東京-北陸-福岡・最新鋭のB787からDHC-8-Q400,B767を乗り継いだ駆け足の空の旅 | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成26年の3月の初めに、福岡まで忙しい旅をした。

忙しい、と言う訳は、時間が限られている中で目的地が厳然と決められているからであって、つまるところ、仕事と言うことなのである。

内田百閒先生の随筆の一節に、ハタと手を打ったことがある。

『東京から大阪まで必ずの用事があって出かけると云う場合に、草履を穿いて歩いて行くよりは汽車に乗った方が便利である。
しかしそれは用事が先にあって、汽車と云う交通機関がそれに伴った時の話であって、今我々の経験している便利と云う考えはそんな物ではない。
汽車が先にあって、後から用事が起こるのが普通である。
歩いて行くよりは汽車に乗った方が便利ではあるが、実際の場合は、汽車さえなければ大阪へ行く用事なんか起こらないであろう』

昭和の初めに、このような鋭い考察を加えていることには頭が下がる。
世の中、色々便利になりましたけれども、それに振り回されていませんか、と警鐘を発しているのである。

『いくら汽車が早くても、あるいは飛行機で出かけるとしても、行かないよりは時間がかかる。
交通機関の発達の極致はどこへも行かないと云う事でなければならぬ』

と百閒節は続くから、思わず吹き出してしまう。
一方で、僕は、さだまさしの『関白失脚』の次のフレーズが大好きである。

『それから あれだぞ
テレビ・ショッピング
買い物くらい 身体動かせ』

話が逸れたけど、僕の場合も、目一杯仕事をしている中で、週末に福岡まで往復しろなどというオーダーは、飛行機や新幹線がなければ出てこないだろうと思う。
その目的だけに忠実に従ったのならば、同情される余地はあるのだが、僕の場合は、自分の趣味的なオプションをつけることが職場でも知られているから、誰も、僕を遠くの出張に行かせることを躊躇してくれない。

昨年の同じ時期にも、福岡出張の話が持ち上がって、僕は九州新幹線の初乗りを兼ねて東京から鹿児島まで足を伸ばしてから、福岡に戻っている(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11484603850.html

乗り物が趣味を兼ねている場合は、どう考えればいいのだろう。
御自身も熱烈な鉄道ファンであった泉下の百閒先生に、ぜひともお聞きしたいところである。

今回は、少し切実な理由で、寄り道をした。
福岡へ出張の行きがけに、金沢で病気療養中の母を見舞おうと思ったのである。
9時5時の勤務や週休2日が保証されている仕事に就いているわけではないので、日常の合間を縫って金沢まで出かけるとなれば、いくら大義名分があっても相応の手間暇と覚悟を要する。
少しでも東京を離れる機会があるならば、金沢に寄ろうと心に決めていた。

後の話になるけれども、今年の5月には、岡山の仕事の帰路に金沢まで大回りして東京に戻った(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11849582489.html)。

今回の仕事は日曜日の朝からなので、土曜日の夜に福岡に着いていればいい。
土曜日の朝、愛車で早朝の羽田空港に乗り付けた。
未明の都心は、雨がぱらついていた。

立体駐車場に車を置き、早々と搭乗手続きを済ませてから、広大な空港の敷地が一望できる喫茶店でモーニングを頼んだ。
旅の面白さは計画段階にあると言われるけれど、旅立ちの直前、乗り物に乗るまでの憩いの時間に勝る至福はないように思う。

様々なANAの機体が、眼下にずらりと揃っている。
中には、旧塗装に塗り替えた機体もあって、懐かしい。
機体が新型のボーイング767だったから、少しチグハグな感じを受けた。
 

 

古い話だが、ANAの旧塗装と言えば、同社のジェット化を一気に押し進めたボーイング727か、汚職事件で一躍有名になったロッキードLー1011トライスターという思いこみがある。
国産旅客機YSー11も似合っていた。
旧塗装のボーイング747ジャンボジェットは、JALと比べればどこか愛嬌があった。
 


