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ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:小田急バス「宿44系統」、ちゅうばす「是政循環」、京王バス「寺91系統」、西武多摩川線、西武国分寺線、西武新宿線、特急「小江戸」】


 

令和28年9月の週末、僕は小田急バス「宿44系統」の硬い座席に揺られていた。

このバスは、新宿駅西口から西へ向かい、23区内を出て、武蔵境駅南口まで運行する。

 

僕が乗車したのは新宿駅を11時45分に発車する便だった。

白地に赤いラインをまとった小田急バスは南へ鼻先を向け、西口のロータリーから京王百貨店に沿って進むと、甲州街道との交差点を右折する。

 

最初の停留所は「角筈二丁目」で、ビルの谷間のような甲州街道の歩道に置かれている。

東から御苑トンネルと新宿駅南口の陸橋を越えてきたばかりの甲州街道は、まだ広々としているが、何しろ交通量が多いので、流れは滞りがちである。

 

 

「角筈」とは、新宿駅一帯の昔の地名で、村の名主をしていた渡辺与兵衛が紀州国からこの地に流れ着き、新田を拓いて熊野神社を創建、真言宗の「優婆塞」だったことに由来する。


「優婆塞」が「角筈」の由来と言われても全くピンと来ないのだが、仏教において出家せずに家庭で生活を営みながら仏道に帰依する「在家」の男性信者を、サンスクリットの「upāsaka」に因んで「優婆塞」と呼び、奇抜な髪型や、鹿の角をつけた杖を携行するのが常であったという。

角筈を拓いた渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、角にも、掛け軸を掛ける道具の矢筈にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、これが転じて角筈となった、と聞けば、ようやく納得できるのだが、回りくどい語源である。

与兵衛が建てた熊野神社とは、現在の新宿中央公園の一角にある十二社熊野神社のことであろう。


明治期にこの周辺は南豊島郡角筈村となり、明治18年に日本鉄道が、現在の赤羽線と山手線の西半分にあたる赤羽-品川間に支線を敷設して、内藤新宿停車場が置かれ、明治22年に淀橋町大字角筈となった。

戦後になると角筈は段階的に分割されて歌舞伎町、西新宿、新宿と地名を変え、昭和53年に町名としての角筈は消滅したのである。


我が国随一の歓楽街である歌舞伎町をはじめ、我が国最大のターミナルである新宿駅、そして西新宿の高層ビル街などが、全て、かつての「角筈」であったと知れば、この地の近代に置ける変貌の凄まじさに驚かざるを得ない。

消えた町名が未だにバス停に残っているのも、何やら時を超越したような奇妙な感覚である。


 

僕が角筈の名を知ったのは、都電が、現在の新宿区役所近くの靖国通りに「角筈」電停を置き、新宿と飯田橋を結ぶ都電「13系統」が「角筈線」と呼ばれていたことを知った時であった。

鉄道ファンになったばかりの幼少の頃に、我が国の路面電車について著した書籍を何冊も読み、東京にも味な地名があるものだ、と思った。

 

都電「角筈線」は、新宿駅大ガードの西にあった新宿電停から靖国通りを経て、「角筈」電停の東で、現在「四季の路」という名の遊歩道になっている専用軌道に折れる。

花園神社や新宿ゴールデン街の裏を回り込み、新宿6丁目交差点の「新田裏」電停で明治通りを横断し、現在「文化センター通り」となっている専用軌道で、職安通りの「抜弁天」電停に抜け、大久保通りで飯田橋に向かった。

この経路を知ったのは最近である。

驚いたのは、僕が結婚して移り住んだのがこの沿線で、「四季の路」や「文化センター通り」などは、妻と一緒に何度歩いたか分からないほど、馴染みだったからである。



そう言われてみれば、「四季の路」や「文化センター通り」は、車を一方通行にするほど道幅が狭く、緩やかな曲線を描いていて、不思議な雰囲気の道路を作ったものだ、と首を傾げていたのだが、電車道だったと知れば頷ける。

