昨夜、ある方と食事をした。


当社の生体ミネラルをとても気に入ってくれ、

「JES相互扶助会員」でもあり、

前回開催した5/7の100名以上の東京講演会 にも、

一聴衆者として来てくれた。


「サイボーグ009」、「ウルトラセブン」、「銀河鉄道999」を手掛けた脚本家だ。


放射能についての本も出版しており、

多くの団体からも講演を依頼されている方だ。


当日の講演直後にその方は私にこう言った。


「本井さん、

阿部先生や永伊さんの話はとても良かった。

しかし最後のあなたの話はちょっとね(笑)。

猫の話などあの場では…

それはあなたの主体的な体験で、

聞いている人にとってはどうなんだろう。。」


時間が無かったせいもあったが、

確かにその通りだと思い反省した。


しかし、

とても温厚な方で、

私やJESのことを思っての意見だと言うことは理解できた。


博識でとても体験も豊富だ。


宇宙論については独自のお考えも持っていた。


そこでその方からもう少し話を聞いてみたい思いに駆られ、

昨夜、食事に招待させて頂いた。


私とは違い、

とても魅力的なお話をされる方だった。


とても楽しかった。


しかし、

今の私を作ったのは、

紛れもない過去の私である。


私は講演で、

何度も「知らない事は罪」という話をしている。


なぜならば、

知らない事で、

病気や恐怖、

不安、

絶望、

不幸が訪れるからだ。


では現状をしっかりと認識し、

知ってしまえば?


…全ては消え、

健康や安心、

喜び、

希望、

幸せが訪れるようになっている。


実はこのことに気付いたのは28年前である。


そう、私が放射能の研究室にいた頃のある事件がきっかけだった。


ある1匹の子猫の死である。


これがきっかけで私は翌日、会社に辞表を提出し、

その後の考え方、運命が変わった。


この体験が無ければ、

少なくとも今こうして、放射能対策のための講演を主催 することはない。


(※次回の東京開催は、5/28豊島公会堂800名である。

本ブログ読者の方は無料:お問い合わせください。

電話:03-3364-7401)