僕が初めて飛行機の旅を経験したのは、昭和59年の夏だった。
飛行機というものに乗ってみたくて、羽田から伊丹まで往復したのである。
大阪に、何の用事もなかった。

内田百閒先生の有名な『阿房列車』は、『なにも用事がないけど、汽車に乗って大阪に行って来ようと思う』と始まるが、同じことを、僕は飛行機で実行したのである。

往路はJALのB747のフライトを選んだ。
初めて乗るならば日本のフラッグシップであるJAL、そして世界最大の機種、という単純な理由だった。
当時のJALは、世界最大のB747のユーザーで、最終的に113機を発注したという。
日本航空と言えば、鶴丸マークが垂直尾翼に描かれたジャンボジェット機を思い浮かべる人が少なくないと思う。

 


 

初めての登場手続きと手荷物検査に戸惑い、待合室で、もし自分の乗る便が墜ちたりしたら親は悲しむだろうな、と後悔の念に似た不吉な思いにとらわれたり、離陸時の、身体が背もたれにぐいっと押しつけられる急加速と、機体が地を離れる独特の浮遊感に驚いたり、着陸までの降下の緊張感や接地時の衝撃にヒヤリとしたり。
自分はどんな表情をしながら1時間弱の飛行時間を過ごしていたのだろう、と思うと、ちょっぴり可笑しくなる。

飛行中の眺望は、自分が高度1万メートル近い高空にいるという、信じがたい現実への高揚感や感動とも相まって、筆舌に尽くしがたい素晴らしさだった。
時折雲がふわふわと浮かび、海面が黄金色に輝く、快晴の日だったと記憶している。
生まれて初めて経験する飛行機の旅は、驚きとスリルに満ち満ちていて、すっかり僕を虜にしてしまった。

伊丹からの帰路は、同じ航空会社の同じ機種を利用するのも芸がないと思い、ANAのLー1011トライスターを利用した。
当時の羽田-伊丹線は、JALがB747、ANAがL-1011、そしてTDA(東亜国内航空)がエアバスA300と、個性的な大型機が就航していた。
ジェット機というものは、乗ってしまえば、機体の大きさやキャビンの構造の違いを除いて、乗り心地に大きな差異があるわけでもないのだけれど。



 

B727は、引退直前、最後の運用に就いていた羽田-山形線で乗った。
もちろん、山形に何の用事があるわけでもなく、ただB727に乗りたいがためだけに往復したのだ。
後部の床下が大きく開く、輸送機みたいな乗降方法が珍しかった。

ANAカラーのYSー11は、系列の日本近距離航空の羽田-大島線で2回ほど利用した。

ANAの旧塗装のB747ジャンボジェットで僕が思い出すのは、当時ANAの単独運航だった羽田-小松線である。
生まれ故郷への往復として、確か大阪往復の数ヶ月後、2度目の飛行機旅として利用してから、何回か利用した。
眼下に広がる日本の脊梁山脈の陰影に富んだ眺望は、羽田-大阪線とは違う新鮮味があった。



 

日本の航空需要を支え続けたB747をはじめ、ここに思い出した機種の全てが既に日本の空から引退していることに、容赦ない時の流れを感じる。
思い出すのは、東日本大震災直前の平成23年3月1日、JALの象徴とも言えるB747が完全に隠退した日の、ラスト・フライトにおける羽田での交信記録である。
 

東京管制塔:「JAPAN AIR 4904,Turn rightA8,Contact ground 121.7……21年間お疲れ様でした」
JAL4904:「Contact ground 121.7……こちらこそ、ありがとうございました」
JAL4904:「Tokyo ground,JAPAN AIR 4904on A8
地上管制:「JAPAN AIR 4904,Taxi via W8
JAL4904:「Taxi via W8,JAPAN AIR 4904
地上管制:「JAPAN AIR 4904, えー、本日、日本航空B747-400型機のラストフライトと伺っております。今まで本当にお疲れ様でした」
JAL4904:「こちらこそ、21年間お世話になりました。ありがとうございました」

 

いつもはドライな管制のやりとりに、このような血が通った会話が交わされたことに、胸が熱くなる。
このあと、JALは経営破綻し、日本の空は激しく様変わりすることになったのである。

我に返ると、わずかに窓を震わせる轟音を残して、向こうの滑走路から、ひっきりなしに出発便が離陸していく。
雨はやんでいたが、機影が溶けるように消えていく空は、分厚い雲に覆われていた。