ゴーッと独特の唸りを上げながら、この道を電車が行き交っていた光景がありありと目に浮かぶようである。

ただ、「文化センター通り」の「抜弁天」の手前はかなりきつい勾配であるから、ここを電車が登り下りしていたとは驚きだった。


僕が今回の小旅行に出掛けたのは、10年間連れ添った妻と死別して、1年が過ぎようとしていた時期である。

妻と一緒に暮らしていた頃は、旅に出る頻度が目に見えて減ったけれども、後悔したことは一度もない。

死別後も、妻との思い出が溢れた家に住み続けていたものの、家に止まる理由が何もなくなり、休みともなれば、気を紛らわせるために頻回に旅に出掛けるようになっていた。


今回も、妻のことを忘れよう、と旅に出たはずなのに、「角筈二丁目」バス停で、早くも妻の思い出が蘇ってくる。

バスタ新宿を発車した高速バスが、何台も追い抜いていく。

あちらに乗って、もっと遠くに向えば良かったのか。

 


「宿44系統」のバスは、行き交う車に追いやられるように甲州街道の片隅を進み、十二社通りとの交差点近くにある「西参道」バス停を過ぎる。

十二社通りを左に折れれば、明治神宮や代々木公園の脇を通って井の頭通りに続く長閑な道路であるが、バスが行く甲州街道は、東京オペラシティや新国立劇場に囲まれた初台交差点を過ぎると、頭上を首都高速4号線が被さって、鬱々たる圧迫感が支配する。


甲州街道は、大きな交差点をアンダーパス、もしくは高架で越える贅沢な構造になっているが、路線バスは立体交差に入ることなく側道を行く。

側道は信号待ちの車がぎっしりと並び、何回も赤信号に引っ掛かってしまう。


 

南を並走する京王新線の幡ヶ谷駅、笹塚駅の入口で客が乗り降りし、小さな交差点から殷賑な駅前が垣間見えるが、甲州街道の歩道を行き交う人影は少ない。

甲州街道は、都内の幹線道路の中では比較的走りやすく出来ているし、歩道も完備しているけれども、上空を高架に覆われて排気ガスがこもるので、歩行者はその限りではないのだろう。

 

松原交差点で甲州街道から井の頭通りに右折すると、道端の建物も背が低くなり、空が広くなった。

車の量も減り気味だったが、バスは、どのような交通量であろうと関係ありません、とばかりに坦々と走る。



井の頭通りに入ってすぐに、車内放送が乾いた声で「水道横丁」というバス停を案内する。

バス停の前に和泉給水所のタンクが見え、近くに東京都水道局の施設もあるのだが、もともと井の頭通りは水道管を敷設するための用地を道路に転用したことから「水道道路」と呼ばれていたという。

ならば、「水道横丁」とは、甲州街道から見た井の頭通りそのものを指すのだろうか。

 

曲がりなりにも4車線が確保されて、横丁と呼ぶには立派すぎる井の頭通りであるが、文字通り京王井の頭線と並走しており、バス停も「永福町」「西永福」「浜田山」と井の頭線の駅名が続くが、線路は奥に引っ込んでいるので電車を見ることは難しい。

ただ、この道幅を4車線にするのはかなり無理があるようで、浜田山から先で、バスは時々隣りの車線にはみ出している。

 

 

バス停で待っている利用客は少なくないが、バスが近づき、顔を上げてこちらの行先表示を確認すると、1歩後ずさったり、乗りません、と手を振る人が少なくない。

この辺りは、方南通りを経て新宿駅や渋谷駅へ向かう京王バスの路線が多く、「武蔵境駅」などと行先を掲げたバスを利用する人は少ないのだろう。


「永福町」バス停は、京王バスの大きな車庫に併設されており、路線バスばかりでなく高速バス車両が何台も羽を休めているのは旅心を誘われるが、「宿44系統」の小田急バスは、少しばかり肩身が狭そうである。

 

 

新宿駅西口は「小田急箱根高速バス」が乗り入れていて、「宿44系統」も同じハルク前の乗り場から発車したのだが、驚いたことに、新宿駅に乗り入れている小田急バスの定期路線は、「宿44系統」だけである。

「小田急箱根高速バス」は小田急グループに属する別会社であり、厳密に言えば小田急バスではない。
どこに車庫があるのか知らないけれども、僕は新宿駅南口のサザンテラスにある小田急本社ビルに係留されている「小田急箱根高速バス」を見掛けたことがあったが、あれは貸切だったのか。

