この「他人から見た自分の想像」は、一番のポイントなのです。
人は他人から見た自分を想像して、それを他人が自分の事をこう思っているんだと錯覚してしまいます。
しかし、相手は本音を言っているのか、社交辞令を言っているのかなどは誰にも分かりません。
つまり、自分の感じている世界観は、鏡に写った自分の心を見ているに過ぎないのです。


例えば、足元に顔をこすり付けてくる猫。
これは、猫好きの人が見れば甘えている可愛い猫に見えますが、猫嫌いの人から見れば毛をこすりつける煩わしい動物に見えます。
同じ猫の仕草でも、見る人の心で見え方が変わるのです。

人から指摘される肉体的な事は、言い換えれば他人から見たその人の特徴なのです。
問題は、その事にコンプレックスを持っているか持っていないかで、感じ方は変わるのです。

同じ言葉でも、その人がコンプレックスを感じている事は「悪口」として聞えますし、コンプレックスを持っていなければ悪口として聞えません。

たとえ悪口で言われたとしても、悪口として受け取らず、逆に自分からアピールしてしまえば、それは悪口にはならないのです。


自分がコンプレックスと思っている事は、他人は気にしていない事が多いのです。

逆に、その人の覚えやすい特徴や、その人のチャームポイントとして見ている場合さえあります。


代表的な悪口に、デブやブスなどが有りますが、顔立ちが悪くても人気がる芸能人や、太っていても人気がある芸能人は沢山います。

つまり、自分思っているコンプレックスは、人に覚えてもらえるアピールポイントでもあるのです。


こんな事を経験した事はありませんか?
名前を覚えられない人を、身体的特徴で覚えている事。
例えば「先日営業に来た、ハゲの人・・・ウ~ん名前が思い出せない!」とか、「あなたの友人の中で、一番チビだった人」など、名前より身体的特徴の方が覚えやすいのです。
それは、何の特徴も無い人より「人に覚えてもらいやすい」と言う特徴なのです。

例えば、頭のハゲた営業マンが「ハゲの鈴木です」などと自己紹介すれば、一発で人に覚えてもらえます。
これが、営業マンとしてどれだけ有利な事か、それだけではありません、自分でハゲと言う事で相手に対して「面白い人」と言う印象を与えます。
営業先の人は、最初は構えています。
そこで、最初の自己紹介の時にさりげなくギャグを入れると、構えていた心が緩みます。
しかも、鈴木などやたら多い苗字の場合、相手の記憶に残りやすいのです。


ここで少し考えて見てください。
軽い冗談で「デブ」と言われた人の態度による違いを・・・
デブと言われて怒ったり暗くなったり、泣いたりした場合「冗談が通じないのか?」「悪い事言ったかな?」など、その人との付き合いは気を遣わなければなりません。

それでは気兼ねの無い友人にはなれませんし、そんな事が続けばその子とは話したくなくなります。
つまり、仲間はずれの始まりです。

逆に、デブと言われて「そんな事言うなブー!」などと、冗談で切り替えしてきたら、話をするのが楽しくなりませんか?
そして、周りの雰囲気が明るくなりませんか?
ここに「物事の見方による違い」があるのです。

「自分の事をネタにしたら笑ってくれた」と感じるか「自分の事をネタに笑われた」と感じるかで、その人の世界観は180度変わります。


教育の問題はそのあたりにあると思います。
確かに、人を傷つけるような発言は注意すべきなのですが、場の雰囲気(空気を読めない)に関する事や、物事の受け取り方なども指導しなければ、いじめ問題の根本的な解決は出来ないと思います。


そう言ったコンプレックスを抱えたままでは、自分とは関係の無い話の中の「デブ」と言う単語に対しても、自分の事を言われていると勘違いしてしまいますし、そう言った感覚の持ち主は、他にも多くの傷つくキーワードを持っています。
そのまま成長すれば、被害妄想的因子を育みながら成長していく事になるのです。




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