その後、この脚本家の方も十分理解して頂いた。

とても素晴らしく、

興味深いお話をされる方である。

本社セミナーでも話して頂くことに決定した。




《拾った子猫の死》


この子猫の死は、

その後の私にとって人生観を変えた大事件だった。


当時26歳だった私は、

前職の会社がいきなり倒産し、プータローだった。


しかし、
お金も多少余裕があったので、しばらく就職するつもりは無かった。


たまたまある日、

本屋で立ち読みしていたら、
ある1冊の本が目に飛び込んだ。


「人類を救う!核シェルターの設計施工会社」・・・


核戦争でも想定しているのか、そんなバカな…

と思いながらも、やけに気になった。


紙がなかったので、

手にその会社の電話番号を書き、
アパートに帰ってから電話してみた。


「面接ですか?…今当社は求人を行なってませんよ」


受付嬢曰く、今は新人募集してないとのこと。


でも社長に会うだけ会わせてください!…と頼み込み、

都内にある本社に向かった。


当時その会社は、

国鉄(※現JR)の地下トンネル工事の80%の設計を請け負っていた。


核シェルターは会社の中でも、

「防災部」という小さなセクションで扱っていた。


当時の社長が、

「ピサの斜塔」の修復工事の見積もり依頼を請け、
イタリアのフィレンツェに向かう機内で、

いきなり天から啓示が下り、
「放射能の被害から人々の命を守りなさい」と伝えられ、

それで防災部を新設したのだそうだ。


年も押し迫った12月25日、社長と会うなり、
「あなたが火の玉ボーイですか…」

と意味不明なことを言われた。


「いや、当社の顧問が、

クリスマスに若い火の玉がやってくる・・・って言ってね、
彼が来たら是非採用しろと・・・

彼女は実は私のお抱えの霊能者なのだよ」


「やっぱり来るんじゃなかった・・・ここも変だ」とその時は思った(笑)。


でも乗りかかった船、
火の玉と呼ばれた自分がどんなことするのか、

確かめてみたい気持ちになった。


そして異例の高待遇で、

会社側が私の住むアパートまで用意してくれ、
ボストンバッグ一つで引っ越した。


弱小防災部には社長の息子、そして設計士の二人だけだった。


入社して、

日本だけ核シェルターの普及が全くなされていないことを知った。


ロシアは人口の300%以上収容できる施設が全国に散在している。
米国は200%だ。


世界の常識は日本では通用しない。。


当時、TVや週刊誌の話題にも上り、

取材の対応は私がした。


同級生は私の顔がニュース番組に出てびっくりしていた。


しかし、

お問い合わせが来るのは興味本位の人ばかりで、
さすがに実際に建築する人は少なかった。


私が営業し、ようやく建築が1件決まり、
意気揚々とその設計の建築監督に私が任命された。


ところが現場で事件が起きた。


ある日、地下にいた私の頭上すれすれに、

いきなり砂袋がズドンと落ちてきたのだ。


二階まで吹き抜けのため、どうも上階からのようだった。


下手をすれば首の骨を折って死んでいる。


私は即座に

「誰ですか!今、砂袋を落としたのは?!」と大声で叫んだ。


すると、こそこそと笑い声が聞こえてくる。


明らかに職人たちの「わざと」であった。


工事は全然進まず、予定よりも大幅に遅れていた。


私は苛立っていた。


職人たちの声が聞こえた。


「こんな核シェルターまで作って、生き延びたいかねぇ、
地上に出て何も食いもんがなかったら、どうせ餓死だもんな、
俺ならいさぎよく死んだ方が増しだと思うぜ、なぁみんな!」


「ははははは・・・」


実は私も一部共感する部分があった。


でもこれは

「人類を救う大切な仕事だ」と自分で言い聞かせていた。


何を思うと個人の自由だが、
嫌がらせを行なったり遅刻したり約束の日を守らないのは、
仕事上、怠慢としか思えない。


けれども、

実は職人たちがここまで乱れたのは、
私に原因があったのだ。


工期が遅れたのは、
会社側のスケジュールミスであったのに、
施主に対する言い訳として“彼らのせい”にしたからである。


実はこれは上司の指示による言い訳だったのだが、
職人たちにはそれがばれていて、

これを根に持っていたようだ。


そしてお昼になった。


いつも私が昼食時に彼らのお茶を入れていたのだが、
工事の棟梁が、

「今日はお前のお茶は俺が入れてあげる」と、

いきなり言い出した。


変だ、

こんなことは初めてだ…


みんなが一斉に棟梁を注目した。


私は、「少しは反省でもしたのかな・・・」と思いきや、

なんと、
私に入れたお茶の中に自分のツバを
「かーっ!ぺっ!」と露骨に入れたのだ!


