第八節 アジア興銀取締役

(外国人の部下)
留学経験者であった私は、1997年から海外で勤務をすることになりました。「費用をかけて国際感覚を磨かせてやったのだから、それをビジネスに活かさせよう」というわけです。

行き先は香港です。当時、勢いを増しつつあったアジアにあって、金融の中心地が香港でしたから、活気のあるビジネスが展開出来るだろうという事でした。役職名は、アジア興銀という子会社の取締役投資顧問部長です。投資顧問業務を発展させる事が主で、そのためにはアジア経済の調査も行なう、といった位置付けでした。

投資顧問という仕事は、顧客から資金を預かって株式などを購入し、手数料をいただく、という仕事ですので、株価の予測と密接に関係があります。したがって、株価の調査の際に仕事上の密接な関係のあった人々と、引き続き密接な関係を持つことになったわけです。

もっとも、今回の仕事は、それまでの仕事と相当大きく異なるものでした。それは、「香港で雇っている部下が上司の言うことを聞かないので、体制を立て直す必要がある」という状態だったからです。

これには、少し説明が必要です。日本の企業は、基本的に「ゼネラリスト」の集団です。様々な仕事を経験しながら視野を広げていき、部下に対して高い見地から指示を出す事が期待されているわけです。必ずしも担当業務について部下よりも詳しい知識を持っているわけではありませんが、高い見地からの発言さえ出来れば、その事自体は問題とはなりません。

一方、海外の企業は、基本的に「スペシャリスト」の集団です。彼等は、基本的に同じ仕事を続けるので、自分の仕事に関しては非常に詳しいですし、その上司はその仕事に関して更に詳しい事が当然だと考えられています。

そうした中で、アジア興銀という香港の会社に私が取締役として赴任したわけです。私としては、「投資顧問業務は未経験だが、関連する幅広い業務をこれまで経験してきたので、部下の専門的な知識と私の高い見地からのアドバイスの相乗効果で、きっと素晴らしい仕事が出来るだろう」と考えるわけですが、部下としては「部下が上司の言うことを聞くのは、上司がその仕事を長年やってきて、部下よりもその仕事に詳しい場合だ。素人が上司だと言って威張っていても、話を聞くつもりはない」と考えるわけです。

私が赴任する前には、前任者と現地スタッフの間のこうした考えの違いがうまく調整出来ずに、険悪な雰囲気が充満していました。そこで私は、東京で同じ仕事を行なっている同僚と連携する事で、事態を打開しようと考えていました。しかし、事態は思わぬ方向に進みます。私の赴任がアジア通貨危機と重なり、アジア興銀が巨額の損失を計上し、閉鎖に追い込まれたのです。

投資顧問部自体は、御客様からお預かりしている資金で株式を購入しているだけですから、株式をすべて売却して御客様に資金をお返しすれば、仕事はおわりです。(アジア通貨危機で株価が暴落し、御客様は大きく損をされましたが、それは仕方ないことだと諦めていただくしかありません)。しかし、他の部門の赤字が大きく、子会社ごと解散せざるを得なかったのです。現地スタッフは終身雇用ではありませんから、投資顧問部の解散と同時に、彼等は解雇しました。

(国際業務のリスク)
さて、アジア興銀は、自分の資金でも証券投資を行なっていました。主な投資対象はアジア諸国の企業が発行する社債でした。これがアジア通貨危機で巨額の損失をもたらしたわけですが、損失の巨額さはさておき、学ぶ所も多い出来事でした。それは、外国でビジネスを行なう際の、予想もしないリスクの存在です。

社債を発行して得た資金が直ちにオーナーへの貸付金に化けてしまう企業があり、裁判官が賄賂を要求してくる国がある事などは、ある意味で予想出来たことなのかもしれませんが、先進国のビジネスに慣れ親しんだ邦銀にとっては、やはり驚きでした。

それ以上に私が驚いたのは、破産法が無い国では借金を返さなくても経営者が職を追われないので、経営者の方が開き直っているという事です。先進国では、企業が借金を踏み倒せば、貸し手が裁判に訴えて借り手を破産させ、借り手の資産を処分して借り手企業を解散してしまう事が出来ます。そうなれば経営者は失職するわけです。しかし、破産法が無い国では、債権者は何も出来ないのです。そのうち、どこからか「貴行の保有している貸出債権を額面の1割で買い取ろうか?」といった打診が入ります。買い手の正体は不明ですが、疑えば借り手企業のオーナーであるようにも思えてくるのは、被害者意識が強すぎたのかもしれませんが。


第九節 調査部海外調査課長(3回目)