小田急バスは、かつて秋田、岐阜、岡山、三原、広島、高知に高速バスを走らせており、淡島通りと環状7号線の交差点付近にある若林営業所に高速バス車両が置かれていたのを見た記憶がある。

現在は新しいグループ会社である小田急シティバスに全路線を移譲、更に「小田急箱根高速バス」と合併して「小田急ハイウェイバス」なる新会社が設立され、その本社も若林営業所にある。



新宿駅の小田急バスの停留所には、他に、若林営業所行きとよみうりランド行きが記載されているが、いずれも1往復のみ、しかも6月だけの季節運行という不思議な路線である。

新宿-よみうりランド線は、新宿駅から甲州街道をひたすら走り、笹塚と調布の間は無停車、営業距離21.42kmにも及ぶ都内有数の長距離路線である。

以前は3月から6月、9月から11月の日曜・祝日に2往復する運行形態であったが、令和元年から、6月の日曜・祝日のみの運行となった。


僕は、よみうりランドを訪れたことはないのだが、どうして6月だけ新宿直通の路線バスを運行するのか、さっぱり分からない。

若林営業所行きも6月だけに運行、という理由は、新宿-よみうりランド線のバスの出入庫を営業運転しているのであろう。


「宿44系統」も、毎日運転とは言っても、1日3往復だけで、後に2往復に減便している。

 

 

新宿駅は小田急線のターミナルであるから、系列の路線バスが少ないのは意外であるが、小田急バスの前身は、大正時代に吉祥寺と調布を結ぶ路線バスを走らせた多摩川バスに遡る。

調布に本社を置き、武蔵境-三鷹-調布と吉祥寺-調布に路線バスを運行していた武蔵野乗合自動車に買収され、同社は吉祥寺、武蔵境、三鷹、調布地域に路線網を広げて、太平洋戦争当時は、中島飛行機(後の富士重工)、日本無線、正田製作所(後の日産自動車)といった軍需工場への従業員輸送を担っていたという。

 

一方で、小田急電鉄は、相武台駅周辺の路線と、杉並区の大宮八幡宮-牟礼-武蔵小金井駅、牟礼-井の頭公園のみと自社のバス路線が極めて少ない状態であった。

相武台以外のバス路線を京王帝都電鉄バスに譲渡した小田急電鉄は、沿線の京王帝都や都営のバス路線が都心に乗り入れて、鉄道への影響が生じたことから、バス事業の再開を模索していた。

ところが、戦後の混乱で新規路線の認可がなかなか下りず、既存事業者の買収を図る方針を決めて、昭和25年に武蔵野乗合自動車を買収し、子会社として小田急バスを名乗らせたのである。


 

現在の小田急バスのエリアは、調布市・三鷹市・武蔵野市・狛江市を中心とする東京北多摩、稲城市・町田市といった南多摩、神奈川県内は麻生区・多摩区・宮前区といった川崎市北部や横浜市北部の青葉区などに及んでいるが、東京23区内では渋谷区、新宿区、杉並区、世田谷区に止まっている。

「宿44系統」は、貴重な都心乗り入れ路線と言うことができるだろう。

バス事業者にしてみれば、「免許維持路線」と呼ぶべきか。

 

そのような推移が影響しているのか、井の頭通りに入ると、それまで閑散としていた車内に、少しずつ乗客が増えて来て、気づけば座席は全て埋まり、立ち客も出た。

もともとこの路線は小型のバスで運行されているから、座席数は少ないのだが、1日3往復のバスをよくぞ使いこなしているものだ、と感心する。

 

 

西永福交差点で、右から方南通りが合流してくる。

方南通りの奥には、戦前に小田急電鉄バスが起終点としていた大宮八幡宮が鎮座しているはずであるが、武蔵小金井に向かう途中で「牟礼」バス停を経由していたのであれば、井の頭通りから人見街道に逸れたものと思われる。

 

牟礼は三鷹市内にあって、京王井の頭線三鷹台駅の西側の地域であり、巨大な団地が置かれている。

僕の故郷信州にも、長野市の北に隣接して牟礼村がある。

長野駅と信越本線の牟礼駅を結ぶ長野電鉄の路線バスが、僕が通った高校の近くを通るので、何度か乗車したことがあるけれども、関東平野の真ん中の三鷹に同じ地名があると知った時は、不思議な思いがしたものだった。