そして私の目の前に“ツバ入りのお茶”を差し出す。


「さぁ、飲め!」


若い衆のみんなはへらへら笑っている。


若かった私は、

間違いなく切れる寸前だった。


ここでもし私が衝動にかられたら、

全てが終わることくらい、百も承知していた。


その時、一瞬、 (?)の声がした。


その瞬間私は、

なぜかそのお茶を一気に飲み干していた。


すると棟梁が、

いきなり無言で私の背中をドンと叩いた。


「よくやった!」


…と言わんばかりの優しい目をしていた。


多分私はその時、

精気を失って真っ青になって佇んでいたと思う。


よく覚えてないが、

周りから拍手みたいな音も聞こえた。


しかしその時以降、
今までとまるで打って変わったように、

皆が仕事に精を出すようになった。


若い衆に「お疲れ様・・・」と声を掛けると、

ちゃんと返事を返すようになった。


驚いたのは翌日、

私の弁当まで棟梁が用意してくれたことだ。


「いつもそんなパンばかりじゃ身体が持たんだろ!」


すると他の若い衆も、

「お前、これ食え!」と、

卵焼きやらウインナーやらをその弁当箱の蓋に入れてきた。


納期は多少遅れたが、

無事、営業第1号の「核シェルター」が完成した。


ひょっとして棟梁は、

全てを計算してわざと、

あの「ツバ茶」行為を

したのかも知れない。


お互いが一つの気持ちにならなければ、
決して良い仕事はできないことを、棟梁が知らないわけがない。


あのままでは間違いなく納期は大幅に遅れ、
次の予定の工事業者からクレームになっていた。


核シェルターは地下室の建築だから、
それが終わらないことには、

次の建築業者にバトンタッチができないからだ。


職人たちも棟梁もその責任から逃れることはできない。


しかし、若い衆は私に対して恨みを持ち、

全然工事は進まない。


「この不調和の状態から脱するには、この方法しかない・・・」

と、棟梁は判断したのかも知れない。


一種の賭けだったのだろう。


彼らは最後までこの事件のことには触れなかったが、
私はどうも、彼らから強烈な洗礼を受けたようだ。



でも、この会社での仕事は、精神的にも辛かった。


世間やTVからは脚光を浴びていたが、

他の部からは蔑みの目で見られていた。


当然ながら、心から話せる友達などできなかった。


事務員もみんな私を無視していた。


いじめも受けていた。


入社して丸1年経とうとしている頃の12月の上旬頃だったと思う。


ある日の晩、

私は会社が家賃負担してくれた三鷹のアパートにいた。


外は雨なのに、さっきからずっと猫の鳴き声がしている。


どうも子猫の鳴き声のようだ。


猫好きの私は、

傘を差してその猫の鳴き声を頼りに探した。


道路のくぼ地に水が溜まっていて、その中に、
まだ目も開いていない子猫が、

びしょ濡れで、水溜りで、

もがきながら泣いていた。


子猫は、

寒さでぶるぶる震え、

痩せこけていた。


目も開いていない子猫なのに、近くに親はいない。


このまま道路の水溜りにいたら、

間違いなくいつか車にひかれてしまう。


思わず子猫を抱き抱え、

私の2階のアパートに連れて行った。


私は当時とても孤独で寂しかった。。


今思えばおかしいが、

休日の時はあまり寂しくて、

カレンダーの女性に延々と数時間、話していたこともある。


ツバ茶事件の後だったせいもあるが、
50名近くいる本社の中では鼻つまみの防災部だったため、
他の社員は誰も口も聞いてくれなかった。


唯一の仲間である同じ防災部の先輩設計士は、
自分より高待遇で採用されていた私に対し、

いつもイライラして、
「営業が何ぼのもんだ!俺がいなければ柱一本建たないくせに!」

と皮肉をいつも言っていた。


社長の息子である上司の次長も、

しょうがなく社長である父親の命令に従っただけで、
またこういった性格の設計士のことを気遣いして、

私の入社を歓迎していなかった。


「お前が入ったことは、波紋の何者でもないんだ!」

と、酒の席でからまれ、いきなり殴られたこともある。


「とんだ火の玉ボーイだよ!本当は火中の栗じゃネエか?
我々は人類を救う大切な仕事をやっているんだ!

