こんばんは。
さっそく前回の続き。
アソパソマソ号(あしずり号)は無事定刻通りに高知駅に到着。
そこから高知駅北口にあるバスセンターよりG6~G9の乗り場より学校分岐バス停を目指します。
バスは予定より5分ちょっと遅れて到着し、そこから予定到着時間もそのまま5分ちょっと遅れで現地到着。
(これくらいなら全然公差内です)降りてすぐ傍に岡豊(おこう)城の登城口があります。
いや、連休中も一応城域内にスタンプがあるってどこかのサイトで確認(模擬天守があった時と別に)してあったので・・・
でも無い可能性も加味していたので、あったらラッキーくらいな気持ちで行きました。
折角高知来たなら見ておいて損は無いですし(また来れるかどうかは疑問ですが(汗))
岡豊城は山城なんですが、お城自体に向かうよりその入口のある歴史民俗資料館までに舗装道路でほぼ登りつくしてしまいます。
なのでここが地味にきつかった・・・いや、全然疲れてねぇし(←嘘w)
その途中に
香川親和のお墓があります。
親和は長宗我部元親の次男になります。
戸次川の戦いにて亡くなった元親の長男・信親(仙石秀久の無能な指揮せいで・・・と自分は確信しているが、そいつが後に徳川家に仕えているのをみると・・・家康にその才能を危ぶまれて追い込ませた・・・なんて勘ぐってしまいます・・・とりあえず個人的にごんべは嫌いな武将5本指筆頭クラスで嫌いです)に変わって長宗我部家を継ぐと言われていたものの・・・
自身が香川家に養子に出されていた事、元親が4男盛親を溺愛していた事、信親の死によって元親が情緒不安定になっていた事等々どれが真相なのか解りませんが、長曾我部家は盛親に継がれる事になり。
※秀吉には親和でないと跡継ぎとして認めないといていたのを元親が押し切って、実質盛親は正式な跡継ぎとして豊臣政権には承認されていなかったとされているとか。。。
何にしても親に長曾我部家を継ぐ資格無しとされてしまった為、失意のうちに病死してしまったそうです。
武将としては有能だったとされる親和ですが、当主としては盛親の方が上だったと元親が認めたっていうのが正確なところかと思いますが。。。
岡豊城の中腹にぽつんと佇むお墓・・・ちょっと寂しいですな
ちなみに香川親和の墓所、道すがらに案内出てますが、折角登って来たのに一旦下るので、帰りに寄るのが良いでしょう(実は自分もそうだったw)
駐車場完備です。
右上に見えているのが岡豊城になります。
閉館していたのに、車3台くらいいたんですよね・・・実際岡豊城の入口で1名とはすれ違ったんですが。。。あ、あと清掃している人もいたな。
自分にはサタデーナイトフィーバーのポージングにしか見えず、笑てしまいました
(写真右に寄っているのは、階段のところに人がいたから・・・いきなり笑ったの見られたかもww)
二ノ丸
二ノ丸東突端
今回の遠征含めて最近のお城見学で、各地とも冬枯れの気配が無いんですよね・・・やはり温暖化の影響あるんでしょうか・・・
去年2月まではここになんちゃってイベント用簡易天守が建っていたんですよね
主郭~二ノ段の石段
三ノ段帯曲輪
二ノ段から三ノ段にかけて石積みが多いです
二ノ段と三ノ段の間の切岸
ここからちょっと離れた場所に伝厩跡曲輪が・・・山下なんだよな・・・(と面倒くさがって行こうかどうか迷うw)
が、ここにワンチャンスタンプあるかもしれないので行きましたけど(←(-ω-;))
藪残しで形状解らず(=ω=;)
ガセネタの可能性も考慮していた為か、そこまで落胆しなかったのは自分でもビックリ
ついでに結果論書くと、今回の遠征で高知再訪熱上がったので、再訪必須なんですよ。。。なのでその際に続100名城スタンプリベンジしようと思っております(`・Д・´)ゝ
なんちゃって物見台に登ってみた・・・景色はここの方が良かったです。
先程判別困難な竪堀のあった場所・・・良く見れば土橋・堀のセットだったんですね。
舗装道路は遺構見逃す可能性大なので、こういう風に逆方面から見ると気付く事多いです。
最後に戻りがてら未踏地にある横堀を見つけて見学終了。
岡豊城、遺構のバリエーションはなかなかなものの、続100名城のレベルを突き抜ける程のお城では無かったかな~という印象です。
ま、比較的公共交通機関での訪問が容易な部類の場所なのが救いです。
一通り見学しちゃったので、再訪時はスタンプと資料館に期待ですかね。
という所で今回はこの辺で。
でわでわ( -ω-)/