 

牟礼の由来は、古代朝鮮語で「山」を意味する「mora」「mura」「mure」「mori」を耳にした古代日本人がつけたという説が有力らしく、ならば東北で「〇〇森」と名づけられた山が多いことと関連があるのかもしれない。

信州の牟礼村は妙高・黒姫・戸隠連山に連なる山深い土地にあり、三鷹の牟礼は武蔵野台地で、車で走ってみると案外に坂道が多い。

 

 

人見街道を分岐する「浜田山駅入口」交差点を過ぎ、環状八号線と交わる北高井戸陸橋をくぐると、井の頭通りはひたすら直線になる。

真っ直ぐに伸びている4車線の道路に間隔を置いて並んでいる信号機が、合わせ鏡のように奥まで続いている光景は、なかなか壮観である。

 

せっかくバスに乗りに来て、信号機に感心してどうする、と苦笑いが込み上げて来るが、沿道は事務所ビルとコンビニ、牛丼屋、予備校、自動車販売店などが繰り返し現れるだけで、他に見所があるわけでもない。

長い路線に乗るのも楽ではない、と思う。

 

 

東京23区内を走る最長距離の路線バスは、平成初頭の時点で、20.30kmを運行する「園11系統」羽田空港-田園調布駅線で、僕も東京に出て来たばかりの頃に乗った経験があるけれど、平成10年に廃止されてしまった。

続く2位が18.56kmを走る「宿44系統」、3位が18.30kmの「王78系統」新宿駅-王子駅線であり、この旅の時点では「宿44系統」が最長距離と言われていた。

 

開業したのは昭和24年で、東京駅から新宿駅を経て武蔵境駅に向かう長距離路線であったが、昭和45年に新宿発着に短縮され、それまで共同運行していた都営バスと京王帝都電鉄バスが撤退した。

道路の混雑がひどければ、バス路線は、長くなればなるほど末端部の遅れがひどくなり、直通客も減少するので、細かく刻まざるを得ず、長距離路線は次々と消えて行った。

「宿44系統」は、厳密に言えば、井の頭通りの途中で23区内を出て武蔵野市に入るのだが、最長距離という言葉に弱い僕は、こうしてわざわざ乗りに来たのである。

 

 

井の頭通りの建物や人通りが少しずつ賑やかになるとJR吉祥寺駅で、新宿から45分が経過していた。

電車ならば十数分の区間であるから、新宿から乗り通した客は、おそらくいない。

何本も停留所のポールが並ぶ南口のバス乗り場には、各地へ向かう小田急バスが横づけされている。

日曜日の昼下がりであるから、繁華街を行き交う人の姿は多い。

思わず降車ボタンを押したくなるような飲食店が幾つも眼に入り、さすが吉祥寺であるが、1日3本のバスを途中下車する訳にはいかない。

 

今にも泣き出しそうだった空から、ついに水滴が窓ガラスに弾け始め、空を見上げた人々が急ぎ足になったり、傘を広げている。

 

「あらまあ、降り出しましたわね」

「傘、お持ちですの?」

 

などと喋りながら、買い物に行くらしいおばさんたちがバスを降りて行く。

 

 

吉祥寺はもともと江戸城の和田倉門付近にあった寺院である。

太田道灌が江戸城を築城する時に、現在の和田倉門付近で発見した「吉祥増上」と刻まれた金印を見つけ、「吉祥庵」を建てたのが起源と伝えられている。

後に吉祥寺と名を変え、徳川家康の時代に水道橋へと移転したものの、「振り袖火事」とも呼ばれる明暦の大火で消失、駒込に再建された。

 

明暦の大火は、江戸城の天守閣も焼け落ちた江戸時代最大の火事で、幕府は大規模火災が起きにくい都市作りとして、延焼予防に道幅を広げ、空き地を設け、寺社や町人を郊外へ移転させた。

吉祥寺周辺の住民も一緒と駒込へ、という訳にはいかず、幕府が用意したのが武蔵野の牟礼野、札野の土地で、集団移住した住民は吉祥寺への愛着から、新しい集落を吉祥寺村と名づけたのである。

 

