「――心拍低下!」
「おい、バイタルが落ちてきとーぞ!」
「どがんことやッ! まさか、心タンポナーゼか?」
「誰か、CTの画像再確認!」
あー、何だかエライことなってんな。
目の前は真っ暗だが音だけは聞こえてる。さっきからみんなでよってたかってあげてる怒鳴り声、または悲鳴。ピッ、ピッ――そんな感じの電子音。シュコー、シュコーって感じのリズムで繰り返してるのは空気の音か。カチャカチャって金属が触れ合うような音も聞こえてる。
あ、今、誰か何か床に落としやがった。
「きさんッ、何年オペ看しよーとかってッ!」
「すみませんッ!」
いや、モノ落っことしたくらいでそこまで怒鳴らんでも。
「エコー、確認!」
「胸腔内に出血は見られません。CTで見る限り、損傷はなかとですけど……」
「んなら、これは一体どがんこつかってッ!」
「いや、それは――」
そんなこと言われたって答えようがないだろ。CTに映ってないんだから。
ちょっと待て。俺はどこにいるんだ?
使われてる用語からするに手術室なのは間違いない。問題はその後だ。16歳の男子高校生である俺は手術する側でここに入ることは基本的にない。
つまり、ベッドの上で心タンポ何とかを疑われてるのが俺ってことになる。おい、さっき心拍がどうとか言ってなかったか? 俺は死に掛けてんのか?
……どうやら、そうらしい。目を開けようとしてみるがまぶたに力が入らない。それだけじゃなく身体のどこにも力が入らない。自分の身体じゃないみたいだ。
つーか、俺は何をこんなに冷静に様子を窺ってるんだろう。
手術中ってことは全身麻酔がかけられてるはずだ。そうじゃないのもあるかもしれないが、とりあえず、身体の自由も何もまったく利かないってのはそういうことだろう。
なのに、俺は何故こうやって物事を考えることができる?
実は俺は驚異的な精神力の持ち主で、全身麻酔にすら耐えることができるとか?
アホか。そんなことあり得ない。あったとしても何のメリットもない。麻酔はしっかり効いている。身体が完全に麻痺してしまっているのが何よりの証拠だ。
しかし、そうだとすると今、こうやって考え事をしている俺は何なんだろう。そもそも、俺はどういう経緯で手術室で死に掛けているんだろう。
脳裏に――かどうか分からないがとにかく思い浮かぶのは、ヤケクソみたいに真っ青な空。白い入道雲。そびえ建つ殺風景な市営住宅の屋上の縁。
そして、そこから降ってくる幼馴染の姿。
すべてがウルトラスーパースローのようにゆっくりと動いている。真琴が不意打ちでプールにダイブさせられたみたいに手足をバタつかせているのもはっきり見える。逆光のせいでどんな表情をしているのかまでは見えないが。
しかし、それがどれだけ間抜けヅラだったとしても、とても笑っていられる状況じゃないことは確かだ。市営住宅は8階建て。屋上から地面――ご丁寧に先日補修が終わったばかりのアスファルト――にぶち当たったら100パーセント助からない。
そう思ったときには、すでに俺は走り出していた。
おそらく、これまで生きてきた中で最速のダッシュだったはずだ。俺は真琴の身体が地面に到達する前にその下に滑り込んだ。お姫様抱っこみたいに抱きとめる格好になって、腕にものすごい衝撃が伝わってきたのを覚えてる。
しかし、完全に受け止め切れずに真琴の身体は俺の腕の中で大きく跳ねた。
地面に落とさないように俺は必死で抱きついた。その拍子に真琴は半回転して、やつの頭が俺の口の辺りにとんでもない勢いでぶつかった。
いや、痛ぇのなんのって。俺は思いっきりのけぞり、真琴の身体は地面に投げ出された。俺はあいつが免れた分の衝撃を全身で味わいながら地面に倒れ込んだ。
腕が「おいおい、そこに関節はねえよ」という場所から曲がったところまでは何となく覚えている。しかし、そこまでだ。目の前が真っ暗になるような痛みと口や鼻の中に血があふれ出した金気臭さの中、俺の意識はあっという間に遠のいていった。
ということは、これが噂に聞く幽体離脱ってやつかもしれない。
飛び降り自殺したら真下を歩いていた人にぶち当たって、本人は助かって下敷きになった人が死んだという話を聞いたことがある。小柄な真琴だが、8階建てのビルの屋上から落ちてくればそれなりの威力になる。その衝撃を全身で受け止めたんだ。幽体離脱くらいしたっておかしくない。
しかし、それにしては少し変だな。あれは空中にプカプカ浮かんで、手術されてる自分とか医者の姿を眺めてるもんじゃなかったっけ。
俺は意識――と言っていいかは激しく疑問だが――はあるが浮いてはいない。真っ暗闇の中に閉じ込められたままだ。目が開かないので何も見えないし、匂いもしない。音が聞こえるのは耳は塞がれていないからだろう。
つまり、俺は死に瀕して幽体にはなったが、完全に死んでないので離脱まではしてないのだ。我ながら中途半端だな、オイ。
自動ドアが開くような音がして、誰かがドタドタと部屋に入ってきた。
「そっちはどがんや?」
「まだ危険な状態です。そっちは?」
「ヤマは越えた。そいけん、こっちば手伝いに来たとやけど――」
