ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:東武東上線「TJライナー」、秩父鉄道、西武特急「ちちぶ」】



池袋駅の構内に足を踏み入れると、どことなく違和感に戸惑うことが少なくない。

30年前に上京して品川区大井町を皮切りに大田区、新宿区と住み歩き、馴染みの繁華街と言えば銀座、渋谷、新宿あたりが北限で、池袋は、余程のことがない限り足を運ぶ機会がなかった。


僕にとって池袋と言えば、伊勢丹新宿店、阪急梅田店に次ぐ我が国で第3位の売り上げを誇っていた西武百貨店にあって、当時我が国最大の床面積と言われた書店に出掛けたり、東口から発車する信州や北陸へ向かう関越道経由の高速バス、西口から発車する東北方面の高速バスを利用するために訪れるくらいで、山手線や地下鉄で行っても、路線バスを乗り継いでも、ちょっとした旅気分になった。

池袋駅舎の天井が地下鉄のように低く、壁も煤けていて、東京のターミナルの中では、上野駅に似た古めかしさが最近まで感じられたのも一因であろうか。


東口の西武百貨店に負けじとばかりに、西口の東武百貨店が平成4年に改装されて、関東随一の売り場面積を誇るようになった頃から、池袋駅そのものが変わり始めた。

改装直後の東武百貨店を訪れてみたものの、16階建ての巨大な建物に1番地から11番地まで区分けされた売り場の構造がさっぱり理解できず、うろうろと彷徨い歩いた挙句、2度と訪れる気が起きなかった。


平成の半ばに新宿に引っ越すと、平成21年に開業した地下鉄副都心線とJR線を乗り換えるために池袋駅を使うようになった。

どうして副都心線のホームをここまで遠く追いやるのか、という恨み節とともに、改札の外に忽然と出現した「エチカ池袋」を目にして、別の駅に来たような気がしたものである。



いずれにしろ、池袋駅に足を踏み入れる頻度が少なかったのは確かであり、平成27年9月の黄昏時に久しぶりに訪れた時は、以前と同じく、改まった心持ちになった。

この日は、池袋駅から、ささやかな小旅行に出掛けようという趣向である。


池袋駅に乗り入れているJR線は山手線と埼京線、湘南新宿ラインで、味気のない通勤路線という印象が強いけれども、日常と異なる旅の気分が味わえる路線として、秩父への特急電車を走らせている西武池袋線が挙げられる。



東京に出てきたばかりの頃は、東京の私鉄の特急電車に強い憧れを抱いていた。

浅草から日光に向かう東武鉄道の特急「けごん」は、幼少時に家族旅行で乗った経験があり、特急で1時間40分も費やすような長大路線を保有する大手私鉄の貫禄に度肝を抜かれ、国鉄のグリーン車に匹敵する豪華な車内に酔いしれた。


東京に住み始めると、箱根や江の島に向かう小田急電鉄、成田空港に向かう京成電鉄、久里浜に向かう京浜急行、秩父に向かう西武鉄道の特急電車は、真っ先に乗りに行った。



様々なサービスを競いながら、特急料金を加えても国鉄より割安感があったことが嬉しかったし、中でも京浜急行の快速特急はクロスシートを備えた専用の車両にも関わらず、特急料金が不要だったので、最寄りの私鉄と言う理由もあって、大学生活を通して愛用した。


八王子や高尾に向かう京王帝都電鉄の特急電車も乗ってみたけれど、通勤車両と同じロングシートで、繰り返し乗りに行きたいとは思わなかったし、当時の東急電鉄は特急が運転されていなかった。



ただし、東急には例外があった。

大井町線や東横線に投入された9000系車両は、大半がロングシートでありながら、車端部に4人向かい合わせのクロスシートを設置していた。

同線を通学で使っていた時期は少数派の車両で滅多にお目に掛かれなかったが、たまたま乗り合わせて、クロスシートが空いている時は、ツイている、とばかりに腰を下ろしたものだった。

