教室の窓から見える空はやるせなくなるほど青く澄んでいた。もしも”夏色”という色があるとしたら、きっとこんな色なんだろう。柄にもなくそんな考えが脳裏をよぎる。
アタシの記憶が確かなら高校二年生の夏休みってのは遊ぶ為にある筈だ。しかし、始まったと同時にアタシは半ば強制的に補習に参加させられている。
「――えーっと、ここ、二次関数の重要なところですからぁ、そのぉ、しっかり聞いておいてくださいねぇ……」
妙におどおどした口調の女の数学教師が何かほざいている。授業の最初にやった小テストの解答をやってるらしいが、何を言ってるのかまったく頭に入ってくる気配がない。夕べ遅くまでバイクをいじっていたせいで眠くて仕方ないのだ。
「それでぇ、従属変数についてですけどぉ――」
つーか何だよ、従属変数って。
片肘をついてアゴを手のひらに乗っけた。前を見る気はまったくしないし、机の上に広げた――ホントに広げただけだが――教科書やノートを見る気にもならないとなれば、いきおい目線は青空に向けざるを得ない。
薄いため息をつき、顔を窓に向けてあくびを噛み殺した、次の瞬間。
(こらっ、真奈!)
すぐ後ろの席からひそひそ声がして、後頭部に何かが当たった感触がした。
投げつけられたのは多分ノートの切れっ端を丸めたものだ。もちろん痛くはないが、真後ろなら普通に背中をちょっと触るとかでもいい筈だ。なのにこいつは輪ゴムとかクリップとかでいつもアタシの頭を狙ってくる。
振り返って襟首を引っ掴んでやろうかと思ったが、さすがのアタシもそんなオーバーアクションは起こせなかった。心の閻魔帳に一つバッテンを記してしぶしぶ教壇に眼を戻す。
そもそも、何でアタシがこんなとこにいなきゃならないのか。
期末テストは過去最高の点数で無事に切り抜けたのだ。まぁ、快挙を成し得た手段は天地神明に誓ってカンニングなのだが、それがバレるようなヘマをした覚えもない。普段の授業態度の悪さに担任がぶち切れたせいだという説があるが、話を聞いていないという点ではメモ紙でくだらない手紙を回している奴らや、教科書で隠した携帯電話の画面と睨めっこしてる奴らも同じ穴の狢だろう。同じようにこの場に引き出されなくては公平さを欠くというものだ。
などとウダウダ考え事をしていると。
「――えーっと、今日はここまでですけどぉ、分からない人いますかぁ?」
さりげなく教室を見回したが手を挙げている者はいなかった。アタシも当然挙げていない。教師は何故か残念そうな顔をしていた。
「そうですかぁ。じゃあ、大丈夫ですねぇ。明日もう一回、今日のところテストしますから。あ、明日の答案は回収するのでそのつもりで……」
小さな声で誰かが「えーっ?」と不満の声をあげる。同意を示すざわめきがそれに続いた。
アタシは素知らぬ顔をしつつ折り畳んでいたテストの答案を広げた。一応、チャレンジしてはみたが、第一問のところに怪しい呪文――おそらく眠気を催す系の――が書き散らかしてある以外は完全な白紙だ。おそらく、明日のテストでも改善は見られないだろう。
そんなことを考えていると授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
「きりーつ、礼」
「ありがとうございましたぁ」
日直の間延びした声にやる気のない挨拶が続く。これで福岡で指折りのミッション系私立女子高だというから呆れてしまうが、ここがお嬢様学校だったのは昔の話で、今はちょいと学費と寄付金とプライドが高いだけの普通の高校と化している。幾分、というよりかなり浮いてはいるが、アタシが通えているのが何よりの証拠だ。