吉祥寺駅で、僕を除いて乗客が全て入れ替わった。

駅前交差点を左折したバスは、鬱蒼と繁る木々の緑が濃い井の頭公園を貫く吉祥寺通りを走り始める。

終点の武蔵境駅まで、残るところ30分あまりだった。

 

 

「下連雀」「連雀通り商店街」というバス停が案内されれば、三鷹市に入ったのだな、と分かる。

 

「連雀」とは、多数で群れる習性がある雀が数多く連なることを意味し、如何にも武蔵野らしい地名であるが、「雀」の字を「ジャク」などと読ませられれば、僕は似た発音の麻雀を連想してしまうクチで、長いこと「レンジャン」と誤読していた。

僕は麻雀を嗜まないにも関わらず、三鷹市で「上連雀」「下連雀」の標識を目にするたびに、麻雀牌のジャラジャラ鳴る音まで想像される始末である。


本当の由来は、2枚の板を縄で組んで物を背負いやすくした道具である「連尺」で、行商人が商品を背負って売り歩いたという。

行商人が神田の一角に多く住んだために連尺町ができ、後に連雀町に改められ、明暦の大火で移住した住民たちは、三鷹で連雀新田を拓いたのである。

この街も明暦の大火絡みだったのか、と思う。

 

連雀を通り抜けたバスは、住宅地の中にある武蔵野赤十字病院を経由して、武蔵境駅南口に滑り込んだ。

 

 

新宿から1時間半、のんびりした旅をさせて貰ったと思うけれど、まだ家に帰りたくない。

武蔵境駅から何処に行こうか、と車内で考えあぐねていたのだが、駅舎で西武多摩川線の改札を目にして、これだ、と思った。

 

大学に進学して東京に出てきて、東京の国鉄線は意識して乗り潰したけれども、私鉄は未乗の線区が幾つかある。

特に、西武鉄道が中央本線沿線に展開している支線は、なかなか乗りに行く機会がなく、今回が1つのきっかけだった。

 

西武多摩川線は、多摩川で採掘された砂利を運搬する目的で、当時の多摩鉄道が敷設した延長8.0kmの路線で、大正6年に境(現・武蔵境)-北多磨(現・白糸台)間が、同8年に北多磨-常久(現・競艇場前)間が、そして同11年に常久-是政間が開業した。

昭和2年に、西武鉄道と合併し、同4年に多磨霊園の近くに多磨墓地前駅(現・多磨駅)を開設して旅客輸送を開始、戦時中は中島飛行機の工場への引き込み線を設けて従業員や貨物の輸送を行い、昭和16年に多磨駅の近くに建設された帝国陸軍の調布飛行場への輸送も担っていた。

 

戦後は、米軍に接収されていた調布飛行場周辺の返還と再開発により、味の素スタジアムや武蔵の森総合スポーツセンター、警察大学や東京外国語大学などができ、宅地化も進んでいる。

 

 

多摩川線は4両編成の電車が12分間隔で行き交う長閑な線区で、ロングシートを占める乗客も疎らである。

基本的に閑静な住宅地の中を走るだけだが、時折り、武蔵野公園や野川公園などの緑の木立ちが心を和ませてくれる。

この辺りは、幾度か車で通ったことがあり、僕にとって多摩川線沿線の味の素スタジアムや野川公園などは、

東八道路や甲州街道にあるという認識だった。

それらの幹線道路と交差するたびに、多摩川線とはあの地域を走っていたのか、と身近に感じられた。

 

終点の是政駅は何にもない住宅街の真ん中で、どうしてこのような土地を終点にしたのか、と首を傾げた。

隣りの競艇場前駅から線路は多摩川沿岸に近づいているはずだが、川は見えない。

人影も少なく、家々の屋根を、しとしとと雨が叩いている音だけが鳴る是政駅前であった。

 

 

幸いなことに、駅前にバス停があり、程なく府中駅行きの「是政循環」バスが姿を現した。

バスは、西武多摩川線と大して変わりのない住宅主体の風景を車窓に映しながら、東京競馬場の東を回って府中駅まで、20分あまりで走った。

競艇場に競馬場が揃っているとは、僕が以前に住んでいた大井町、大森と似たような土地であるが、この日はレースが開催されていないのか、それらしき客は乗ってこなかった。

 

