学生時代の体罰の思い出 | kentaの大冒険

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普通のエステから回春エステまで、万年肩こり漢の癒され道中漫遊記。
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中学時代、バレーボール部に所属していたが、今思えばかなり酷い体罰を受けていた。よく3年間我慢していたと思う。当時部活顧問がいたが、顧問とは名ばかりで、実質的な監督兼任コーチは外部養護学校の先生だった。


養護学校の仕事が終わると、うちの中学校に来る。大体16:00前後だったが、車が来るか来ないかで戦々恐々だった。車が来なければ胸を撫で下ろし、車が来ると雰囲気がガラっと変わる。入部間もない1年生の頃は、車番(見張り)をするぐらいだった。


当時うちのバレー部は弱小のまた弱小で、地区大会予選落ち常連だったが、そのコーチが来て1年目に地区大会決勝進出、2年目に地区大会2位、3年目に地区大会優勝、その後数年して都大会、関東大会出場…と年を追うごとに強くなっていったので、指導者としての実力はあったのかもしれない。


ただしこの人の指導には体罰が伴うものであった。


1回ミスをすれば罵声が飛び、2回ミスをすればビンタが飛ぶ。1日2,3回程度のビンタであればまだ分かるが、それだけでは済まない日が多い。練習試合ともなれば、朝9:00から17:00ぐらいまで、お昼休みを除いてぶっ通しで試合が行われる。試合が行われる数が増えれば増えるほど、ビンタの数も増える。


体罰はビンタだけでなく、様々なバリエーションがあった。往復ビンタ、バスケットボールを投げつけられる、ローキックもどきの蹴り、ケツバット(さすがにプラスチックバットだった)、バレーボールシューズの底でビンタ。かろうじてグーパンチだけは無かったと記憶する。


これが日常。口の中を切る、鼻血出まくる、たまに頸動脈当たりをビンタされて呼吸が止まり、失禁するということもあった。そんな体罰に対して、誰も声を荒げないし、どの親もクレームを入れることがなかった。「躾」と捉えられていたのかもしれないし、昔の親にとっては「当然」と思っていたのかもしれない。


がしかし、今考えてみると常軌を逸している。あまりにも殴られるのが嫌になり、一時期仮病(当時セッターをしており、痛みで肩が上がらないと嘘をついた)をしたこともあった。その時は1年生が代理で1週間程度セッターを務めることとなったが、殴られているのを見るといたたまれない気分だった。


そんな状況であったにもかかわらず、辞める部員も少なく、3年間貫き通せたのは今考えると不思議だ。時折このコーチが見せる優しさ(サプライズで誕生日のケーキを買ってくれていたり、コーチの実家で御馳走を用意してくれていた等)があったかもしれない。


あたかも、DV男が時折見せる優しさに絆される女性のごとく。


中学卒業後は部活に関わることもなくなり、コーチとの接点もなくなったのでその後どうなったかはわからない。当時のコーチも、今ではもう50代前半から半ばになっていると思うが、お互い歳をとった今、会うことができたら当時と体罰について話を聞いてみたい。


3年間であれだけ殴られまくったにもかかわらず、不思議と恨みの念が無いのはなんでだろうか。当時の暴力を思い出し、トラウマに囚われるという恐怖感もない。体罰に飼い慣らされていたためだろうか。