身体の向きが異なるだけで、見慣れた車窓がこれほど変わるものなのか、と驚きながら、窓に噛りついていた記憶が、今でも懐かしい。



有料特急を走らせている東武鉄道の路線であっても、池袋を起終点にする東上線は、京王や東急と同じく、有料特急が運転されておらず、クロスシート車両もなかったので、乗り通したのは1度だけだった。


おおくぼ良太氏が歌うところの「目蒲線の歌」という、鉄道を擬人化した昭和60年代の歌がある。

 

僕の名前は目蒲線

寂しい電車だ目蒲線

あってもなくてもどうでもいい目蒲線

 

「僕の名前は東急目蒲線。父さんは東急東横線。母さんは東急田園都市線。そして僕に弟が出来た。東急新玉川線。父さん母さんにそっくりのシルバーメタリックの綺麗な電車だ。それに比べてこの僕は、草色の醜い3両編成……」

 

僕の名前は目蒲線

寂しい電車だ目蒲線

あっても無くてもどうでもいい目蒲線

 

だけどプライドはあるんだよ

田園調布を走ってる

けど、田園調布の人はみんな東横線を使う

東急から見放され、今時クーラーも付いてない

夏は暑くてサウナ風呂

そのくせ冬は冷蔵庫

 

「僕だって赤坂走ってみたいよ。自由が丘だって祐天寺だって走ってみたいよ」

「何言うてんじ!」

「誰なの、くだらないこと言うのは」

「お前の兄貴、東急池上線だ。お前はまだいいぞ。目黒から出ている。俺なんか、お前、五反田だ五反田」

「兄さん、どうして新玉川線ばっかり可愛がるの?綺麗な服を着させてもらって。どうして僕たち、こんなにボロボロの電車なの?そうか、僕たちはきっと、捨て子なんだあい!」

「馬鹿なことを言うな!──実はそうなんだ。俺たちの父さんはな、東横線なんかじゃない。俺たちの本当の父さんは、聞いて驚くなよ、あの池袋から出ている東武東上線なんだ!」

「えっ?あの東京都内でいちばん陰気と言われている東武東上線?駅が5つか6つ過ぎると全部埼玉になってしまう、あの東武東上線?忘れ物に鍬とスコップがいちばん多いという東武東上線?兄さん嘘だろ?嘘なんだろ?」

「俺たちと父さん、よく似てんじゃないか。俺たちだけだぞ、電車の中にゴキブリホイホイが置いてあるっていうのはな。ゴキブリホイホイミュージックスクールなんてこと言っちゃって大変だあなんて広川太一朗」

「なに兄さん馬鹿なこと言ってんの」

「また蒲田で逢おう!」

「どこか明るさに無理のある兄さんだ」

 

僕の名前は目蒲線

寂しい電車だ目蒲線

あっても無くてもどうでもいい目蒲線

 

「カマオ。そこにいるのはカマちゃんね」

「おばさん誰?」

「あなたの本当の母さんよ。こんな格好でごめんなさいね。母さん余った電車で繋ぎ合わされているから、赤だの黄色だの緑だのってバランバラン」

「ぼくの本当の母さんって誰なの?」

「赤羽線よ」

「えっ?あの池袋の駅を出ると板橋、十条、赤羽のたった4つしか走ってないというあの赤羽線?でも母さんひどいよ。どうして僕たちを捨てたんだよ」

「そうね、あれは大分昔のこと。池袋をめぐって西武と東武の勢力争いの真っ最中。ある日父さんは『もう嫌だ、もう埼玉なんか走りたくない』って、屋根から涙流しながら、私に抱き着いてきたの。そんな父さん見てると、母さんあんまり可哀想だったので、思わず身体を許してしまったのよ。ふと気が付くと、もうお腹の中には妊娠3両編成、しかも双子。出産した時は、西武は大会社、東武は年金暮らし。そんな時にあなたたちを育てられると思う?そこでお金持ちの東急さんだったら、立派にあなた方を育ててくれると思って、母さん涙を飲んで蒲田に捨ててきてしまったのよ。ごめんなさい。つらかったでしょ。でもカマちゃん、どんな電車でも無ければ困るのよ。見てごらんなさい。あの2両編成で頑張ってる世田谷線でさえ生きてるじゃないの!わかった?」