府中は京王線の駅で、西武多摩川線とも交差しているが、接続駅はない。

多摩川線の白糸台駅と京王線の武蔵野台駅が近いけれども、繋がっておらず、是政付近の住民が京王線を利用する場合は、バスを使うことになる。

 

 

時が止まったようだった是政への往復と一転して、府中駅前は静から動へ、雨足が激しくなったにも関わらず、人とバスの出入りが激しい。

 

僕は府中駅から国分寺駅に向かう「寺91系統」の京王バスに乗り継いだ。

府中駅のすぐ西側をJR南武線が東西に走っているが、同線は府中市内に府中本町駅を置いているだけで、京王線に見向きもしない。

それを路線バスが補っている構図のようで、この地域は鉄道の密度が高いのに、それぞれ独立心が旺盛なのだな、と苦笑したくなる。

 

「寺91系統」のバスも、住宅地を貫く国分寺街道を坦々と走るだけで、府中駅から国分寺駅まで20分も掛からない。

居並ぶ家々の合間に、都立農業高校や東京農工大学、明星学苑のキャンパス、そして殿ヶ谷庭園の雨に濡れた鮮やかな木々の緑が眼に優しかった。

夏も終わりだな、と思う。

 

 

国分寺駅南口でバスを降りれば、次は「小江戸」だな、と心が決まった。

 

小江戸とは、埼玉県川越市の別名として知られ、江戸のように栄えた町、もしくは江戸時代の名残りを留めた町、という意味合いで、他に千葉県の佐倉市や栃木県の栃木市が名乗りを挙げている。

佐倉は「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われた商業の町だが、川越も「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と江戸時代から謳われていたとして負けていない。

 

ちなみに、栃木市は、「小江戸」とともに「小京都」も名乗っているらしい。

平成の初頭、栃木市は「小京都」を売りにしていたが、あるテレビ局の記者が「ここは小江戸ですね」と言い、市の関係者は大変な衝撃を受けたという。


「言われてみれば、栃木市はもともと江戸と日光を結ぶ舟運で発達した町であり、小京都よりも、小江戸のほうが相応しいのかもしれない」

 

と、似た特色を持つ川越と佐原に呼び掛けて、平成8年に「第1回 小江戸サミット」が開催されたとの逸話があるらしい。

 

 

川越も、太田道灌の江戸築城の時代に開通した川越街道や荒川の舟運により、江戸との往来が盛んであった。

松平信綱や柳沢吉保など江戸幕府の重臣が藩主を務めた川越藩の城下町として、市内にある喜多院には江戸城の建物の一部が移築されるなど、旧市街地の一部が重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 

僕も大学時代に川越の街を散策したことがあり、菓子屋横丁の古びた駄菓子屋で童心に返り、昔懐かしい菓子を色々と買い求めたのが心に残っている。

 

 

ただし、僕が思い浮かべた「小江戸」は、川越の街並みではなく、西武鉄道の特急電車の愛称である。

 

JR中央本線の北側の地域は、新宿から小平、東村山、所沢を経て川越に向かう西武新宿線と、池袋から所沢を経て飯能、秩父に向かう西武池袋線が東西に並走し、加えて国分寺と東村山を結ぶ国分寺線、国分寺から萩山を経て多摩湖を結ぶ多摩湖線、小平から萩山、西武立川を経由して拝島に向かう拝島線が走っている。

更に、東村山-西武園間の西武園線、西武遊園地-西武球場前間の山口線、西所沢-西武球場前間の狭山線が多摩湖周辺をきめ細かく網羅しており、どうしてこの地域だけ、これほど細かく西武線が張り巡らされているのか、と子供の頃から時刻表を眺めながら不思議だった。

 

 

国分寺線は、西武鉄道で最も歴史の古い路線であり、明治27年に川越鉄道が国分寺- 川越(現・本川越駅)に開業させた。

川越鉄道は、現在の中央本線を開通させた甲武鉄道の子会社であり、中央本線から国分寺を経由して直通する飯田町-川越間の列車も運転されていた。

大正11年に、武蔵野鉄道の路線となり。昭和2年に高田馬場-東村山間の新宿線が開通すると、国分寺-東村山間が支線となった。

 