グダグダ考えても仕方ない。教科書その他をバッグに放り込んで帰る準備を始めた。補習は昼迄で午後は部活がある奴らはそっちへ、アタシのような帰宅部は帰ることになる。教室に居残っていつまでもお喋りに興じる趣味はアタシにはない。
あったとしてもアタシにそんな友だちはいないが。
「さてと――」
「ちょっと待ったぁ!!」
立ち上がろうとするアタシを遮るように徳永由真が前に回り込んできた。
念入りに、それでいて無造作な感じにも見える縦巻きの長い髪。透明感のある色白の肌に少しだけ幼さの残る整った顔立ち。黒目がちな眼だけがそこだけ別の生き物のように存在を主張している。制服の袖から覗く腕もスカートの裾から伸びる脚も何かの拍子に折れそうなほど華奢で、まるで等身大の人形のようだ。これで声が甘ったるいアニメ声だったらただちに親不孝通りのメイド喫茶に送り込むところだが、声だけはイメージと違ってちょっと低めだ。アタシのハスキーヴォイスほどじゃないが。
「……何だよ、由真」
「何だよじゃないよ。授業中に余所見なんかしちゃダメでしょ」
「うっせえな、おまえに関係ないだろ。つーか、何でこんなとこにいるんだよ。学年一位獲ったって自慢してたくせに」
「真奈のお目付け役に決まってんじゃない」
「失せろ」
ぷっと頬を膨らませながら、由真が主のいなくなったアタシの前の席に座る。
背もたれの上で組んだ腕に突っ伏するように顎を乗せているので、尊大にふんぞり返るアタシを下から見上げるような格好になった。それでなくてもアタシと小柄な由真では二〇センチ以上も身長差があって、座高も必然的に段差がある。不思議なものを見るような眼で見上げられるのはいつものことだ。
しばらく無言で睨み合っていると、由真の赤い唇がニッと横に広がった。
「……何だよ、ニヤニヤしやがって。気持ち悪ィな」
「ちょっと、気持ち悪いとか言わないでよ」
「うっせえよ。言いたいことがあるならさっさと言え」
「明日のテスト、一人でだいじょうぶなの?」
何だ、そんなことか。
「ただの小テストだろ。テキトーにやり過ごせば済むこった」
「あっきれた。真奈ってば先生の話聞いてなかったの?」
「……?」
「そのただの小テストで合格点取れなかったら、補習延長なんだよ?」
「なんだと!?」
聞いてなかった。教師が同じところをテストすると口にした後は、どうやって明日の補習をサボるかしか考えてなかったからだ。
いくらアタシが馬鹿でも範囲さえ判っていれば一夜漬けくらいできる。が、その為には今日の小テストの詳細な解答が必要だ。
アタシは黙って手を差し出した。
「なぁに?」
「よこせ」
「何を?」
「今日のおまえの答案」
「それがひとにモノを頼む態度?」
再び無言の睨み合い。
どうでもいいがガンのつけ合いでアタシと渡り合える女は滅多にいない。もともと長身な上に空手をやっててガタイがいいので、かなり威圧感があるからだ。褒められた話ではないが目つきもあまり良くない。ここしばらく切ってないので少しウェーブのかかった髪がセミロングくらいになっているが、いつぞやバッサリとベリーショートにしたときは我ながら男にしか見えなかった。それもかなり凶暴そうな。
その点では由真の度胸の据わり具合――と言うか、怖いもの知らずっぷり――だけは認めざるを得ない。
「……条件は?」
ため息が洩れる。力尽くで取り上げてもいいが、答案だけ見たところでアタシには何が何だか分からない。解説者もセットで必要だった。
「これから、あたしの買い物に付き合うってのは?」
「そんなにヒマじゃねえし」
「ウソばっかり。どーせバイクで走りに行くんでしょ。そういえば後ろに乗せてくれるって約束はどうなったの?」
……そんな約束したっけ?
