「抑制の効いた文章」について考える。 | 『Go ahead,Make my day ! 』

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【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
わたしはあまり、というか、ほとんど書評というものを読まない人間ですが(えー、主に雑誌の、という意味です。真名さんとか発掘屋さんのは面白いので読んでます)そんなわたしでもよく目にするフレーズに、

「抑制の効いた文章(文体)」

というのがあります。
滅多に読まないわたしが目にするのですから、おそらくかなりの頻度で使われている用語なんだろうなと思うわけですが、それにしても疑問なのですよね。

抑制って……何を抑制してるんですか? そして、抑制が「効いた」とはどういう状態を言うのですか?

ちなみに「抑制の効いた文章」でググってみましても、その語句が使われている文章(やはり主に書評)ばかりヒットして、この成句について考察したものは見当たりませんでした。

というわけで、仕方ないので自分で考えてみるわけですが。

まず、この「抑制の効いた文章」は概ね褒め言葉であることが多いと言えると思います。どちらかと言えば淡々とした語り口であるとか、重厚な筆致に対して贈られる賛辞かと。
しかし、それでは抑制されているものとは何なのか。

語りの饒舌さでしょうか?

そうかなとも思いますが、どれくらい語れば饒舌でどこからがそうでないのか。もともと、饒舌でない文章など小説の中で存在し得るのか。無駄なセンテンスや単語を排することは重要ですが、では、それさえ排すれば「抑制が効いて」くるかというと、これは非常に疑問です。単に無味乾燥な、あるいは非常に分かりにくい文章になってしまう恐れすらあります。

言葉の装飾の華美さでしょうか?

これもそうかなと思えないこともないのですが。しかし、一般に出回ってる小説でそこまで過剰な言葉使いをしているものがどれくらいあるでしょうか?
もちろん、中には言葉遊びとしか取れないものもありますし、無意味な擬音や動作の描写をしているものもありますが、それは全体から見れば少数でしょう。だとすれば、世の中の小説は大半が「抑制が効いている」ことになってしまいます。

うーむ、どちらも違う。むむむむ……。

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というようなことをずっと考えていたのですが、実は先日読みましたカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」の柴田元幸氏の後書きに(ちょっと違う意味で、ですが)「ああ、これが!!」と膝を打つような一文がありました。

「細部まで抑制が利いた」「入念に構成された」といった賛辞が小説について口にされるとき、その賛辞はどこか醒めた感じに聞こえてしまうことが少なくない。むろん好みはそれぞれだが、我々の多くは、書き手があたかも抑制などいっさいかなぐり捨てたかのような、我を忘れて書いたように思える作品に仰天させられることを求めているのではないだろうか。

解説はこの後、「わたしを離さないで」が細部まで抑制されていて、入念に構成されていて、なおかつ読み手を仰天させる稀有な小説であるという賛辞へと繋がるわけですがそれはともかく。(きいたと「利いた」と書くのも間違いのような気がしますがそれもともかく)

「書き手があたかも抑制などいっさいかなぐり捨てたかのような、我を忘れて書いたように思える」

これを言い換えますと、

書き手が我を忘れて書く → 抑制が効いていない

ということになるわけで、それはすなわち、抑制されているものとは「書き手(の自意識)の作品への没入」ではないのかと思うのです。

これだけでは言葉の上っ面を撫でてるだけなので、もうちょっと掘り下げましょう。

プロであれアマチュアであれ、小説を書こうという人たちは描きたい物語を自分の中に持っていて、それを文章という器に盛り付けているわけです。
いえ、物語そのものは誰でも持っているものです。現に幼い子供は懸命に自分のお話を母親に語ってきかせようとします。
わたしはあれこそがストーリーテリングの原点ではないかと思います。小説家がやっていることは、実はあれが進化したものではないでしょうか。――ただし、小説の書き手は子供のお話とは決定的に違う要素を持っていなければなりません。
それは「読み手の存在を意識すること」です。
子供の支離滅裂でご都合主義なお話に耳を傾けるのは、その子供を愛らしく思っている一部の人たちだけです。他人の子供のその手の話を辛抱強く聞いてあげられる人はほとんどいません。それは何故か。子供の語る物語は100パーセント、その子の自意識の発露に他ならないからです。
では、何ゆえに小説はそうであってはならないのか。

「小説とは書きたいことを書きたいように書いて良い、芸術のジャンルである」

とは筒井康隆の弁ですが、それは確かにそうです。原則論としては、書きたいことを書きたいように書けないのなら小説なんか書く意味はありません。
その論でいくのなら、小説は100パーセント書き手の自意識の発露であって構わないはずです。
しかし、実際にそんなものが本になったとしても誰も手には取らないでしょう。何故か。

他人の自意識になど誰も興味がないからです。

ちょっと(いや、かなり……)下品で申し訳ないのですが「小説(を書くこと)なんか作家のオナニーみたいなものだ」という喩えがあります。
先の自意識云々のことから考えるとあながち外れてもいない喩えです。人によってやり方は千差万別でしょうが、妄想というストーリーが行為に付随する点も近いのではないかと。誰でもやる(少なくともその要素はある)という点でも言い得て妙ですね。
しかし、小説の書き手のオナニーとそうでない人のオナニーには大きな違いがあります。それは見るに耐えるものであるかどうか。
他人の存在など一切気にせずに100パーセント自分の世界でぶっこいて、それでも見るに耐える作品を生み出す天才もたまにはいますが、おおよそ人並みの書き手は行為には没頭しつつも、同時にそれがどう見えているのかを意識せざるを得ないでしょう。

そしてもう一つ、小説は書き手の自意識の中から生み出されますが、それが完成するためには読み手によって読まれる必要があるという、他の芸術表現とはちょっと違う独特の事情があります。
マンガや映画は誰が見ても同じですし(ドラえもんは見る人によって四角くなったりしませんし、寅さんがいきなり丹波哲郎になったりもしません。したら面白いけど)音楽も基本的には誰の耳にも同じ音階で届きます。
しかし、物理的には文字の羅列である小説が物語として完成するには、読まれた言葉によって読み手の内面から寄せ集められた部品によって構成される必要があるわけです。そのため、小説は極めて個人的な芸術でありまして、読み手によって主人公の顔が違ったり、流れる音楽が違ったりするわけです。
そして、この構成作業において何が邪魔かというと書き手が勝手に押し付けてくる自意識なのですね。
もちろん、これを100パーセント排してしまっては小説そのものが成立しないのですが、ありすぎると非常にうざいし鼻につく。読み手が欲しているのは自分の中で物語を醸成する材料としての小説なのであって、書き手の自意識に共感したいわけではないのです。

書き手の主義にもよるかとは思いますが、自意識の没入をどの程度に抑えるか――そこが書き手による「抑制」であり、これが過不足ない状態であることが「文章に抑制が効いている」ことなのではないかと思いますが、いかがでしょう?

(雑誌の書評などでこのよく意味の分からない言葉を見かけるたびに「書評家も自分の文章でメシを喰ってるくせに安易に決まり文句なんか使っていいのか!?」という疑問を持ち続けておりまして、この記事も本当はそれについて書くつもりだったのですが、ぜんぜん違う方向に行ってしまいましたね……。まあ、いつものことか。←おい