多摩湖線は、現在の西武グループの創業者が経営する不動産会社が、子会社として多摩湖鉄道を創設し、最初に国分寺-萩山間が開通したのは昭和3年、萩山-村山貯水池(現・多摩湖)が延伸したのは昭和5年である。

 

 

戦前に東京郊外の観光地となった村山貯水池への輸送で、多摩湖線と激しい競争を繰り広げたのが、昭和5年に西武鉄道が開業した西武園線(当時は村山線)である。

戦前の西武鉄道は、西武グループの創業者が開設した武蔵野鉄道と競合関係にあったというのだからややこしいが、太平洋戦争で観光需要が下火になって競争も沈静化し、昭和20年に西武鉄道と武蔵野鉄道は合併して西武農業鉄道となり、昭和21年に西武鉄道に改称した。

 

昭和8年に開通した狭山線は武蔵野鉄道の線区であり、山口線は戦後の西武鉄道が昭和25年に開通させた西武遊園の遊戯電車がルーツで、また拝島線は、武蔵野鉄道が昭和3年に小平-萩山間、西武鉄道が昭和25年に小川-玉川上水間、昭和37年に萩山-小川間、昭和43年に玉川上水-拝島間を開通させた比較的新しい線区である。

 

僕は多摩湖を訪れたことはないが、西武鉄道がこれだけ力を入れたのだから、1度は行ってみたいと思っている。

 

 

ならば、多摩湖線に終点まで乗るのも一興だろうが、改札に掲げられた国分寺線の案内表示に、本川越行きの新宿線直通電車があるのを目にして、そちらに歩を向けた。

国分寺駅から本川越駅に直通する電車は、令和元年に廃止されたので、今となっては、創業期の運転形態を受け継いだ貴重な電車を体験できたと言えるだろう。

 

かつて競合していた線区だけあって、国分寺駅でも、改札は橋上2階で統一されているものの、多摩湖線は同じ2階の高架、国分寺線は階段を降りた1階のJR中央本線のホームと並列になっている。

途中の小川駅と東村山駅の間で、国分寺線と多摩湖線はほぼ直角に交わるのだが、そこに駅はなく、他人同士のような立体交差になっているのはよく知られている。

 

 

西武多摩川線でもそうだったが、初乗りの線区の電車が始発駅を発車する感触は、独特である。

乗り潰しは久しぶりだな、と思うと、用もないのに首都圏各地の未乗線区に出掛けて行った若かりし頃に戻ったような、楽しくもほろ苦い気分になる。

 

国分寺の次の駅は恋ヶ窪駅で、どのような伝承があるのかと期待してしまう。

けれども、この土地が武蔵国の国府に近い窪地に位置していたことから「国府ヶ窪」と呼ばれたとか、もしくは近くにある姿見の池に鯉が多くいたことから「鯉ヶ窪」と呼ばれたとか、はたまた崖の窪地に面した地形を意味するアイヌ語の「kai kut hot」に「崖ヶ窪」と字を当てたため、などの諸説があるらしく、どれも艶っぽい話ではない。

 

窪地があっても、西武各線が結ぶこの地域は紛れもなく関東平野の一角で、殆んど起伏がなく、整然とした街路に並ぶ住宅地の合間に田畑が見え隠れするのが、強いて言うならば、これまでとの違いであろうか。

 

 

西武新宿線が合流する東村山駅に来れば、僕らの世代は「8時だヨ!全員集合」で志村けんが歌った「東村山音頭」を思い出すのだろうが、今の子供たちでも、ドリフターズのコントは大ウケするようである。

 

後の話になるが、僕は、妻と死別した数年後に、同じ職場の女性と再婚することになる。

彼女は2人の幼い子供がいるシングルマザーであったが、僕が持っていた「8時だヨ!全員集合」のDVDを子供に見せると大喜びで、すっかりドリフのファンになり、何度も繰り返して鑑賞している。

同じ内容の動画を何度も見て飽きないのか、と子育て初体験の僕は不思議でしょうがないのだが、共通の話題で打ち解けられたのは、ドリフや東村山市のおかげである。

 

