの烏滸がましい考え方は
(自然)∋(人間)
ではなく
(自然)∈(人間)
という認識から来ているものだと考えれば簡単にあれらの行動の意味が納得できるのである。ー
自然の神格が人の思惑から消えた時、自虐的な神の位置にあった人間はいよいよ本当に神の座に立つことができたのだ。
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