『9時40分発、全日空、富山行き、883便は、間もなく搭乗手続きを開始いたします』

録音された女性のアナウンスが、一語ずつをはっきりと区切る、ゆったりした独特のイントネーションで、出発ロビーに響き渡った。
最近、ANAは『全日空』と言うのを避けているようで、地上係員やキャビン・アテンダントなどは、

『本日もスターアライアンスメンバーANA(エーエヌエー)を御利用くださいましてありがとうございます』

と肉声でアナウンスするようになっている。

ちなみに、JALのアナウンスは、何があろうとも『日本航空』である。
『JAL』とは絶対に言わずに、

『本日も、ワンワールド日本航空を──』

であって、このこだわり、僕は好きである。

金沢に行くのに富山行きに乗るのかとお思いであろうが、小松空港が福井寄りに離れているから、リムジンバスで40分から1時間ほどを要する。
一方、富山空港と富山駅がバスで20分ほど、富山と金沢が特急列車で40分ほどであるから、所要時間に大きな変わりはないと考えた。
富山空港を利用したことがなかったから、1回は使ってみたかったという理由もある。
しかし、最大の理由は、最新鋭のB787に乗ってみたかったのだ。
 


平成16年にANAがローンチ・カスタマーとして50機を発注したことで開発が始まり、様々な生産トラブルによる製造の遅れも乗り越えて、平成23年10月から日本の空を飛び始めた最新鋭機である。
日本企業が担当した機体部分は35%で、今までで最大である。
航空機の開発に日本企業の参入が話題になり始めたのは、昭和57年に運用を開始したB767からと記憶しているが、その担当比率は15%、平成7年に運用開始となったB777が20%であったという。
一方で、バッテリーの出火や燃料漏れなどのトラブルが相次ぎ、平成25年1月から5月まで、全世界で運航停止の措置がとられたことも記憶に新しい。
日本のメーカーが開発した炭素繊維複合材による軽量化と、エンジンの燃費向上により、航続距離は東京-ヨハネスブルグ間に匹敵する1万5700kmにもなる。

これまで大型機でしか運航できなかった長距離路線への就航を実現したのが、B787の最大の特徴だが、その初乗りが、飛行距離176マイル(282km)、羽田発着国内線の中でも大島線と三宅島線に次いで3番目に短い富山線とは、ちょっぴり勿体ない気もする。
ちなみに、羽田-小松線の飛行距離は211マイル(337km)である。
 

 

搭乗案内に従って乗り込んでみれば、ピカピカの新機材だった。
座席の背もたれが従来より薄っぺらいように見えたが、腰を下ろせば、意外に深々とした座り心地だった。

機内放送が、全て合成音というのも印象的だった。
女性のよくできた声質なのだが、柔らかみのない金属的な響きだった。

出発便がひしめく誘導路を悠然とタキシングし、あっという間に空に駆け上がる感触は、どのような機種であろうと爽快である。
雲の上に突き抜ければ、真っ青な空と、陰影に富んだ雲海が一面に広がった。
美しい曲線を描きながら伸びる主翼に、陽の光が照り輝いている。
 


ベルト着用のサインが消えた直後から、所要時間が短いので用足しなどは早めにお済ませ下さい、と繰り返しアナウンスがあり、何だか慌ただしい。

すぐに降下が始まって、雲の下に出れば、白い波頭が無数に浮かぶ一面の日本海だった。
B787は旋回して富山市街上空をパスし、神通川の流れに沿って降下していく。
ぐんぐん近づいてくる河原を見下ろしながら、着水するわけじゃないよな、と冗談めかして窓に見入っているうちに、車輪が滑走路を噛む力強い衝撃が機体を揺すり、1時間の最新鋭機の旅は幕を閉じた。
 


小ぢんまりとした空港ビルを足早に通り抜け、僕は、10時50分発の富山駅行きリムジンバスに乗り込んだ。
予定通りの運行で富山駅に11時12分に着けば、11時23分発の「はくたか」4号に間に合って、11時59分に金沢に着くことができる。
小松空港を利用した場合と比べても、それほど見劣りのないプランと思っていた。

ところが、そう都合よく、事は運ばなかった。
僕だけが早く乗り込んでも、リムジンバスは、手荷物を受け取ったりして遅れて出てくる乗客を置いていくわけにはいかない。
気ばかり焦る僕を尻目に、リムジンバスが空港を後にしたのは、11時を大きく回っていた。
高曇りの富山市内はあっけらかんとしていて、11時半過ぎにバスを降りると、蒸し暑いくらいだった。
 