(再び景気予測)
アジア興銀が閉鎖されたために予定より早く帰国した私は、アジアでの調査の経験を活かし、調査部の海外調査課長となりました。

1999年当時、中国が既に注目を集めはじめていました。私は、中国経済については香港時代に片手間に調べていただけで、中国語も出来ませんから、決して専門家ではないのですが、当時から中国に関しては非常に強気の見通しを立てており、現在に至るまで見通しは概ね当たっています。自分の得意とする日本経済や米国経済の見通しがあまり当たっていないので、中国経済の見通しが当たっても、自慢は出来ないのですが。

なぜ専門外である私の中国経済の見通しが当たっているかというと、考えられる理由は一つしかありません。それは、日本の高度成長期の事を勉強し、それと比較しながら中国経済を考えていることです。中国経済の専門家にとっては高度成長は始めての経験ですから、今後何が起きるのかを予測するのは大変ですが、私にとっては、過去に日本で起きた事と同じ事が起きると考えておけば、概ね当たるわけですから、話は簡単です。上記の話で言えば、調査のゼネラリストである私が中国研究のスペシャリストよりも「視野が広かった」ことが幸いした、ということでしょう。

課長としては、比較的経験の浅いメンバーが多かったので、彼等の指導をしながら全体のとりまとめを行なった事、銀行内部向け、顧客向けの講演などを行なったこと、等々が主な仕事でした。

ここまでが、私の銀行員としての普通の人事異動でした。ゼネラリストを養成する、という銀行の大方針が少しずつ変化し、スペシャリスト的な要素も必要だという意識も銀行内に芽生えた、過渡期だったのでしょう。私自身は、さまざまな仕事をしましたが、調査との関連の強い仕事が多かったように思います。

(勤務先の合併)
帰国して間もなく、興銀が合併(正確には経営統合と呼ばれましたが)するというニュースが流れました。97年に山一證券が破綻した後、金融危機の嵐が吹き荒れていましたから、興銀が生き残るためには合併する必要があるかもしれない、という漠然とした意識は持っていました。しかし、それでも都市銀行2行との対等合併という話は、大変にショックでした。

一つには、プライドの高いことで有名な銀行員が、3行の対等合併という中で、どれほど熾烈なバトルを繰り広げるのか、容易に想像が付いたことです。今一つは、都市銀行という大人数の銀行が二つと、比較的人数の少ない興銀が合併すれば、人数比で都市銀行の文化になることも容易に想像が出来ました。合併は「混じりあうこと」だとしても、大きな海が二つ合併し、そこに川が合流したとして、川の魚は生きて行くのが辛いでしょう。

そこで私は、大学への転進を決心しました。しかし、大学での仕事は、すぐに見つかるものではありません。仕方がないので、合併の具体的な作業が始まる前に、銀行の外の研究所に出向したいと希望しました。希望したから実現したのか、もともと前任者との交代が予定されていたのか、人事の事ですから知る由もありませんが、合併を控えて人事が流動化する中で、結果としては希望が叶って外部の研究所に出向することになったわけです。


第十節 JCIF出向

(外部の研究所)
出向した先は、国際金融情報センター(JCIF)という研究所でした。これは、各銀行が資金と人員を出し合って作った研究所で、主にカントリーリスクを調べる所です。1980年代にブラジルやメキシコが借金を返せなくなり、大問題となりましたが、これがJCIFの設立のきっかけとなりました。日本中には100以上の銀行があり、各銀行がブラジルやメキシコについて詳細に調べる担当者を置く事は、現実的ではありませんし、効率的でもありません。まして、他の国々で同様な事が起きないのか否か(これをカントリーリスクと呼びます)を常時見張っていることは、大変なコストがかかります。そうであれば、各銀行がその部分については協力し合おう、という事になったわけです。

日本の銀行が日本の企業に融資をする際には、互いに競争していますから、情報の共有は難しいでしょう。仮に情報を共有した場合には、独占禁止法が問題となるかもしれません。しかし、ブラジルやメキシコのカントリーリスクについては、日本の銀行が競争する必要はなく、協力する方が合理的なのです。

JCIFという組織は、それ以外の面でも有効に機能していました。第一は、人材の交流です。銀行員は、通常は他行の行員とライバル関係にありますが、JCIFでは仲間です。しかも、JCIFに出向した人々は、将来は各銀行で海外関係の仕事をする可能性が高いですから、JCIFに出向した人々が仲良くなっておく事は、将来にわたって大変大きなメリットを相互にもたらすと期待されるわけです。海外でのビジネスは邦銀同士が協力しあう事も多いからです。