お前にはそれが全く分っていない、
どうせ他の客と同じで冷やかしに来たんだろ?」・・・とも言われた。


事務員の女性陣もいつもイライラしていて、

私にはお茶すら入れてくれなかった。


人類を救うはずの会社なのに…


設計士中心で、

営業は部長以上が担当していたため、
ペーペーの存在で営業職なんて・・・ということで、
私は当初、社内では認められない存在だったようだ。


こんなギスギスした雰囲気の中で、

私はいつも針のムシロ状態の中にいた。


歓迎会どころか、誰も飲みに誘ってはくれなかった。


防災部の次長は一応社長の息子なので、

周りが私のことを可愛そうだ・・・と思っても、
見て見ぬ振りをするしかなかったようだ。


トップセールスマンだった前職の時は、

成績には厳しかったが、
多くの人と出会う営業体質の会社のため、

全社員が家庭的な雰囲気の中で、
人間的にも一回りも大きい人が多かったように思う。


事務員さんも営業マンと一緒になって、

喜びや苦しみも共有していた。


それと比べたら、

この会社の社内の雰囲気は最悪だった。



さて、子猫を抱きかかえた私は、

部屋に戻り早速身体を拭いてあげた。


私の下着シャツで身体をくるみ、

「とにかく温めねば死ぬ」と思った。


私は毎日外食だったため、

部屋の中には食べるものなど何もない。


初日は取り敢えずスヤスヤ眠ったため、

そのまま朝を迎えた。


翌朝は子猫の泣き声で目が覚めた。


早速、

牛乳と食パンを買ってきて食べさせようと口に入れたが、

全く食べようとしない。


生まれてばかりだから、

どうもおっぱいを欲しがっているようだ。


出勤の時間になったので一旦会社に出て、

すぐに営業のフリをしてアパートに戻った。


ペットショップを探し、

店の人にどれを買ったら良いかをたずねた。


そうしたら、

「お客さん、それは生後間もない子猫ですよ。
一日5回くらいこの哺乳瓶でミルクを上げないと、

すぐに死んじゃいますよ」と言われた。


まさか会社に猫を連れて行くわけにも行かないし、

相談できる友人は周りに一人もいない。


こうなったら、

できるだけ頻繁にアパートに帰るしかないと思った。


翌日は運良く休日だったので、

思いっきり世話をしてあげることができた。


そして一日中遊んでじゃれていた。


久しぶりに楽しかった。。


こうして4日目に入った。


私が帰ると、目が見えない身体で、
ヨタヨタ匂いで探りながら、

必死にそばによってこようとする。


寝るときも、

私の汗臭いシャツに包まれないと寝ないようになった。


上司の目を盗みながらアパートに帰るのは大変だったが、

とても心が安らいだひと時で、

いつも急ぎ足でアパートに帰った。


帰ると毎日いつも一人、

暗かった部屋がとても明るく感じた。


名前も「チョコ」と名づけた。


今の僕にとって唯一の「希望」だった。


しかし5日目の夜、

なぜかミルクを飲む量が少なくなった。


お腹もパンパンに膨れている。


盛んに私の周りをうろちょろ動き、

ニャンニャン泣いてばかりいる。


「昼間、ミルクを上げすぎたかな?・・・」

と思い、その日はそのまま寝た。


翌朝、いつもならチョコの泣き声に起こされるのだが、

今朝は枕元で静かに良く眠っている。


「可愛いなぁ・・・」


私は目が覚めてからも、

うつぶせになりながらしばらく眺めていた。


そして起こさないようにそっと立ち上がり、

いつものようにお湯を沸かし、ミルクを作ってあげた。


普段なら、

それにすぐ感づいて、

ニャーニャー私の足の周りにまとわり付くのに、

今日は静かに眠ったままだ。


???・・・まさか・・・


しゃがんで、

ちょっと体を突っついて見た。


その瞬間、全ての時間が止まった。


冷たく固くなっていて、

そのままの状態でコロンと…



「おぉぉぉぉ・・・!」


声にならない声で涙が止まらなかった。。


何が起きてしまったのか

すぐには理解できなかった。



その日は会社を休み、

公園の隅に穴を掘って葬って上げた。


それからペットショップに電話した。


「えっ!ウンチを出してあげなかったのですか?!」

と言われた。


生まれたばかりの動物は、

お母さんが肛門を舐めることで便を促すことを知った。


親猫がいない場合は、

温かく濡らした脱脂綿で肛門を刺激させるとのこと。


そんなことすら知らないで、

私は1匹の子猫を殺してしまった。


貴重な1つの生命を、私の無知が原因で…


その時に初めて、

「知らないことは罪」であることを痛烈に自覚した。


「猫の命一匹救えないで、何が人類を救うだ!