「うん、わかったよ母さん。僕、力強く生きる!そして出世して、新幹線のレールの上を走ってみせるよ!だからお願いがあるんだ。今度休みの日、ぼくたちのところに遊びにおいでよ。田園調布を案内してあげる」

 

僕の名前は目蒲線

寂しい電車だ目蒲線

あっても無くてもどうでもいい目蒲線

 

「そして、継ぎ接ぎだらけの母さんは、休みの日、目黒に遊びに行ったのですが、道に迷って川崎の方まで行ってしまい、後に母さんは、継ぎ接ぎだらけの電車、南武線になってしまったそうです」

 

「」の中はおおくぼ良太氏の1人芝居の台詞である。


おいおい、と仰け反りたくなるような、とんでもない歌詞なのだが、上京後に長く大井町に住み、東急大井町線と池上線が交差する旗の台駅が最寄りの大学に通い、「緑の3両編成」に馴染みが深い僕としては、妙に微笑ましく感じる歌である。

僕も、どうして大東急にこのような旧式の電車が残されているのか、と首を傾げたものだった。


さすがにゴキブリホイホイは見掛けなかったが、冷房化で言えば、東急はそのあたりが無頓着で、僕の学生時代は東横線の冷房化率も決して高くなかった。

当時、車両単位の冷房ではなく、トンネル冷房を行っていた地下鉄に乗り入れていたからであろうか。

真夏の東急線に、窓を開けた電車が走っていた時代も、今となっては懐かしい。



池袋駅に話を戻せば、歌詞では2度も「あの池袋」と如何にも訳ありといった言われようで、赤羽線の電車もその通りだったな、と手を打ちたくなる。

後に埼京線に生まれ変わって、長大編成の通勤電車が行き交う大幹線に進化するとは、想像も出来なかった。


「目蒲線の歌」と題しながらも、池袋駅を起点とする路線が2つも登場し、西武と東武との確執などが描かれていることからも、この歌の影の主役は池袋駅と言えるだろう。



東武東上線との縁は薄かったが、宮脇俊三氏の随筆集『終着駅は始発駅』に収められている『東京の私鉄七社乗りくらべ』を読めば、


『ついこのあいだも、酔っぱらいが、


「なんだ、こんな電車、みんな田舎もんばっかりじゃないか」


と怒鳴ったら、とたんに2、3人が、


「そういうお前も田舎もんじゃないか」


とやったので大笑いになったけど、そんな線ですよ』


と、東上線の沿線住民が語った車内の逸話が紹介されている一節を読めば、その雰囲気は容易に察せられた。


田舎を走ろうが陰気であろうが、日常と掛け離れた異質さを求める旅であれば、大歓迎である。

僕にとっての東上線は、ロングシートの通勤車両しか走っていないことが致命的だった。



平成20年に、池袋-小川町間で有料着席保証列車の「TJライナー」が運行を開始した。

クロスシートとロングシートに転換が可能なデュアルシートを採用した50090型電車が投入され、「TJライナー」ならば進行方向を向いて車窓を楽しむことが可能になったのである。


俄然、乗りたくなった。

「TJライナー」のクロスシートで東上線の車窓を楽しんでみたい、とそそられた僕は、遙々池袋駅まで出掛けて来たのである。

以前に乗車経験があるとは言え、あたかも初乗り路線のような意気込みだった。



池袋駅の出札窓口で僕が購入したのは、17時00分発の「TJライナー」1号の指定券で、専用の改札口に足を運ぶと、既に乗客の列が出来ていた。


改札を受けてホームに出ると、先発の 行き電車がちょうど発車するところで、入れ替りに50090系電車が姿を現した。

上り普通電車として到着した50090系電車は、降車扱いが終わると、いったん扉を閉めて、ロングシートになっていた座席を回転させてクロスシートに転換した。

自動で座席が一斉に向きを変えるのを見物するのは、なかなか面白い。



デュアルシートを最初に採用したのは、平成8年に長距離急行に投入した近鉄2610系の改造車両で、続けて5800系と5820系という後継車両を登場させたので、好評だったのだろう。

