「熾火」第9回 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
「ところで、捜し物は見つかったんですか?」
 そらは草薙に問いかけた。
「捜し物?」
「ええ、昭和57年2月の記事。あれから、ご覧になったんでしょう?」
 貸し出しはしていないので履歴には残っていないが、資料の紛失防止のために閲覧室への入室には届けが必要な仕組みになっている。草薙がそらが休みの日に図書館を訪れて閲覧室に入ったのは記録に残っていたし、それ以前に司書課の課長が揉み手をしながら草薙を案内していたのを、そらは真名から聞かされていた。課長がいつにも増して低姿勢だったのは草薙の怪我について責任を取らされなかっただけでなく、老人が何者なのかを知らされたからだ。草薙は個人でも会社としても県に大きな影響力を持っている。
「……ああ、あれですか」
 草薙は少し照れたような笑みを浮かべただけで、それ以上は言おうとしなかった。
 窓から見える県庁本館との間の舗道はイチョウ並木になっていて、葉がすっかり落ちてしまった今はひどく寒々しく見える。時間が止まってしまったような沈黙の中、そらは時折吹き付ける木枯らしにやせ細った枝を振るわせる木々をじっと見つめていた。
「残念ですが、見つかりませんでした」
 草薙はポツリと呟くように言った。
「載ってなかったんですか?」
「いえ、新聞に載ったのは間違いないのです。おそらく、私が載った時期を間違えて覚えていたのでしょう。――いや、歳はとりたくないですな」
 自嘲するような笑み。似合っていないわけではなかったが、そらは初めて草薙の仕草を不快に感じた。
「違う新聞だったんじゃないんですか?」
「いや、それはありません。我が家はずっとあの新聞でしたから。もちろん、東京では違いましたが」
 クサナギ精工の本店営業部は東京にある。技術者から身を興した草薙ではあるが、さすがに社長ともなれば開発室で図面の前に座りっぱなしというわけにはいかない。したがって生活基盤は東京にならざるを得なかったのだが、草薙は家族は地元に残したままで自分だけがオフィス近くに借りたマンション住まいという単身赴任生活を送っていた。そして、それは経営から身を引いて帰ってくるまで続いた。
「よろしかったら、どんな記事なのか教えていただけませんか? なんでしたら私が捜しますから」
 そらが言うと草薙は目を瞬かせた。何と答えるべきか――その表情はこれまで見せた事のない逡巡に満ちていた。
 やがて、草薙は小さなため息をついた。
「――いえ、樋口さんにそこまでして戴くほどのことではありませんよ」
「そうですか? 私にはそうは思えませんけど」
「えっ?」
 予想通りの答えだった。
 そらは草薙をじっと見つめていた。草薙が自分に何かを課しているのは間違いない。そして、それには何らかの心の重荷を伴っていることも。
 ただ、目の前の老人がそれを他人に吐露したりしない男であることもそらには分かっていた。弱さを見せることを嫌う我の強さとは違う。喩えて言うなら刃がその鋭さを保つために刀身を削られ続ける宿命にあるように、草薙は感じた痛みをすべて自らを鍛え上げる糧にしようとしているようだった。

