山口さん通信【山口さん恩師A先生編】
あの日は寒かったですね。
避難所では水も食べ物も毛布も、何もかもが足りず、このまま凍え死ぬかと思いました。
3月半ばだというのに外は容赦ない吹雪。
真っ暗でケータイも繋がらず、ただ座っていました。
避難所は中学校の体育館。
整然と並べられたパイプ椅子と紅白の横断幕。
翌日は卒業式の予定だったのでしょう。
誰かが避難所に持ち込んだラジオからは「沿岸地域に数百体の亡骸が打ち上げられている」という不気味なニュースが流れていました。
NHKラジオのアナウンサーはただ淡々とニュースを読み上げます。
何か大変なことが起こっている。
情報としては私たちの耳に届いているはずなのに、私たちは全く状況が把握できませんでした。
現地にいる私たちがいちばん何も分かっていなかったのでしょう。
翌朝自宅に戻りました。
7階東向きの私の部屋からは、沿岸から幾筋もの煙が立ち上っているのが見えました。
ひときわ大きな黒い煙はコンビナートの火事であり、津波被害のため誰も消火活動ができないのだと、友人(新潟)のメールで知りました。
水と食料を求めて龍のような長い列にも並びました。
私はたまたま開いている店の列に並べましたが、他の人々はいつ開くとも知れないコンビニに並び続けていました。
その列をながめて、日本人というものは本当に冷静な民族なのだと感心しました。
災害に慣れている、ということもあるのでしょうが、外国ならたちまち略奪、暴動です。
震災直後、世界中から賞賛の声が届いていたようですが、この国に生まれたことを誇りに思います。
震災から数日たって、横浜からハガキが届きました。
横浜の業者さんです。
ずっと私を捜してくれていたのです。
感動しました。
1年に一度逢うか逢わないかのひとです。
家族でも親戚でもないのに、ずっと気にかけてくれていました。
とらやの羊羹を送ってくれました。
まだ甘い物が手に入りにくい時期のことです。
生まれて初めて食べるとらやの羊羹は、甘くて、おいしくて、ありがたくて、泣けました。
この感謝の気持ちはまだまだお返しできていません。
地震と津波で故郷は半分なくなりました。
親戚も何人も見つかっていません。
いとこが目撃されたのは、足の不自由な人を助けながら避難していたのが最後。
遺体は幸いにも見つかったけど、おじさんは未だ葬儀をしていません。
行方不明の親戚は7名。
でももうこれ以上望んだら罰があたる。
あのがれきの中からいとこを見つけ出してくれました。
自衛隊や警察の、必死の捜索は感謝の一言では到底言い表せません。
テレビや写真も十分インパクトがあるけれど、テレビや写真はフレームがある。
あの場所に立ってみるといい。
どこまでも続くがれき。
何もない、変わり果てた風景。
もはや涙も出ません。
被災地から悲鳴があがっています。
ものすごい悪臭とハエ!支援お願いします!つるすタイプの虫除け、ハエ取りリボン、蚊帳、虫さされ薬・・・こどもたちの遊具(ボール、縄跳び)やボランティアもお願いしたいですが、さしあたって虫関係お願いします!