以後、JR東日本が仙石線用に205系電車を改造し、東武50090型・70090型、西武40000系、京王5000系、東急6000系・6020系、京急1000形、しなの鉄道SR1系に同様の座席が導入されることになる。


ほらみろ、僕のような鉄ちゃんでなくても、世の中に前を向いて景色を眺めたい人間は多いのだ、と胸を張りたくなる推移だった。

東武東上線をはじめ、それまでロングシートの電車しか運転されていなかった京王線、東急線にもデュアルシートの車両が登場したのは実に喜ばしく、どの路線も乗り直してみたくなるではないか。



そもそも、京浜急行を除けば、有料特急しかクロスシートを用意しなかった関東の私鉄がおかしいのであって、関西では、料金不要の特急を走らせている京阪や阪急、阪神、山陽電鉄などに古くからクロスシートの車両が存在し、JR西日本も、関西本線や阪和線などの近郊区間から大阪環状線に乗り入れる電車までクロスシート車両がある。

ロングシートとクロスシートで関東と関西の鉄道を比較した文献も多く、関東の私鉄各社もそのあたりは充分に承知していたのだろうが、東西で乗客密度の差異が厳然と存在するのも確かで、クロスシートでは首都圏の通勤線区のラッシュ時の膨大な利用客を捌き切れないジレンマがあったのは、考慮すべきであろう。


その解決策として、デュアルシート車両の開発は、画期的であった。

僕のような、沿線に何の用事もない人間まで集めてしまうのは、鉄道会社にとって良し悪しなのかもしれないけれど。



座席に収まってみれば、特急電車の座席に比べて簡素な造りで、座面や背もたれが硬めであり、リクライニングもしないけれど、それでも進行方向に向かって座れるのが良い。

ロングシートで景色を眺めるならば、扉の脇に立つか、子供のように座面に膝を立てるしかなく、我慢を強いられていた昔を思えば、雲泥の差である。


定刻17時に発車した「TJライナー」は、しばらく、建物がぎっしりとひしめく街なかを走る。

「目蒲線の歌」では「駅が5つか6つ過ぎると全部埼玉になってしまう東武東上線」と皮肉られているが、実際は、北池袋、下板橋、大山、中板橋、ときわ台、小竹向原、上板橋、東武練馬、下赤塚駅、成増と、板橋区、練馬区の駅が続き、12.5km先の和光市駅から埼玉県に入る。


「東京都内でいちばん陰気と言われている東武東上線」との歌詞もあるけれど、新車だけあって「TJライナー」の車内は清潔で明るく、何の不服もない。

車窓や通過する駅名がいちいち新鮮で、楽しいひとときになった。


17時ちょうどの発車時刻とは、勤め人にとってちょうど終業時刻であり、間に合う利用者が少ないのだろう、車内は空席も目立った。

次の「TJライナー」あたりから利用客が増えるのだろうが、あまりに混雑していれば、僕のような風来坊が貴重な1席を奪ってしまったか、と後ろめたさを覚えるかもしれず、程よい混み具合である。



「TJライナー」は東上線で初めてのクロスシート車両、という点ばかりが先走ったが、その性格は有料定員制通勤ライナーである。

その嚆矢は、昭和59年に、車両基地に回送する特急・急行用車両を流用して上野-大宮間に運転を開始した「ホームライナー大宮」と、東京-津田沼間に登場した「ホームライナー津田沼」と言われている。


2つの「ホームライナー」は瞬く間に人気列車となり、昭和61年には東海道線に「湘南ライナー」が、また阪和線に「はんわライナー」が運転を始め、首都圏や関西圏をはじめ、札幌、仙台、新潟、長野、静岡、名古屋、北九州、福岡、宮崎、鹿児島地区、更には大手私鉄各線にも、有料定員制の通勤ライナーが拡充したのである。



