テネシー・ワルツ(仮題) 第2章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 西中洲で鉄鍋餃子とビールの夕食を済ませて、薬院大通りの裏手にある事務所へ戻った。

 夜の九時を過ぎても郊外のほうへ向かう車は多く、通りは混雑していた。わたしは薬院駅南口近くの駐車場に出ている移動販売のコーヒーショップでマンデリンを買った。ワンボックス・カーの隣においてあるベンチに腰を下ろし、酔い覚ましにゆっくりと啜った。この辺りにはこの手の店が多く、ハンバーガーや餃子のテイクアウトが出来る。マンデリンをもう一杯お替りすると、仕事に取り掛かる意欲が戻ってくるのを感じた。わたしは店主に礼を言い、事務所へ向かって歩き出した。

 同じビルに入っている会社は何処も本日の業務を終了しているらしく、灯りは点いていなかった。

 郵便受けに突っ込まれた夕刊を取り、もう何年も人のいた気配のない管理人室の前を通って、神経を逆なでするような音をたてるエレベータで三階に上がった。

 入居者だけではなく廊下の蛍光灯まで消えてしまっていて、わたしは窓から差し込む外のネオンサインの光で鍵束を選り分けた。自分の事務所のドアにはプラスティックのプレートが貼ってあって、”村上調査事務所”という文字が読み取れた。”村上”のところは以前の表記の上に別のプレートを貼ったものだった。下が三文字だったせいで、”調査事務所”のところとは文字の間のバランスが悪くなっているが、貼り直す予定はなかった。世の中にはきっかけがないと出来ないことというのがあって、きっかけは一度逃がすとなかなかやってこないものだった。

 エアコンを切ってから数時間たっていて、室内にはむっとするような熱気がこもっていた。わたしは手探りでスイッチを探し当て、灯りをつけた。エアコンのスイッチを入れると、あまり具合の良くなさそうなファンの音がしてから、時間差で冷風が吹き出し始めた。

 わたしはブリーフケースとジャケットを、部屋の真ん中を占領している応接セットのソファに放った。北側の窓を背にする位置には大きなマホガニー材のデスクと革張りの椅子があって、これはかつての主が遺していったものだ。他には灰色のファイル・キャビネットとロッカー、他所でリースアウトしたものを安く借り受けたデスクトップ型のコンピュータと事務機器、玩具のような小型冷蔵庫、壁に掛かったアンディ・ウォーホールのコピーが調度らしいものの全てだった。先行きの見えてきた会社のような殺風景なオフィスだったが、滅多に来客もなく、わたし自身も仕事があるときには外を出歩いているので、それで特に困るということはないのだった。

 わたしはソファに倒れ込むように腰を下ろした。ニットタイの結び目を引っ張って弛め、ブリーフケースから報告書を引っ張り出して、もう一度じっくり目を通した。時計を見上げると十一時を指していた。立ち上がってデスクの上の電話器を取り上げた。アドレス帳を繰って木戸照之の番号を探した。目当ての番号は勤め先と携帯電話のものがあって、わたしは時刻から考えて携帯電話の番号をプッシュした。

 十数回、呼び出し音が鳴った。電話をかけている相手は、仕事中には絶対に私用の電話には出ない。おまけに、いつ仕事が終わるのかは本人にしか――場合によっては本人にも分からないのだ。一旦電話を切り、もう一度かけてみた。再度、十数回呼び出してみて、諦めかけたところで不意に電話が繫がった。

「しつっこいヤツだなぁ。何の用だ?」

 木戸の眠そうな声が聞こえた。本当に眠たいわけではなくて、いつもそうなのだ。西日本新聞社会部の遊軍記者で、わたしがまだ警官だった頃に警察担当だった木戸と知り合ったのだ。以来、わたしが警官を辞めた今でも、お互いを情報源としてキープする関係が続いている。