 ――傲慢だな、この人。

 そらは心の中で小さく呟いた。
 
 少し歩きませんか、という草薙の誘いに応じて、そらは図書館を出て県庁敷地内に設えてある散策路を歩いた。日は落ちかけてあたりは幾分薄暗くなっていたが、退庁した職員が帰るためにバスは遅くまで出ている。
 外に出てみるとイチョウ並木の寂しさは幾分やわらいで見える。無機質な景色でしかない窓からの眺めと違って芽吹きには遠くても木々や土の匂いがするからだ。風が身を切るほど冷たいのだけは閉口するが、冬のバーゲンで喬生のじっとりした視線に耐えつつ買ったコートとカシミアのマフラーはそらを寒さから守ってくれていた。
「あの年の2月、何があったかご存知かな?」
 草薙が言った。
「東京でホテル火災があって、その次の日に羽田沖で飛行機が墜落した月ですね」
「……ほぅ?」
「もちろん記憶にはないですよ。わたしはまだ保育園に通ってた歳ですから。実は草薙さんに57年の2月って言われて興味が湧いて、ちょっと調べたんです」
「なるほど」
 一歩間違えばただの野次馬根性だったし、実際にそういう側面があって調べたことなのだが、草薙は感心したような表情を浮かべただけで何も言わなかった。
「あのときは大騒ぎだった。特にホテルは私が住んでいた紀尾井町から目と鼻の先だったので、空が真っ赤になるのが見えたほどだった。そして、次の日は羽田沖だったからね。あの日は私もこっちに帰ってくる予定だったんだが、羽田が閉鎖されたから仕方なく諦めた」
「そうだったんですか」
 草薙と2つの出来事の関わりは、そらが考えていたように希薄なもののだった。しかし、1つだけそらの予想と合致していることがあった。
 やはり、草薙にとってその月は特別なものなのだ。そうでなければスラスラとこんなことを話せはしない。
「私がそういう事情で帰れないと家に電話をかけたときだった。珍しく家内に責められましてね」
「奥様に?」
「新幹線に乗ってでも帰ってこられませんか、と。当時はまだひかりで新大阪まで5時間くらいかかったんですが、それでも、そこから特急を乗り継げば何とかなるだろうと。私は怒鳴りつけました。馬鹿なことを言うな、次の日には大きな商談があるからとんぼ返りで東京に帰らなきゃならない、行きは何とかなっても帰りの飛行機が取れなかったら穴を空けることになる、社長の私がそんなことができるか、とね」
「奥様は何と?」
「元々、私に何か言い返せるような女ではありませんでした。大人しく「分かりました」と言って電話を切りました」
 この年代の仕事人間らしい苛烈さではあったが、これまでに受けていた物静かで紳士的な振る舞いとの相容れなさに、そらは目の前の老人をどう評価していいものか分からなかった。
「そもそも、どうして帰ってくる予定だったんですか?」
「娘のピアノの発表会だったのです。今はどうだか知らないが、当時は女の子の習い事といえばピアノだった。当の本人はあまり乗り気ではなかったようなのですがね。むしろ、私がやっているのを見てやりたいと言い出した剣道のほうが楽しそうだった」
「ひょっとしてお捜しになってた記事って、その発表会の?」
「そうです。地方面の隅に載った小さな記事なのですが、娘がそこで優秀賞を獲ったとやらで写真が載りましてね。白黒なので色は映っていませんが黄色の可愛らしいワンピースでね。――いや、親馬鹿と言われても仕方ありませんな」
 草薙の自嘲めいた笑みはさっきと同じだった。しかし、目元のしわはいつにも増して深くなっていた。
「どうして、その記事を?」
「ふと、思い出したのです。この歳になると何の前触れもなく昔の出来事が脳裏に浮かぶことがあります。大抵は美化された懐かしさを感じるもので、そういうのはただ「ああ、そんなことがあったな」とひとしきり感慨を覚えればそれで済むのですが、たまにそうでないものがあるのです」
「帰れなかったから、ですか?」
 短い沈黙。
「……帰れなかったとは正確ではありませんね。帰らなかったのです」
「でも、それは飛行機事故のせいで――」
「いいえ、家内が言ったようにその気があればどうにでもなったはずなのです。翌日の商談だってどうしても外せないものではなかった。現に取引相手もその事故の影響で北海道から出てくるのが一日遅れたのですから。私はただ、目の前にぶら下がってきた”家に帰らなくてもいい理由”に飛びついたにすぎない」
「どうして……ですか?」
 立ち入ったことを訊いている自覚はそらにもあった。けれど、訊かずにはいられなかった。
「樋口さん、ご主人はあなたのことを愛しておられますか?」
 唐突な質問にそらは面喰らった。
「……ええと、たぶん。なかなか、はっきり言葉にしてくれませんけど」
「それでも、そう感じられるのは素晴らしいことです。言葉にされないとのことですが、それなのに愛されていると思えるのは、ご主人がより深く態度や物腰で愛情を表しておられるということではありませんか?」
 それは愛情を言葉にしたがらない男たちの詭弁だとそらは思うが、草薙がその代弁者たらんとしているわけではない。
「私はそれすらできなかったのです。家内が私の愛情を感じたことなど数えるほどしか――いや、数えるほどもなかったはずだ」
「そんな――」
「おかしな話です」
 草薙は静かに息を吐いた。もう、そこには笑みはなかった。
「このドライな時代にあっても私の会社はアットホームなことで知られています。私は従業員を家族のように思っているし、従業員もおそらくはそう感じてくれていたことでしょう。もちろん、経営者として時に辛い決断をしなくてはならないことはありましたが、それでも私は自分の会社で働いてくれる人たちのことをいつも大事に思ってきましたし、後を任せる経営陣にもそのことを口を酸っぱくして言い続けてきました」
 それはそらも知っていた。地場の大手企業である草薙の会社には同級生が何人か就職しているが、彼らから会社の悪口を聞かされたことがないからだ。
「しかし、私は同じ目線を自分の家族に向けることができなかった。私にとって家族は自分に奉仕するものでしかなかった。そして、面倒をかけるものであってはならなかった。そんな私に向かって取締役の一人が冗談半分に「娘の誕生日が言えたら社長にとっては充分な家族サービス」だと言った事がありますが、あながち冗談でもなかった。誕生日は言えましたが、娘の歳はいちいち計算しないと言えなかったからです」
「でも、それは草薙さんくらいの歳の男性だったら普通なんじゃないんですか?」
 そらの父親はそうではなかったので、実感としてどうなのかはそらにも知り得ない。そう言ったのは単に他にその場をフォローする言葉が思い浮かばなかったからだ。
「そういうものが世代によるものかどうか、私には分かりません。ただ、私が家内と娘を本当に愛していたのか――それはまったく自信が持てない。歳をとって振り返ればはっきりするだろうと漠然と思い続けてきましたが、残念ながら逆でした。歳をとる毎に少しずつその辺の心の輪郭はぼやけていくばかりです。他人は私のことを成功者だと言う。今風に言うなら勝ち組だとね。とんでもない。私は人生の敗残者なのですよ」
 何か言うべきだとそらは思った。しかし、言葉など浮かんでくるはずがなかった。そんな様子を察したのか、草薙は「それではここで失礼します」と言い残して、駐車場に停めたアストンマーチンへ歩いていった。