ああ、期末テストのカンペ作るのに分からないところを解説させたときにそんなことを言ったような気がする。つーか、つまんないこと覚えてんな。
「夕べも遅くまで整備してたんだけどな。キャブの調子が悪くって、エンジン回したときにカブっちまうんだ」
「直らないの?」
アタシの愛機、メタリック・レッドのスズキ・バンディット400V。ボディカウルがなくてエンジンがむき出しのいわゆるネイキッド・バイクだ。テールエンドの流麗なデザインがセクシーな印象を与えるところが気に入っている。
ただ、古いバイクなのであちこちに持病を抱えていて、最近はエンジンに不整脈の兆候が見られるようになった。一応、部品の交換と調整は終わっているので乗せてやっても構わないのだが、気が乗らないのにはもう一つ別の理由がある。アタシはタンデムってやつがあまり好きじゃないのだ。こいつみたいな運動音痴がバディの場合は特に。
「残念ながらまだだ。その約束はもう少し待ってろ」
「オッケー。直るの楽しみにしてるよ」
「……ずいぶん素直だな」
「だって、走りに行けないんだったらお勉強は夜でもいいってことでしょ? 夕方までゆっくり遊べるじゃない」
由真は退屈しきった子猫のように首を傾げながらアタシの眼を覗き込んできた。見た目と違って結構気が強いところがあるが、その一方でこうやって甘えてきたりもする。こういう女を世間では小悪魔というのだろう。アタシにはどうやっても習得できない芸風だ。
「……担任から呼び出しくらってんだ。ちょいと職員室に寄ってくるから校門で待ってろ。それと何か飲むモン買っといてくれ」
そう言って席を立った。担任の用事なんてどうせ大したことじゃないが、事情があってシカトもできない。くそ、面倒くせぇ。
教室を出ようとしたところで由真がアタシを呼び止めた。
「何だ?」
「買っとくの、コーヒーでいいよね?」
アタシは返事の代わりに小さく手を挙げた。
アタシが通う高校は福岡市の中央区と城南区の境目辺り、六本松にある。
松の木が六本あったのが地名の由来なのは多分間違いないが、それらしい松の木を見たことは今のところ一度もない。九州大学の六本松キャンパスの他にも短大や高校が集まっている、ちょっとした学生街みたいなところだ。もっとも九大キャンパスは西区の伊都とかいう地の果てに段階的に移転していて、あと何年かのうちに跡形も無くなってしまうらしいが。
まあ、その頃にはさすがにアタシも高校を卒業しているだろうし、今日の小テストの結果からして九州の最高学府に進めるとも思えないので、あまり関係ない話ではある。
そのキャンパス前の停留所から路線バスに乗って天神に向かった。福岡市の中心市街地というのは意外と狭くて、六本松からだと国道二〇二号線(別府橋通りから国体道路、けやき通りと名前は変わるが要するに一本道)をほんの一〇数分ほど西鉄バス名物の荒っぽい運転に揺られるだけで天神に着いてしまう。
アタシたちは警固公園前でバスを降りて、着替えるために天神地下街に入った。ウチの学校では帰りに寄り道をすることは禁止されている。その為、アタシたちは教科書やらノートやらを突っ込んだカバンとは別に、着替えを入れたカバンを持ち歩いている。遊んでいる間は地下鉄駅のコインロッカーにでも放り込んでおけばいい。
地下街のトイレでアタシは胸に乱暴な字で”FUR NAECHSTES MAL OHNE ITALIEN”と書かれたブルーのTシャツとメンズシルエットのストレートデニム、adidasのスニーカーに着替えた。主に面倒くさいという理由でアタシのワードローブはこの手のシンプルなアイテムに統一されている。ちなみにメッセージの意味は”次はイタリア抜きでやろうぜ”だ。ドイツの酔っ払いのオッサンが日本人を見かけると投げ掛ける定番の不謹慎ジョークだというのはつい最近知った。
「また、そんなの着るんだからぁ」
由真は不満そうにため息をついた。
「何がだよ?」
「スタイルいいんだから、おしゃれしたらいいのにって言ってんの」
「……アタシの何処が?」
「背高いし、手足長いし。結構可愛いし。おっぱいもおっきいじゃん」
「結構って何だ。それに胸なんか邪魔くせぇだけだ。肩こるしさ」
「それは贅沢ってもんだよ」
そうかもしれないがアタシにとっては邪魔なんだから仕方ない。身長は百七十三センチ、体重が六〇キロ半ば。筋肉がつきやすい体質で決して太っているわけじゃないが、お世辞にも細身とは言えない。高校に入った頃から膨らみ始めた胸は先日、遂にFカップを越えてGに達した。肩こり云々はともかく、いい加減にしてくれないと収まるブラジャーがなくなる。