「北陸新幹線開業まであと1年」の札を掲げる御当地キャラ「きときとくん」が出迎える富山駅を、次に発車する北陸本線上り方面は、12時08分発「サンダーバード」24号大阪行きである。
北信越を結んで活躍した歴代の特急列車のヘッドマークがコンコースに飾られて、懐かしかった。

列車の揺れに身を任せながら、砺波平野と倶利伽羅峠を駆け抜けるうちに、雨が降り出した。
金沢駅に到着したのが12時45分、タクシーで慌ただしく母の元を往復して、再び金沢駅に戻ってきたのが午後3時過ぎだった。
ホームに駆け上がると、和倉温泉始発の「サンダーバード」30号が増結車両を連結しているところだった。
 


 

定刻15時19分に発車した西行きの特急列車は、暗くなりかけた加賀平野を疾走し、小松駅の高架ホームへ滑り込んだのが15時35分。
近代的で広々と造られているものの、閑散としている小松駅のコンコースを通り抜けて、しのつく雨に濡れている15時40分発小松空港行き路線バスに乗り換えれば、所要12分で空港に着く。
富山空港から、リムジンバスと2本の特急列車を乗り継いだ、小松空港へのリレーを無事終えて、ひと息ついた僕の目に、雨に煙る小松市内の鄙びた街並みは、とても美しく映ったものだった。

僕が次に乗らなければならないのは、ANA317便 、小松を16時30分に発つ福岡行きである。
 


 

この便に接続するリムジンバスは、金沢駅西口を14時45分の金沢市内経由便と、15時発と15時05分の直行便の3本で、それぞれ小松空港に15時51分、15時40分、15時45分に着く。
このリムジンバスは何回も利用したことがあり、日本海を眺める車窓が僕は大好きなのだけれど、混雑して並ばなければならないことも多い。

特急列車から路線バスに乗り換える行程を選んで、稼いだ金沢滞在時間は僅かだったかもしれないが、僕にはとてもありがたかった。

小松空港のレストランで、金沢カレーにありつく暇もできたのである。
 


 

 

ANA317便は、僕にとって初めてのボンバルディアDHC-8-Q400、カナダ生まれのプロペラ機である。
激しくなってきた雨に打たれながら待機するQ400は、隣りに並んでいる羽田行きのB787に比べれば、華奢に見えた。
給油車と大して変わらない背丈であり、案外小さな飛行機なんだな、と思ったものだった。
 

 


小型機なのでボーディング・ブリッジを付けることが出来ず、搭乗客は外に出て歩かなければならない。
面倒だけれども、この乗り方は、機体の写真が撮れたり、滅多に降りられない空港敷地内を歩いて良い気分転換になったりするから、嫌いではない。
ビッグバードが完成する前の羽田空港で、僕が初めて飛行機を体験したJALの大阪行きジャンボも、ランプバスで近くまで行って、高い階段を昇ったものだった。
 


客室の細長さに慣れてしまえば、ジェット機もプロペラ機も座り心地にさほど変わりはない。
高翼式の機体で、僕の席の真横に大きなプロペラがぶら下がり、主脚がその下に見えている。
腹に響く重低音を尻上がりに轟かせながらプロペラの回転が次第に勢いを増し、タキシングが始まれば、主脚が路面に溜まった水を小気味よく切り裂いていくのが見える。

YS-11やSAAB340Bといったプロペラ機の経験はあるから、ジェット機より迫力がある振動と騒音は覚悟の上だったけれども、低翼式の機体しか経験がないので、客席から主脚を見るのは実に新鮮な経験だった。
加速とともに窓の水滴が一斉に後方へ流れ始め、主脚から跳ね上がっていた水煙がフッと消えて滑走路が下方へ遠のくと、北陸ともお別れである。
 


 

低いターボプロップエンジンの音だけが一定に鳴り響く機内には、空席が目立っていた。
僕の隣りから席を移した女性に、すかさずキャビン・アテンダントが近づいて、何やら確認している。