 「コーヒー1杯分の料金で特急車両に乗れる」との謳い文句で持て囃された通勤ライナーに、僕は興味津々だったが、早朝の上り列車と夕刻から深夜の下り列車という運転形態であるため、大学時代に1度「湘南ライナー」を試乗しただけである。


東京駅のホームの券売機で300円の「ライナー券」を購入し、東京と伊豆を結ぶ特急「踊り子」で使われていた185系車両の1席でくつろげば、向かいのホームでぎゅうぎゅう詰め合っている普通列車より遥かに快適だった。

勤め帰りのビジネスマンばかりが占める車内の、ピリッと張り詰めた雰囲気も、大人になったような気分がして悪くなかったが、深夜の小田原駅に降り、上り普通列車で折り返した時には、自分はいったい何をしているのだろう、と侘しい心持ちにさせられた。



それ以来の通勤ライナー体験ということになるのだが、このような列車が運転されるような線区の車窓風景は、何処も代わり映えがなく、埼玉県に入っても沿線の街並みは途切れない。


「TJライナー」の最初の停車駅はふじみ野で、その後は川越、川越市、坂戸市、東松山市、森林公園、つきのわ、武蔵嵐山、そして終点の小川町と主要駅に停車していく。

ふじみ野が「富士見野」なのかどうかは知らないが、埼玉県内で富士山が遠望できる土地は多く、関越自動車道や東京外環自動車道からも富士山を眺めた記憶があるけれども、この日、東上線から富士山を目にする機会には恵まれなかった。

東上線沿線とは、これほどに家並みが途切れなかったっけ、と30年前の記憶をまさぐっているうちに、川越市駅を過ぎ、入間川を渡る手前あたりで、ようやく左右に田園が広がり始めた。



東武越生線を分岐する坂戸駅のあたりから、黄昏が深まった。

南西へ延びる越生線の方が先に秩父山地に分け入り、東上線は山を避けるように真北へ鼻先を向け、東松山駅へ向かう。

夕空を背景に、左手の黒々とした山なみがどんどんこちらに迫って来る。

山あいに田圃しかないような箇所も見受けられ、まるで山梨県や長野県を走っている様な錯覚を起こしかねず、彩の国の懐は深いのだな、と思う。

関東平野の夕景は、ぼんやりとしてとらえどころがなかったけれど、心に冷風が吹き込んで来るような寂しさが漂っていた。

今でも、関東平野の夕暮れと言えば、東上線から眺めた光景が真っ先に思い浮かぶ。


下りの通勤ライナーであるから、乗客は降りていくばかりで、車内はどんどん閑散としていく。



東松山は、毎年11月に我が国最大規模のウォーキング大会が開催されることで知られている。

そう言えば、東松山に行くために何度か東上線を利用したことがあったっけ、と不意に記憶が蘇ったが、同行の職場仲間と話し込んだり、東松山名物の焼き鳥で1杯引っ掛けた帰路は気持ちよく居眠りをするのが常で、すっかり忘却の彼方であった。


「TJライナー」は、山襞の隙間を縫うように北西へ針路を変え、小川町駅に滑り込んだ。

照明が煌々と照らし出しているホームと対照的に、薄暗い外の様子はぼんやりとしている。

ここは「TJライナー」をはじめ多くの電車が起終点にしている拠点駅であるから、もっと殷賑な町を想像していたので、ちょっぴり拍子抜けである。



小川町駅は池袋駅から64.1km、全線75.0kmの東上線の終点寄居駅まであと僅かであり、「TJライナー」も寄居まで走り通してくれればいいのに、と多少の恨めしさを覚えながら、僕はホームの向かいで扉を開いている寄居行きの普通電車に乗り換えた。