そんなことをほざく由真はというと、見るからにフェミニンなオフホワイトのワンピースにほっそりした身体を包んでいる。ブランドに関してほとんど興味も知識もないアタシが見ても、それがそこら辺のバーゲンで売っているような代物じゃないことは見て取れる。この前聞いた話じゃ英国ブランドがお好きなんだそうで、今着ているのは確かローラ・アシュレイとかいうやつだ。手にしているのはバーバリーのトートバッグ。お馴染みのチェック柄くらいはアタシでも知ってる。
「行こっか、真奈」
「……はいよ」
由真が見たいショップは大名にあるらしかった。福岡の――というより九州の商業の中心地である天神の真裏にあるにもかかわらず、まるで時間の流れから取り残されたような佇まいを残している一画だ。昔は特に何と言うこともない路地だったのだが、今では安い賃料に惹かれて集まってきたショップやカフェがずらりと軒を連ねている。古いものと新しいものが入り混じる混沌とした雰囲気がサブカルチャー向きなのか、むしろ天神よりもここを目当てに買い物に来る客の方が多いのではないかと思えるほどだ。
そんな中を由真と連れ立って歩いた。時折、ショーウインドウに映る自分たちの姿を見ると、まんまカップルにしか見えないのには閉口した。女同士だというのに由真が腕を組みたがるのにはもっと閉口した。いつものことだし言ってもやめないので好きにさせているが、正直かなり面映い。
「ねぇねぇ、これ良いと思わない?」
「あー、似合ってる似合ってる」
「ちょっとぉ、せめて見てから言ってよ」
「どうせ、アタシの意見なんか聞かねえんだろうが」
「そんなことないよ。真奈がコーディネートくれるんだったら、それ着るよ」
「……んな面倒くさいことできっかよ。ほら、さっさと選べ」
「ねぇ、そんなに急がなくたっていいじゃない!」
こういうことをしていると、女のアタシでさえ男が女の買い物に付き合うのを躊躇する気持ちが理解できてくるから不思議だ。
結局、その店では見るばかりで何も買わなかった。しかし、買い物気分に火がついた由真はその後もアタシを連れ回した。大名からソラリアプラザ、天神地下街に戻って、早くも初秋のコーディネイトを展示しているショーウィンドウを歓声を上げながら眺めて歩く。もちろん、上げているのは由真だけだ。
アタシたちはそのまま地下街からギャル・ファッションの聖地(なんだそうだ)である天神コアに入った。
が、そこにはほとんど長居しなかった。正確に言えばできなかった。ラメ入りメイクにキャミソール、ローライズ・ジーンズや太腿丸出しのショートパンツの店員と、同じような格好の客でごった返す中で由真がギャル系ファッションに関して辛辣な批評を展開し始めたからだ。アタシは慌てて由真をビルの裏口から外へ連れ出した。
何考えてんだ、こいつは。
近くにあったスターバックスに入って、アタシはようやく一息つくことができた。
「あー、楽しかったぁ」
由真はヴァニラクリーム・フラペチーノをスプーンですくうと幸せそうな表情で口に運んだ。行く先々で服やアクセサリを買い込んでいるので、バーバリーのトートバッグはパンパンに膨れ上がっている。そりゃ楽しかっただろうよ。
「……おまえさぁ、いい加減にしろよ。あんなとこでケンカ売るようなこと言って、絡まれたらどうすんだ」
「その時は真奈が守ってくれるでしょ?」
由真の表情にはまったく屈託と言うものがなかった。真面目に話をしているのがバカバカしくなってきて、倒れこむようにソファの背にもたれ掛かった。
本日のコーヒーは“ティモール・ロロッサ”だった。ちょっとだけスパイシーな味わいが弛緩した気分に合っていて、アタシはゆっくりと味わいながらコーヒーを啜った。甘いものが苦手なのでこういうところではコーヒーしか飲まない。
由真は本日の獲物をバッグから引っ張り出しては、それがいかにセンスの良い物でどれだけ流行を先取りしているかについて熱く語った。生返事を返しても気にならないようだったので、彼女が熱弁を振るうのに任せておいた。
思えば、アタシと由真は共通項よりも真逆なところの方が多い。
小さな頃から可愛がられて育ったせいかワガママで感情の起伏が激しい由真と、どちらかというと泰然としていて群れて行動することが好きじゃなかったアタシは不思議とウマが合った。
もちろん彼女だけがアタシの友人だった訳じゃない。空手道場に一緒に通った子もいるし学校の友達だっていた。プラトニックで、今思えば笑ってしまうような清純な交際をした男の子だっている。
けれど、彼らはある事件を境にアタシの周りからいなくなってしまった。ある者は親から遠ざけられるように。ある者は自分の意思で。今、友だちでいてくれるのは由真だけだ。
人殺しの娘であるこのアタシと。