おれは何て大馬鹿者なんだ!」


どうしようもない自分に対する憤りで、

私は会社に辞表を書いた。


しかし次長は、
なぜか私の辞表を受け取ってくれない。


設計士も飲みに誘ってくれ、

「お前、頼むから辞めないでくれよ・・・」と泣きつく始末。


彼らには、まさか子猫が一匹死んだことが原因で、
私がこの会社を辞めるなどとは想像にもしなかっただろう。


次長がどうしても辞表を受け取らないため、
数日後、直接社長室に向かった。


気持ちは変わらなかった。


既に社長は次長から聞いていた。


「君は防災部ではなく土木建築部に転属しないか?

部長もずっと君を見ていて、是非、君が欲しいらしいんだが・・・」


「いえ、私は防災部の営業がしたくて入ったんです。
すいませんが辞めさせてください。」


「そうか、残念だ・・・

ところで君、白隠禅師の“軟酥(なんそ)の法”って知ってるかい?
内観の法と軟酥の法を実行することで、ほとんどの病気が治ってしまうんだ。
私は数年前に、○木○彦と言うペンネームでその本を書いた。
いずれ私はこの方法を広げたいと思っているんだが、

君、是非協力してくれないか?
顧問の霊能者も、そのために君がここに来たと。
シェルターと違って、別な意味で人類を救う道だ、どうだろう?」


「ありがとうございます。しかし、私は辞めたいのです。」


「どうしても駄目かい?」


「すみません。」


実はこの会話は、最近まではっきりと覚えていなかった。


当時、実家に送った荷物の中に、

この社長の言った言葉を書き留めていた手帳を、
封印された段ボールの中から偶然見つけたのだ。


そこには「○木○彦」、「はくいんぜんじ」、

「なんその法」、「内観」と書かれていた。


何と、白隠禅師の“軟酥(なんそ)の法”は、
私が独立してから大ヒットした「記憶法」の

カセット教材用にテープ原稿を書いたこともあり、
“内観”は、私が最も衝撃を受けた体験

(守護霊との対話?)をした方法でもあった。


全く記憶の隅にもなかったことが、

十数年経てシンクロしていたのだ。


反省や内観によって、

過去世の記憶が甦ってくる現象を“霊道現象”といい、
多くの人がこの現証を体験していた。


「人間の魂は永遠に転生輪廻を繰り返し、

生命の流転を経て向上するものである。

そして過去世と同じような仕事や環境、

縁を持って生まれることをカルマ(業)という」・・・と教えてくれた。


つまり人生におけるシンクロニシティ(共時性原理)、

または相似性原理のことだ。


わずかこの数十年という人生の中でも、

こういった原理が働くならば、
当然、魂の転生輪廻の中でも同じ法則が働くはずだ。


“カルマ”は悪い言葉で使われていることが多いようだが、
実はこのシンクロニシティに、

転生輪廻の秘密が隠されているような気がしてならない。


次に生まれる場所、環境や設定、宿命、計画が多少違っていても、
何らかの過去世との繋がりにより、同じような仕事、
同じような環境、同じような縁や関連性を持って生まれるような、
そんな基本システム(生命流転の法則)が、

宇宙にはあるのかも知れない。


それは各人が、
永遠の転生輪廻の中でも“魂の指向性”という、

永久に変わらない価値観を持っているため、
その中で出会うべきして出会い、
体験すべきことは体験し、趣味や癖でさえも、
過去世との共時性や相似性を帯びているのではないか・・・と思う。


1匹の猫の死が、

その後の私にとって大切なことを教えてくれた。


ありがとう。。