発車までに、すっかり陽が落ちた。

ぽつりぽつりとロングシートを占める僅かな客を乗せて、電車は闇の中をのんびりと走る。

窓に背を向けて座っているので、向かいでスマホをいじるのに余念がない女子高生の肩越しに、遠い車窓を茫然と眺めるしかない。



小川町駅も、終点の寄居駅も、東武東上線とJR八高線が接続している。

寄居は関東平野の西のどん詰まりに位置し、東上線は北へ膨らむ弧を描き、八高線は南回りで寄居へ伸びている。


東上線に乗ると、主要駅の名がことごとく馴染みを感じるのは、川越、坂戸、東松山、嵐山、寄居と、僕が故郷を行き来する時に使う関越道のインターやパーキングエリアの地名であるからだろう。

坂戸は関越道でも名うての渋滞多発箇所であり、東松山IC付近ではゴルフ場の球除けネットが高速道路に覆い被さっているし、寄居PAにはサン=テグジュペリの童話「星の王子さま」とコラボした施設が置かれていたことを思い浮かべると、関越道は東上線に沿って造られたのだな、と実感する。



大正14年に全線が開業した東上線は、東武鉄道の関連会社であった東上鉄道によって建設が開始され、路線名は東京から上野国に路線を伸ばす予定であったことに由来するという。

最終的に新潟県長岡市まで路線を延伸する構想もあったと言われ、関越道と東上線の縁が深いのも当たり前なのかもしれない。

寄居以北は、高崎まで路線免許を取得し、用地買収も進めたらしいが、鉄道省が八高線を建設する方針を固めたために断念したと聞く。



初めて東上線に乗って寄居駅を訪れたのが昭和60年代の真っ昼間だったので、長閑で広大な構内に、ぽつんと電車が留置されていた大陸風の光景が心に焼き付いている。

その時は八高線のディーゼルカーに乗り換えたのだが、この日の僕は、秩父鉄道で南へ向かうつもりである。


辺りが真っ暗なので、全く違う駅に来たかのようであり、狭く小ぢんまりとしたホームを貨物列車が通過していく。

秩父鉄道は、沿線にセメントや石灰石などを産出するため、貨物輸送が未だに盛んで、我が国でも珍しい私鉄である。


飲水用に上向きの蛇口を乗せた台が、ぽつりとホームに置かれているのを見つけ、僕が子供の頃には、どの駅も、今のように自販機ばかりでなく、無料の水飲み場があったよなあ、と懐かしくなる。



最初に姿を現したのは、羽生行きの電車だった。


羽生は東武伊勢崎線の駅であるが、僕は東北自動車道のパーキングエリアを思い浮かべてしまうので、寄居駅で「羽生」との行先表示を見ると、途哲もなく遠くに行く電車のような気がする。

東北道は、東北本線や東北新幹線より西寄りに建設されているために、秩父鉄道がJR高崎線と接続する熊谷と羽生は意外に近いという位置関係が、なかなかピンと来なかった。



僕が待っていたのは、反対方向から入線してきた三峰口行きの電車で、長瀞、秩父を経て御花畑駅まで26.9km、約40分の道中である。


照明ばかりが眩いロングシートの車内で揺られながら、ふと、東武東上線の電車が秩父鉄道に直通していた時代に思いを馳せた。

乗車したことはなく、時刻表の知識に過ぎないが、昭和24年から準急列車が乗り入れ、昭和30~40年代に複数の行楽急行が登場、後に特急に昇格して、池袋-三峰口間の「ちちぶ」、池袋-長瀞間の「ながとろ」が運転されていた。

一時、小川町駅で運転区間が分割されていた時期があり、平成元年の西武鉄道の秩父鉄道乗り入れ開始に合わせて、池袋-三峰口間の「みつみね」と池袋-長瀞間の「ながとろ」が復活したが、秩父鉄道が東武鉄道と互換性のない保安装置を導入したため、平成4年に直通運転は中止された。

