「La vie en rose」第8回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 

「――やり直しッ!!」
 私は書類の綴りをデスクの上に放り投げた。
「いつも言ってるだろう。報告書は日本語で書けって」
「いや、主任。ちゃんと書いてるじゃ――」
「どこがだ。てにをはが滅茶苦茶じゃないか。まったく、学校で何を習ってきたんだか」
「そんなあ……。一時間もかかったのに」
「知るか、そんなこと。それともうちょっと丁寧な字で書け。俺は象形文字の研究者になった覚えはない」
 膨れっ面を隠さない若手をジロリと睨みながら、心の中では激しい自己嫌悪に襲われていた。
 文章力がないのは彼のせいではない。日本の警察の文書に一般的な意味での文章力は必要がないからだ。その端的な例が供述調書というやつで、あれはほぼパターン化した成句に固有名詞をはめ込んでいけば立派なものができるようになっている。ヴェテランの刑事になると、ほとんど書き直しを必要としない出来栄えのものを下書きもなしで書き上げてしまう。そんなものばかり書いていたら文章力が衰えるのは当然のことだ。
 それでは彼ら自身が困るだろうからと私は細かいことを逐一指摘するのだが、言われる本人にしてみれば余計なお世話なのかもしれない。しかも、目の前の若手の文章はそれほど悪いものではなかった。普段の私なら内心で舌打ちしながらでも通してしまうレベルだ。
 私が彼に書類をつき返したのは、ただの八つ当たりにすぎなかった。
 若手が書類を手に踵を返すと、宮田史恵が声をかけてきた。
「どうかされたんですか、熊谷主任」
「どうもしないよ。何か、変なふうに見えるかい?」
「変ってことはありませんけど。何だか、いつもよりもイライラしてらっしゃるように見えたものですから」
 愛嬌があるとしか褒めようのない丸顔に卒のない微笑が貼り付いている。三〇歳をすぎているにしては快活な印象があるが、笑うと目許に大きなシワができてしまうため、実際よりもいくらか年嵩に見える。
 三年ほど前に他の部署から捜査課に配属されてきた婦警で、ずっと内勤ばかりにしては珍しく巡査長を拝命している。最初は他の業務に就いていたのだが、有紀子の退職後――正確には潜入捜査に関わって以降は、彼女が庶務係の仕事を引き継いでいる。仕事ができるという意味では有紀子以上で、それ故に有紀子が退職することに対して現場からそれほどの反応がなかった側面があった。惜しんだのは前任者の華やかな容貌を惜しんだ一部の若手だけだ。
 彼女に対して職場の同僚という以上の感情を抱いたことはなかったが、一時期、上司がいい歳をして独り者の私と彼女の間を取り持とうとして話をおかしくして以来、互いに何となく気詰まりするようなところがあった。
「別にそんなこともないがね。何か用かい?」
「博多署の毛利課長からお届け物です。捜査資料だそうですけど」
 彼女は大判の封筒を私のデスクに置いた。
「もう届いたのか」
「主任が急がせたんじゃないんですか? 毛利課長に「大至急だ」って言われたって、届けに来た子がブツクサ言ってましたよ」
 そんなことを言った覚えはなかったが毛利ならあり得ない話ではなかった。眠たげな風貌とは裏腹にせっかちなことでは人後に落ちない男なのだ。捜査会議の途中で資料の取りまとめを指示しておきながら、会議が終わると同時に「まだ出来ていないのか」と言い放った逸話が残っている。
 自分の席に戻る宮田史恵の後姿を見送りながら、私は封筒の上を指で叩いた。ボリュームのある体つきの割に足首が締まっていることに気がついたが、それだけのことで何の感慨も湧かなかった。
 彼女の指摘は当たってはいなかった。私はもともと険しい顔立ちな上に終始仏頂面なので、何もなくても怒っていると誤解されることがあるからだ。
 しかし、外れているわけでもなかった。デスクワークをこなしたり若手を叱責しながらも、まるで他人の目や耳を借りているように何もかもが余所余所しく感じられた。有体に言えば私はずっと上の空だったのだ。
 天神地下街で見た光景が目に焼きついて離れなかった。
 ――まったく、純情な高校生じゃあるまいし。
 私は自分で自分を叱責した。有紀子と私は将来を誓い合ったわけでもないし、お互いに何の義務も負っていない。私に彼女を束縛する資格や根拠はなかった。誰と付き合おうと、どんな男を選ぼうとそれは有紀子の自由なのだ。
 誰もこっちを見ていないことを確かめてから、私は盛大なため息をついた。
 