僕が新しい家族と一緒に暮らし始めたのが杉並区荻窪で、今回「宿44系統」で走った井の頭通りの周辺はすっかり馴染みの地域となり、武蔵境駅の近くにある小金井公園や、西武多摩川線沿線の野川公園、調布飛行場は、家族そろって頻繁に車で遊びに行く場所となった。

今回の旅の途上では思いも寄らなかったが、この日の行程は、僕の人生の切り替わりを予見していたように思えてならない。

 

 

西武新宿線に入り、西武池袋線と接続する所沢駅、狭山駅と歩を進めれば、右手に狭山丘陵が垣間見えるようになり、田畑の比率も増えた。

多摩川の流域から荒川流域に移って川越まで来れば、車窓はかなり鄙びてくる。

 

川越駅は、僕が国鉄の乗り潰しをしていた頃に川越線で訪れた記憶はあるけれども、西武鉄道で訪問するのは初めてだった。

川越線は東武東上線と川越駅で接続しているが、東上線は大正3年の開業時に川越町駅(現・川越市駅)を設置したものの、後に川越駅となる川越西駅の開設は翌年であった。

 

 

国鉄川越線の開業は昭和15年で、僕が乗車したのは、昭和60年に電化されて埼京線が乗り入れるより前の時代だった。

 

最初の訪問がディーゼルカーだったので、川越は、うらぶれた気分とともに脳裏に記憶されているのだが、西武新宿線の終点である本川越駅は近代的な駅舎で、駅前も整然としていて、ホームも煌びやかであった。

川越線と東上線と交わりながらも、西武新宿線はJRや東武鉄道と接続駅を置かず、本川越駅は川越駅とも川越市駅とも離れていて、現在の各駅の佇まいを比較することはできない。

 

 

秩父方面の特急電車「ちちぶ」と、所沢止まりの区間特急「むさし」が頻繁に行き来する西武池袋線と異なり、西武新宿線の特急電車は、昭和51年に登場した休日運転の西武秩父行き「おくちちぶ」が朝の下り1本と夕の上り1本、同じく休日運転の本川越行き「むさし」が朝の上り1本と夕の下り1本の、合計2往復だけという体たらくだった。

子供の頃に時刻表をめくりながら、どうして新宿線はこれほど虐げられているのだろう、と首を傾げたものだった。

 

しかも、「むさし」は西武池袋線の区間運転の特急と同じ愛称で、かつ休日運転にも関わらず、川越の人々が東京を往復するようなダイヤである。

観光客が訪れるのを全く想定していなかったのか、と思うが、「おくちちぶ」の出入庫の営業運転であったらしい。

 

 

平成5年に、西武新宿駅と本川越駅を結ぶ特急「小江戸」が運転を開始した時には、新宿線もやっと陽の目を見たのか、との感慨が湧いた。

「小江戸」用に新しく投入された10000系特急用車両は、尖鋭的なデザインだった従来の5000系特急用車両「レッドアロー」と趣が大いに異なっていた。

何だかのっぺりした顔つきだな、これが今風なのか、と思いながらも、「ニューレッドアロー」という愛称に違和感を覚えたものだった。

 

新宿に住むようになってから、西武新宿駅や高田馬場駅、もしくは新目白通りと並走する新宿線で10000系を見掛けることはあっても、乗ったことは1度もない。

 

 

別に10000系車両に反発した訳ではなく、単に機会がなかっただけであるが、15時34分発の「小江戸」28号に乗り込む際には、登場してから四半世紀近くも放っておいたのか、と容赦のない歳月の流れに愕然とした。


指定された座席に落ち着けば、これで新宿に帰るのか、と虚しさが込み上げて来る。

たくさんの乗り物を乗り継いで川越まで来たけれども、新宿駅西口を発ってから、まだ4時間半しか経っていない。

途中、狭山、所沢、東村山、小平、田無、高田馬場に停車して、16時19分着の西武新宿駅まで45分、乗る前から呆気ない道中であることは分かっているが、それでも初体験の特急電車とは良いものである。

 

定刻に「小江戸」が動き始めた瞬間、僕は、あっ、と思わず腰を浮かせそうになった。

時間に追われる旅ではないのだから、どうして川越で駄菓子屋を覗かなかったのか、という後悔の念にとらわれたのだが、時すでに遅し、「小江戸」は軽やかに速度を上げ始めていた。

 

 

 

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