今一つ、調査のノウハウを得られるという点も、小さい銀行にとってはメリットです。興銀をはじめ、大手銀行は調査部が充実しているので、銀行内に調査のノウハウが溜まっていますが、小さい銀行には充分な調査のノウハウが溜まっていない場合も多いのが実情です。そうした銀行からは、興銀の調査部に「トレーニー」という形で働きながら調査のノウハウを学びに来ていた人々もいますが、どうしても「御客様」という感じで本当には仲良くなれない場合も少なくありません。それに比べて、JCIFでは全員が出向者ですから、皆が仲良くなる事が容易なのです。仲良くなれば、ノウハウの伝授も行なわれやすくなります。そうして、JCIFは小さい銀行に対して調査のノウハウを得る良い機会を提供しているわけです。

(組織と個人)
私個人にとっては、大好きな景気予測の仕事が出来て、かつ銀行の調査部の時代に比べると、時間的にも仕事内容的にも比較的自由でしたから、ハッピーな5年間でありました。

JCIFは、必ずしも調査経験が豊富な人々が集まっているわけではないので、調査経験の長い私にとっては、与えられた仕事をこなす事はそれほど困難ではありませんでした。そこで、若手に対する指導なども行ないました。その際には、「そもそも景気とは何か、どのように変動するのか」、といった事を説明する事からはじめました。これは、分かっているようで、意外と分からないものだからです。

経済学の教科書には「景気循環は在庫循環、設備投資循環などによって生じる」とだけ書いてあります。しかし、実際に景気を変動させるのは、財政政策による景気刺激であったり、インフレ期の金融引き締めであったり、米国の景気後退に伴う輸出の減少であったり、在庫循環や設備投資循環以外の要因が圧倒的に多いのです。このように、経済学の教科書と現実との間には、比較的大きな乖離がありますから、それを最初に理解してもらう事が重要だと考えたわけです。

景気が何故、どのように変動するのか、という点については、「景気の見方・読み方」という本を出しました。仕事に余裕があり、残業が少なかったので、アフターファイブに執筆の時間が充分とれた、という事もありますが、仕事の自由度が出向によって上がった事も大きかったように思います。それは、「組織の見解と個人の見解の使い分け」という事です。

興銀調査部の構成員は、組織の一員として活動しているわけですから、組織の見解に縛られる事は当然です。したがって、たとえば私が「景気の見方・読み方」という本を出そうとすると、「興銀調査部に於ける景気予測の手法は如何なるものであるか」という議論を経て、統一見解を出す必要が出てきます。しかし、景気予測の手法やノウハウは、組織の中で明文化されない形で伝承されつつ時として担当者により微妙に変化してきたものであり、いざ本にまとめようとすると、各人の認識を摺り合わせる事は相当な困難を伴うことになるはずです。

しかし、私が1人で「景気の見方・読み方」という本を出す際には、そうした制約はありません。したがって、私が興銀調査部時代に取得した知識やノウハウを自分なりの理解に基づいて執筆すれば良いわけです。

ここで大変有難かったのは、JCIF側の姿勢です。JCIFも組織ですから、組織の一員として外部に話をする際には、統一見解に基づいて話をすべき事は当然なのですが、組織を離れて個人としての資格で外部で話をする際には、個人の見解を話しても構わない、という事でありました。そうした姿勢のおかげで、本が出版できたというわけです。

今一つ、個人の資格で景気見通しについて語る事も許されていたので、比較的自由に外部で発言する事が出来ました。組織としての見解が発表される頻度が比較的低かったので、その合間では組織内の統一見解を取りまとめる必要はなく、比較的自由に発言できたわけです。組織としての見解が私見と大きく異なる場合には発言を控えていた事は当然ですが。

もっとも、組織という物の重要さを痛感させられたのも、この時でした。興銀の調査部に在籍していた時は、平社員であった頃でもマスコミからの原稿の依頼などが大量に舞い込んで来ていたのですが、個人の立場で発言するようになってから、マスコミからの依頼が大幅に減少しました。

5年間JCIFに在籍していた間、マスコミに出ようという努力をそれなりにしたのですが、結局興銀調査部時代には遠く及ばないまま終わってしまいました。少なくとも、私の話の内容は平社員であった頃よりも進歩していたと思っているのですが。

余談ですが、大学教授になった際に、更に今一段、原稿依頼等が減りましたので、組織の有難さについて拙稿「「社畜」は辛いが、組織って素晴らしい、URLはhttp://blogos.com/article/180094/」を記しました。御覧いただければ幸いです。

2005年、私はみずほグループを退職し、大学の教員になったため、JCIFへの出向も終了しました。しかし、大変御世話になった組織ですから、今後とも何らかの御恩返しはしたいと考えて、「客員研究員」という肩書きを残していただき、若手向けの講習会などを担当させていただく事になりました。今でも、毎年講習会は行なっています。

私の銀行員としての仕事暦は以上です。次章では、皆さんが銀行を職場として選ぶとしたら、どんな生活が待っているのか、イメージしてもらえるような話をしましょう。