 送られてきた資料には特に目新しい発見はなかった。
 現場検証の内容を記したものには、店内のバー・カウンターの下から睡眠導入剤のパッケージが見つかったことや、被害者から奪って処分し忘れていたカード類などが発見されたとあった。
 カードの名義が複数にわたるということはポンパドールでは継続的、常習的に同様の犯行が行われていたことになる。名義人に連絡をとって事情を訊くまでは断定はできないが、これで今回の犯行が李健一の殺害を目的としたものでない可能性が高くなった。
 司法解剖の所見はあらかじめ電話で聞かされていたものとほぼ同じで、惨たらしい死体の写真を見て胃袋の底に奇妙な違和感を感じた以外には、やはり見るべきものはなかった。表情筋が力を失ってしまうと誰でも同じように見えてしまうものだ、といういつもの感慨を思い起こしただけだ。
 特筆すべきは李が指紋を消す手術を受けていたことだが、これは彼を知る者の間ではつとに知られていることだった。遺体の身元確認に手間取った理由でもある。どうしてそんな必要があったのかは諸説あるがいずれも想像の域を出ない。
 関係者の供述調書は名義貸しをしていただけというオーナーのものしか入っていなかった。実質的な経営者はまだ任意での事情聴取の真っ最中という話だった。どの辺りで逮捕に踏み切るかは毛利の判断次第だが、それまで調書は外に出せないのだろう。あるいは単に経営者が黙秘権を行使しているというだけかもしれない。
 店にあったという店員の履歴書の写しは毛利の言っていた通り、見るからに胡散臭かった。こんな履歴書なら出させないほうがマシだと思ったが、世間には履歴書に嘘を書く人間はごまんといる。おそらく念の為に書かせたという程度のものだろう。これが示す事実は唯一つ、ポンパドールが暴力団の直営ではなかったことだけだ。もしそうなら、ボーイはすべて見習いのチンピラで占められているはずだ。
 李の件を担当している岸野という刑事を呼んだ。
「この中に見覚えのある男は?」
 岸野は履歴書を丹念に眺めて、残念そうに首を振った。
「ありませんね」
「李という男は中洲のあの辺りで飲んでいたのか?」
「地獄通りで、ですか? まさか。中洲にはしょっちゅう顔を出してたようですが、いつも行く店は決まっていました」
「だったら、どうしてあんなところへ?」
「酔ってへべれけになってたんじゃないですかね。そんなに酒が強かったわけでもないですし」
「なるほどな」

 李の行き着けだというクラブは把握していた。女好きでお気に入りのホステスにはずいぶんとカネを注ぎ込んでいたらしい。李がマネー・ローンダリングの関係者と会うのではないかと何度か課員を送り込んだこともあるが、表の仕事の関係者以外と一緒のことはなかった。一人で行くことも少なからずあったので、岸野がいうこともあり得ない話ではなかった。