「お疲れさん。今、いいか?」

「駄目なら電話に出ねぇよ。何が訊きたいんだ?」

「県警の藤田を知ってるか」

「お前のお友達だろ」

「誰と誰がお友達だって?」

 言ってから、自分の声に剣呑な響きが含まれているのに気がついた。わたしはデスクを回り込んで、椅子に腰を下ろした。

「すまんが、寝言は寝てから言ってくれ」

「……まぁ、いいけどな。で、藤田警部がどうした?」

「ここ数日のことだが、ヤツが――県警の捜一が動くような事件がなかったか?」

「フン、お前こそ寝言は寝てから言えよ。奴さんたちが動かない日なんてないよ。藤田警部が追ってるのはアレだろ、例の件だろうな」

「例の件?」

「先週、今泉のラブホテルで殺しがあっただろうが。中央署に捜査本部が立ってる」

「……アレか」

 嫌な予感は的中した。

 わたしは新聞で読んだ記事を思い起こした。事務所の近くで起こった事件――薬院と今泉は徒歩で五分とかからない――だったので、他の記事よりも丹念に読んでいたのだ。

 ちょうど一週間前の九月十日(金)の朝、中央区今泉のラブホテルの一室で、男が鋭利な刃物で胸部と腹部をメッタ刺しにされて殺害されているのが発見された。死亡推定時刻は九月九日の深夜、死因は失血性のショック死。発見したのは料金清算の電話に応じないことに不審を抱いて様子を見に行った従業員だった。被害者の名前は思い出せなかったが、ルポライターの名刺を所持していた事から、新聞ではもっぱら〈ルポライター殺害事件〉ということになっていた。もっとも、被害者がライターとして活動していた形跡がなかったり、他に身元が分かるようなものを所持していなかったりで、いろいろと不審な点の多い事件ではあった。ちなみに職業を詐称するのにライターほど便利のいい職業はない。わたしだって聞き込み用にライターの肩書を入れた名刺を持っているのだ。

「おまえさぁ、新聞くらい読めよな」

 木戸が言った。

「〈西日本スポーツ〉には載ってなかったぞ。お前のところの新聞だろ」

「馬鹿なこと言ってるんじゃねぇよ。お前がホークスの記事しか読まないんだろうが」

「かも知れんな」

 わたしは受話器を肩と顎で挟んで、夕刊に手を伸ばした。一面の中ほどに記事が出ていた。

〈今泉のルポライター殺害事件、犯人を逮捕〉

「……ちょっと待て。犯人は捕まったって書いてあるぞ」

「正確には自首だけどな。今朝、中央署に出頭してきた」

「じゃあ、事件は解決なのか」

「そうでもない。まだ共犯者が捕まっていないんだ。被害者をホテルに呼び出したのは女だ、という証言があるし、ホテルの防犯カメラにも逃げるように出て行った女の姿が映っている」

「自首してきた男は何と言ってるんだ?」

「やったのは俺だ、の一点張りだな。共犯者の存在については完全黙秘だ。当番弁護士を呼んだが、その弁護士にも話さないらしい」

「自首してきた男の名前は?」

「タカダシンスケ。高いに田んぼの田。伸びる。中村俊輔の輔」

 わたしは指でデスクに言われたとおりに書いて、凍りついた。

 警察は高田伸輔の線から原岡佳織にまで辿りついたのか?

 いや、それでは話があわなかった。藤田警部が原岡邸を訪れたのは三日前の九月十三日。事件が起こってから四日目のことだ。高田が自首したのは今朝。警察が原岡佳織に辿りついたのは、高田とは別の線ということになる。

「逃げた女の身元は割れてるのか?」

「そいつはまだだな。スカーフでがっちり顔を隠してたらしいし、遺留品は見つかっていない。現場に残ってた指紋くらいしか手掛かりがないようだが、場所が場所だしな。とりあえず、警察のデータバンクにヒットしたやつをしらみ潰しに当たってる。お前でもそうするだろ?」