直通特急は池袋駅と三峰口駅の間を2時間20分程で走破したものの、使われていたのはロングシートの8000系であった。



僕が、往年の直通電車の跡をたどるように秩父鉄道線に揺られているのは、西武鉄道の特急で帰ろうと考えているからである。


隣接する御花畑駅と西武秩父駅の構内には、連絡線が設けられ、西武鉄道秩父線から秩父鉄道線に乗り入れて長瀞駅と三峰口駅までの直通運転が、現在も続いている。

寄居駅で接続する東武東上線と異なり、西武秩父駅は長瀞駅と三峰口駅の間にあるので、2方面の電車が併結して運転され、連絡線の配線の関係で、西武秩父駅の1つ手前の横瀬駅で分割されて続行運転になり、長瀞行き電車は西武秩父駅に入らず御花畑駅へ乗り入れ、三峰口行きは西武秩父駅で向きを変えて秩父鉄道に乗り入れるという形態をとっている。



僕が御花畑駅に降り立ったのは、もちろん西武線直通電車が運転されている時間帯ではなく、西武秩父駅まで、狭く薄暗い通路をとぼとぼと歩かなければならなかった。

前後に同じく乗り換え客が歩いているし、案内板も立っているが、何となく侘しい気分にさせられる乗り換えだった。


不意に、淡い照明に照らされて、南方系の顔つきをした等身大の女性の人形が出現したので、びっくりして足が止まった。

背後の看板に「タイ国家庭料理 居酒屋バンコク」と書かれており、料理の写真が並んでいるが、この人形を見て、店に入りたいと思う客がいるのだろうか。



その先の商店街「西武秩父仲見世通り」は、いわば「エキナカ」であろうが、前回訪れた時は全く気づかなかった。

僕が初めて西武鉄道の特急「ちちぶ」を池袋駅から乗り通したのは昭和59年のことで、御花畑駅から秩父鉄道で熊谷駅に出たのだが、「ちちぶ」の乗り心地や、正丸峠を筆頭とする車窓が良かったにも関わらず、その後に足が遠のいたのは、まさに自宅と池袋駅の遠さが原因である。


久しぶりの仲見世は人通りも少なく、大半の店舗がシャッターを閉ざしていたが、複数の店先を貫いて掲げられている天幕や、点々とぶら下がっている提灯など、こちらも昭和のノリである。

「食べたらホントにうまかった!ご当地メシ 宇都宮のギョーザ 香川のうどん 秩父のわらじカツ丼」というポスターも、文句と言い、女性がカツ丼を手に写っている構図と言い、敢えてレトロ感を演出しているようである。



西武秩父駅のホームでも、白いタイルが貼り詰められた昔風の洗面台を見つけた。

夜汽車を降りて顔を洗うのが似合うような、古風な風格があるけれど、昭和44年に開通し、最初から電化されている西武秩父線で、乗客が水を使う必要性は少ない。

それでも、無料の水道が乗客へのサービスであった時代が、確かにあったのだ。

3つ並んだ蛇口の1つに「この手洗は使用禁止」と手製の札がぶら下がっていることに、容赦のない時の変遷を感じる。


このノリはいったい何だ、と思う。

東武東上線と秩父鉄道を旅した2時間あまりで、僕はタイムスリップまで経験してしまったのだろうか。



池袋に向かう西武鉄道の特急電車も、昭和44年に初登場した初代「レッドアロー」5000系であれば演出は完璧だったのだが、ホームに待機しているのは、灰色の塗装を身にまとった最新鋭の10000系であった。

西武秩父駅を19時25分に発車する池袋行き特急「ちちぶ」48号である。


30年前に乗った「ちちぶ」は、もちろん5000系だったが、その先鋭的な外観に比べると、現在の10000系は大人しい顔つきになったな、と思う。



指定された座席に腰を下ろせば、「TJライナー」のデュアルシートに比べてふかふかで、きちんとリクライニングもするので、雲泥の差であった。

やっぱり大手私鉄の有料特急の貫禄は違うな、と豊かな心持ちになる。


私鉄では有数の長さである4811mのトンネルで正丸峠を越え、飯能、所沢を経由して池袋まで76.8km、闇をついて所要1時間20分で走り抜く特急「ちちぶ」の車窓は、少しずつ灯りが増え、離れていた日常を取り戻したかのようだった。


 


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