「ところで、奴さんの帰国の目的については何かつかめたか?」
「すいません、まだです。李の家族も会社の連中も知らなかったことは間違いなかったようですが」
「ということは、やはり裏稼業のほうでということか」
「だと思われます。ですが――」
 岸野は言いよどんだ。無理もないことだった。李の裏稼業については根強い疑惑といくつかの手掛かりこそあったものの、実際につかめている物証は驚くほど少なかった。
 理由は行為の大半が国外で行われていることにある。
 すべては李が所有する架空名義の口座へ暴力団や企業、政治家などから表沙汰にできない資金が振り込まれることから始まる。李はそれを地下銀行へ持ち込み、資金は台湾へと送られる。その後、マカオや香港などのタックス・ヘイブンの口座をいくつか転々としてから、送金用の口座を介して日本国内へと送り返されるのだ。
 構図としては単純なのだが捜査権の及ばない諸外国での捜査には限界があるし、各国の捜査機関は経済事案においてはそれほど協力的ではない。仮に資料が送られてきても日本側の捜査陣の語学力ではすべてを見通せないという部分もある。日本から持ち出されるところを押さえるという方法はあるが、地下銀行の摘発は証拠を集めるのが難しい上に、華僑絡みになるので迂闊に突っつくことはできない。国内への送金についても正規の取引によるものと偽装されているため、違法性のある資金であることを立証するのは不可能だ。
 つまり、押さえるところは李とクライアントの間しかない。だから、二課は専従の捜査員を置いて李の動きをマークしていたのだが、分かったことは両者の間にはいくつものクッションが挟んであって、直接の接触は見られなかったという何の役にも立たない情報だけだった。クライアント側の名前はいくつか浮かび上がっていたが、証拠がない今の段階では”そういう話がある”という噂話の域を出ない。
 そして、その一方は命を落としてしまった。
「先程、課長に呼ばれて、この件の捜査は打ち切ると言われましたよ」
 岸野は無表情で呟いた。私には話は来ていなかったが想像はしていたことだった。
「仕方がないだろう。李がトラブルを起こして始末されたとでもいうなら話は別だが、どうもそうじゃないらしいしな」
「しかし、李が戻ってきた理由が――」
 私は手を挙げて岸野を遮った。
「気持ちは分かるが切り替えろ。それに李が死んだからといって、同じ手でのマネー・ローンダリングができなくなったわけじゃない。奴らはすぐに李の後釜を見つけて同じことをやり始めるさ。その時に挙げればいい」
「……分かりました」
 岸野は小さく一礼して踵を返した。
 彼自身も李が死んだことを知った時点で、この件が手詰まりになったことは分かっていたはずだった。その後の食い下がりは李の帰国を察知できなかった失点を取り返したかったにすぎない。
「主任、博多署の毛利課長からお電話です」
 書類を書き直していた若手が言った。私は受話器を取り上げた。
「よう、お疲れさん。書類は届いたか?」
「さっき、受け取りました。ずいぶん急かしてくださったみたいですね」
「別に急がせちゃいない。これくらいは当たり前だよ」
「今度、ウチの若手にもそう言って戴けませんか。たかがペラに何枚かの文書を書くのに一時間もかかる奴がいるんです」
「こっちに寄越せ。叩き直してやるよ」
 凄味のある笑い声と共に何かを啜るような音がした。おそらく事務の女の子に淹れさせたマンデリンだろう。どれだけカフェインをとっても眠そうな顔は変わらない、と誰かが揶揄していたのを思い出した。
「大した内容じゃなくて申し訳なかったな」
 毛利の声には何かを知っているような抑えた響きがあった。
「ウチの課長から連絡が行きましたか」
「さっきな。二課は李の件からは手を引く、そっちで勝手にやってくれとのお達しだ。やっぱり無理そうか?」
「こっちはダメでしょうね。唯一、李のとんぼ返りの理由が気になりますが」
「そうだな。――あ、そうそう、さっき店長がようやくゲロってな。店にいたボーイの身元が分かった。全員、マエがあるんで顔写真もあるんだが、要るか?」
 課長命令で捜査が打ち切られた以上、そんなものを貰ってもどうしようもなかった。しかし、私は送ってくれるように頼んだ。例の”浅く、広く”の原則だった。今は役に立たなくてもいつか何かの手掛かりになることがあるかもしれない。
 ボーイたちのリストと写真はファクシミリで届いた。
 私は順繰りに写真を見ていった。
 場末のボッタクリ店でボーイをしているような連中は泰然として写っていたりしないので、知らない人間に見せたら古今東西の凶悪犯罪者の一覧でも通じそうだった。おまけにただでさえコントラストの強い公文書の写真を白黒で見ると、実物よりもかなり悪人面に見えてしまう。もちろん、私だって同じように撮ったものを同じように処理すれば同じように――あるいは彼ら以上に――強面に写ることだろうが。
 得るべきものがないことを確認するように眺めた最後の一枚で私の手は凍りついた。

 四角い顎と何度か折れたことがありそうな細い鼻。乱れて額に一房落ちたオールバックは、ピッタリと撫で付けているよりもむしろ似合っているよう見える。眼差しは自分が警察で写真を撮られる理由が分からないとでもいうように戸惑っていた。夏に撮られたものらしくTシャツ姿だったが、肩周りは大きく胸板も厚そうだった。身長を示す背後の壁の線は男が一八〇センチを越えていることを示していた。
 地下街で有紀子と一緒だった男によく似ているように思えた。
 ――まさか、な。
 私は写真のコピーをとって、男の顔の上にサングラスを描いてみた。
 胸の中に湧き出した疑念を押し潰すように乱暴に描いたのに、ペンを走らせれば走らせるほど脳裏の影と写真は重なっていった。

 ボールペンの先で紙が破れるほどサングラスを塗りつぶして、私はようやく手を止めた。

 そのままペンをへし折ってしまいそうなほど手に力が入っていた。私は静かに深呼吸しながら指をゆっくりと解いていった。