「そうだろうな」

 その中に佳織が含まれている可能性はあった。福岡にいた頃の佳織の素行については父親は何も言っていなかったが、警察に補導されるような事をしでかしていれば、指紋や掌紋が警察に残っていることは充分考えられる。

「だが、そうすると該当者は相当な数になるんじゃないのか? 状態がよければ、ビックリするくらい昔の指紋が出たりするからな」

「普通ならな。だが、今回はそんなことはあり得ない」

「何故だ?」

「そのホテルは改装オープンしたばかりなんだ。いや、実際、ホテルのオーナーは怒り狂ってるらしいぜ。せっかく大金をかけてリニューアルしたのに、殺しがあったんじゃあな。客が寄り付かない」

「改装オープンしたのはいつだ?」

「はっきりした日付は知らないが、八月の末だって話だ」

 だとすると、事件に関係あるかどうかはとりあえず別にしても、原岡佳織は半月以内には福岡にいたことに――少なくとも福岡に来ていたことになる。問題は、二人の間に何らかの接触があったかどうかだ。高田が事件を起こしたホテルを佳織が”偶然にも”利用したという可能性も、今の段階では否定はし切れない――ロス・マクドナルドの小説がハッピーエンドで終わるのと同じくらい薄い可能性だが。

「殺しの動機は何なんだ?」

「金銭トラブルらしいな。まだ裏づけは取れていないが、高田は被害者の浦辺に多額の借金があったらしい」

「殺さなきゃならないほどの?」

「思い詰めてしまう金額なんて人それぞれじゃないか? 百億焦げ付かせても顔色一つ変えない経営者がいるかと思えば、十万円が返せなくてナイフを握る貧乏人もいるんだ」

「――それはそうだろうけどな。浦辺というのは何者だ?」

「いろいろ言われてるが、要するに強請り屋だ。他人の弱みにつけ込んで小銭を稼ぐクズさ」

「ルポライターじゃないのか?」

「浦辺をライターと呼ぶんなら、中洲の風俗の看板書きもライターってことになってしまう。ヤツが書く記事は一点もので、現金や情報、相手が若い女なら身体と引き換えに相手の手に渡ることになっている」

「いつ誰に刺されてもおかしくない商売だな」

 わたしは高田と浦辺、そして原岡佳織にどんな繋がりがあるのか、考えを巡らせた。浦辺をホテルに呼び出し、殺害現場から逃げ出した女が佳織だとするならば、可能性は二つあった。一つは高田に”共犯者”として巻き込まれた可能性。もう一つは浦辺と何らかの繋がりがあって、その為に高田が浦辺を殺害した可能性だ。

 いずれにせよ、浦辺の周辺を洗う必要があった。

「浦辺のヤサ(ねぐら)は何処だか知ってるか?」

「ヤサは知らないが、出入りしている――していた店なら知ってる。親不孝通りの〈アクア〉って店だ」

「どんな店だ?」

「ショットバーというのかな、カクテルとか、そういう類のものを飲ませる店だ。木戸が事務所代わりに使っていたようだ」

「ずいぶんと詳しいんだな」

「取材の成果ってやつさ」

「その取材の成果は、何でお宅の紙面に反映されないんだ?」

「俺はこの事件の取材班には入ってないからね。訊かれてもいないネタを流す人間は、この業界にはいないんだ」

「なるほどね」

 木戸は店の場所を詳しく教えてくれた。途中、大きなあくびが混じったので、わたしはこの辺りで切り上げることにした。

「ありがとう。いろいろと参考になったよ」

「役に立ったか?」

「大いに。持つべきものは友達だな」

「冗談はよせよ。貸しだ」

 木戸は笑いながら電話を切った。わたしは受話器を戻さず、フックを指で叩いた。再びアドレス帳を開いて横尾弁護士の携帯電話の番号を捜した。この時間なら、浄水通りにあるバーで飲んでいるはずだった。番号をプッシュすると、電話はすぐに繫がった。