航空機で座席を移るという行為は、なかなか面倒だと聞いたことがある。
1人や2人ならともかく、大勢の人間が偏って座席を移動したら、バランスが崩れるからであろうか。
それとも、万が一の場合の身元確認に影響するからであろうか。

離陸前の念入りな非常設備の案内をはじめ、飛行機のシステムは、墜落に備えるという観念が、全てを支配しているような気がする。
他の交通機関には見られない、考えてみれば、異常な旅と言えないこともない。

航空機に乗る時に、多少なりとも死を意識するのは僕だけなのだろうかと思うことがある。
他の交通機関に比べて、事故率が圧倒的に低いということは、充分、理解している。
それでも、どんなに低い確率であろうとも、事故が起きれば人生を寸断される可能性が低くないことも、間違いない。
死を考えることは、イコール人生を考えることである。
昭和60年の日航機事故で、家族に宛ててメモを遺した人々のことを思う。
 

『本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している』
 
このような言葉を躊躇なく書ける人生を、僕は送っているだろうか、と思う。

僕が飛行機の座席を移った経験は、1度だけである。
20年近く前に羽田から福岡へJALのB747で飛んだ時、折しも台風の接近中で大揺れのフライトになった。
最後部のトイレで用を足し、扉を開けたら、ベルト着用サインが点灯していて、スチュワーデス(CAのことを当時はそう呼んでいた)までが全員、着席していた。
巨大な機内で、自分1人だけが立っているのは、奇妙な心持ちだった。

「お客様、そこのあいている席に座って、ベルトを締めてください」

座ったままのスチュワーデスに、切羽詰まった表情で声をかけられて、僕は最後部のシートに腰を下ろした。
それまで通路側の席だったから、窓際に座れて何の文句もなかったけれど、雲中飛行は着陸寸前まで続き、不意に雲が切れた時、すぐ下にビル街が見えて、思わず足を持ち上げたくなった驚きを、今でもはっきりと思い出す。

小松と福岡の飛行距離390マイル(624km)のほとんどは、雲の上に広がる青空の中だった。
Q400の巡航速度は時速700km程度で、プロペラ機としては速いほうなのだが、偏西風の関係で西行き路線はどうしても東行きより時間がかかるから、もどかしく感じてしまう。

オーディオ機器もないから、1時間35分は退屈だったけれど、着陸は面白かった。
高度が下がり、滑走路の上に差しかかっても、ぶら下がっている主脚が左右にゆらゆらと揺れて、パイロットがタッチダウンの姿勢を維持するのに苦労している様子が見てとれた。
衝撃とともに、主脚が大きな水しぶきを上げ、ぐいっと前のめりに制動がかかる。
 


 

きらびやかな福岡空港ターミナルビルに、夕闇が迫っていた。
係員に傘を差し伸べられながら外に出て、ランプバスに乗り換えると、湿度の高い、息が詰まるような熱気が全身を包み込んだ。
博多駅のきらびやかなイルミネーションが、何のために飾られているのか知らないのだけれど、鮮やかに目にしみた。
 


 

夜は、高校時代の同窓生2人と落ち合って、海の幸を肴に大いに飲んだ。
1人は、小学校1年生の時からの同級生だったから、昔話に花が咲いて、涙がこぼれそうになった。

翌朝の福岡は、前日の雨が嘘のように快晴だったが、午後になって雲行きが怪しくなった。
 

 

夕方までみっちり仕事をして、福岡空港ターミナルビルでこってりした博多ラーメンに舌鼓を打ち、乗り込んだのは、19時発羽田行きJAL330便、B767型旅客機だった。
Jクラスの座席を奮発していたので、窓際ではなかったけれども、567マイル(907km)、1時間35分の空の旅をゆったりとくつろぐことが出来た。
 

 

東京は生暖かい霧雨が降りしきっていた。

羽田をANAで出発してJALで帰還すると、困ることがただ1つ、ターミナルビルが2つに分かれているから、どちらか片方で駐車場が遠くなることである。
僕は、第2ターミナルに近い駐車場に車を置いていた。

人影のない、薄暗い地下道を、第1ターミナルから第2ターミナルまでとぼとぼと歩きながら、僕が東京-北陸-福岡-東京とあくせく駆け回っている間に、雨雲は西日本からのんびりと東へ進んできたのかと思うと、何だか滑稽だった。