どうやら真琴のやつも同じ病院に運ばれてるらしい。あり得ない話じゃない。俺とあいつが住んでる市営住宅は博多区と東区の境目辺りにある。すぐ近くには九州大学医学部の付属病院があるし、もう少し手前にもバカでかい私立の病院がある。
何にせよ、真琴が助かったというのは良い知らせだ。ここまでしてであいつが助からなかったら、俺は完璧な無駄死にだからな。
岩橋真琴――俺の幼馴染。腐れ縁とも言う。
どれくらい腐れてるかというと、お互いに異動の多い警察官の家庭に育ちながらずっと同じ官舎住まいで、そこが取り壊しになって市営住宅に引っ越すことになったときも、違う日に違う抽選会場でクジを引いたのに隣の部屋を引き当てるほどの腐れっぷりだ。
それだけじゃない。腐れ縁は学校にも及んでいる。中学はともかく高校は別だと思っていたら、俺がスポーツ推薦で受かった剣道の強豪校に進学クラスの特待生で入ってきやがったのだ。
顔はまぁ、可愛くもなくブスでもなく。メガネにポニーテール、アニメ声、ややポチャの幼児体型のせいで校内の一部で異様な人気を博しているが、当人はあまり気に入っていないらしい。
ちなみにこいつは俺のストライクゾーンにはまったく入っていない。幼馴染ってのもあると思うがそういう対象じゃないのだ。俺も人並み程度の性欲は持ち合わせているが、こいつが素っ裸でいても絶対にムラムラしない自信はある。
ま、やらせてくれるって言うなら遠慮はしないが。
「とりあえず、状況は?」
「血圧も心拍も弱まっとうとですけど、原因が分からんとですよ」
「目立った外傷はなかとやったな?」
「そがんですが……」
「先生! 心室細動です!」
「何てッ!? すぐ除細動器ば用意せんかッ!」
心室細動ってのは早い話が心臓が止まりかけてるってことだ。「医龍」にそう書いてあった。そうなったから死ぬってもんでもないはずだが、今の状況だとどうも助かる気がしない。
実感がないからだろうが、不思議と死ぬことへの恐怖は湧いてこない。それよりは幼馴染の命が助かったことへの満足感のほうが大きい。
俺はあの時、どうして走り出したんだろう。
答えは出ない。出るはずもない。おそらく、何も考えちゃいなかっただろうから。
一つだけ言えることは後悔はしてない。不思議なことだが「真琴の身代わりなら仕方ねぇな」と思うことができる。それが幼馴染だからなのか、ひょっとして俺がそれ以外の感情を抱いていたからなのかは分からないが。
そして、残念ながら確かめることは出来なさそうだ。
「離れろ!!」
感覚はまったくないが、医者が俺の身体に圧し掛かってくる圧力みたいなものは感じられた。同時に身体の奥のほうで何かが弾けた。
「どがんやッ!?」
「まだです!」
「もう1回ッ!」
どうやら俺の主治医であるらしいこの医者はさっきから怒鳴りっぱなしで、そろそろ声が擦れ始めている。正直煩くて仕方ないが、俺を助けるために必死になってくれてるんだから感謝しなきゃ罰が当たるってものだ。
死んでからもその手の罰が当たるのかどうかは知らないけどな。
「いくぞッ!」
もう一度、胸の奥で衝撃が弾ける。心臓を直接ぶん殴られたみたいだ。
「ダメですッ!」
「簡単に諦めんな、もう1回ッ!!」
いや、もう諦めてもいいと思うよ。俺はアンタたちを恨んだりしないからさ。
「出力最大で行く。みんな、離れろッ!!」
身体の感覚はないはずなのに、電気ショックで俺の上半身がビクンと跳ねたのが分かった。その直後、機械の一つから「ピッ!」と短い音がした。
「きたッ!!」
「よっしゃあッ、昇圧剤ぶち込めッ!」
機械は更に同じ音を出し続ける。それを途切れさせないように胸がかなりの強さで圧迫される。心臓マッサージだろう。機械の音は徐々に力強く、規則的なものに変わり始めている。
それに反比例するように意識がぼんやりしてきた。
どうやら死に掛けて肉体から離れかけてた幽体が、身体が持ち直したことで元に戻ろうとしてるらしい――ってことは俺は助かるってことなんだろうか。
そうなんだろうな。
しかし、そう思うと安堵と一緒に今更ながら怒りがこみ上げてくる。
真琴のやつ、何があったか知らないけどあんなとこから落ちてきやがって。怪我の具合は相変わらず分からないが、とりあえず腕は間違いなく折れてる。せっかく三年生を二人、二年生を五人ぶっちめて玉竜旗の先鋒の座をつかんだのに、肝心の大会には間に合わないだろう。秋の大会にだって間に合うかどうか。
あと、心配なのは顔だ。真琴はぶつけたのは側頭部だから投げ出されたときにアスファルトとキスしてなきゃ顔は無事だろうが、俺はあのぶつかり具合からすると酷いことになってるだろう。鼻骨は間違いなく折れてるし、下手すると前歯も折れているかもしれない。16歳で差し歯なんて情けないにも程がある。
あれっ?
さっき、このやたら煩い医者は「目立った外傷はない」って言ってなかったか? どういうことだ?
まあ、そんなことどうでもいいや。真琴のやつ、元気になったらたっぷり貸しを返してもらうからな。ちょっとやそっとのことじゃ済まねぇぞ。パンツを下ろして壁に手をつかせて、俺様のへそまで反り返ったアレで……。
あ、やべ、何も考えられなくなってきた。なんだよ、これからいいとこなのに――。