「もしもし、横尾です。相変わらず仕事熱心だね、探偵さん」

 横尾の張りのある笑い声が聞こえてきた。

 原岡には若造呼ばわりされていたが、単に若作りをしているだけで、わたしよりも五、六歳は年上だった。赤坂のけやき通りに事務所を構え、平尾の分譲マンションに住んでいて、メルセデス・ベンツのSLKを乗り回している。女好きで三回ほど結婚に失敗しているが、そこは流石は弁護士で、いずれも慰謝料を払うことなく離婚を成立させている。今も、わたしが知っているだけで三人の交際相手がいる。

「どうも、ご無沙汰してます。仕事を回してくれて感謝してますよ」

「原岡社長とは会ったのかい?」

「ピアニッシモで。実はその件で、お願いしたいことがあるんですが」

「言ってくれ」

「原岡社長からコトの経緯は聞かれていますよね?」

「大体のところはね」

「お嬢さん――佳織さんを警察が追っている件ですが、どうやら、今泉のラブホテルでの殺人事件絡みの可能性がでてきました」

「何だって?」

 横尾は素っ頓狂な声を上げた。

「あれに社長の娘がどう関わっていると言うんだい?」

「それはまだ分かりません。分かっているのは原岡邸を訪れた刑事がその事件の担当だということと、今朝、自首した犯人が、十二年前に佳織さんと一緒に駆け落ちした男だ、ということだけです」

 わたしは横尾に調査報告書の概略を説明した。横尾は黙って聞いていたが、受話器の向こうでコツコツという変な音がしていた。箸か何かで前歯を叩いているのだろう。普段はボールペンの尻でやる、横尾が考え事をするときの癖だった。

「いやはや、しかし〈愛の今泉〉で殺人とはね。で、ボクに頼みたい事というのは?」

「高田伸輔の当番弁護士が誰だったか、調べて欲しいんです。今のところ、彼は黙秘しています。理由は分かりません。ですが、事の真相を知っているのは彼だけです。周辺を洗ってみる必要がありますが、弁護士の協力が得られれば、余計な遠回りをしなくて済むかも知れない」

「なるほどね。分かった、明日、朝一番で問い合わせてみよう。原岡社長にはこのことは報告するのかい?」

「いや、まだ佳織さんが共犯者と決まったわけではありませんからね。警察もそこまで断定は出来ていないようですし」

「そうだな。他に何か、ボクに出来ることは?」

「思いついたら連絡します」

「そうしてくれ。じゃあ、明日」

 わたしは大きく伸びをして、それから湯を沸かしてコーヒーを淹れた。ラッキーストライクに火をつけて、ゆっくり燻らせながら、夕刊の記事に目を通した。

 高田伸輔は今朝、独りで福岡中央署に出頭し、その場で緊急逮捕されていた。木戸が言った通り、凶器のサバイバルナイフ(刃渡り十八センチとあった)を所持しており、それもその場で押収されている。血痕はついたままだったかどうかは書かれていなかった。自分が被害者の浦辺康利(四十二歳)を殺害したことは認めたが、現場から逃走した共犯者と見られる女性については黙秘を続けている。動機については浦辺氏との金銭トラブルを仄めかしており、捜査本部は裏付け捜査を急いでいる模様、とのことだった。

 わたしは吸殻を押し潰して、コーヒーの残りの滴を垂らして完全に火を消した。カップと灰皿を洗い、ゴミを袋にまとめて、エアコンを消した。調査報告書とネガは鍵のかかるファイル・キャビネットにしまい、ソファからジャケットを拾い上げた。ニットタイを締め直すかどうか考え、弛めたままにしておくことにした。親不孝通りは、あまりネクタイを締めて行くところではなかった。

 灯りを消す前に時計を見ると、針は十二時を差そうとしていた。ちょうど一週間前のこのくらいの時刻に、一人の男がその生涯を苦悶の末に終え、一人の男が血にまみれた自分の手を見つめていたのだ。わたしはその厳粛な事実に、身震いするような思いを抱いた。