「砕ける月」第2章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 福岡県警薬物銃器対策課の刑事だった父、佐伯真司が人を死なせて逮捕されたという知らせは一昨年のゴールデンウィークの真っ只中にもたらされた。
 率直に言ってアタシはその日のことをよく覚えていない。覚えているのは住んでいた東区の官舎前にあっという間にできあがったカメラの砲列、ライトやフラッシュから放たれる目を灼くような眩い光、マスコミから浴びせられる怒号のような非難の声、群がる野次馬の好奇の眼差し。母親を早くに亡くして父と二人暮らしだったアタシを保護するために婦警が派遣されてきたが、アタシは彼女からすら疎ましげな視線を向けられた。
 一体、何がどうなっているのか。父は何をしでかしたのか。人を死なせたというが相手は何者なのか。父はこれからどうなるのか。そしてアタシは――
 アタシは思いつくままの疑問をぶつけた。しかし、答えてくれる人間はいなかった。後で知ったことだが父の上司や同僚は県警上層部の命令でアタシとの接触を禁止されていた。それが具体的に何の目的だったかは今でも分からないが、父が起こした事件は県警にとってそれほどデリケートな扱いをせざるを得ないものだったということだろう。皮肉なことにアタシが事件のあらましを知る方法はマスコミ報道しかなかった。
 それと後から聞き及んだ話を合わせるとこうだ。
 父が属していた県警と中央署の合同捜査班は親不孝通りのクラブ(踊るほうのヤツだ)で捌かれていた合成麻薬MDMAの捜査をしていた。内偵は数か月に及んでいて周辺事実の確認は順調に進んでいた。外堀は埋まりつつあった。
 ところがその過程で圧力がかかった。検挙するには決定的な証拠に欠けるという理由で捜査の中断を命じられたのだ。
 捜査に圧力がかかること自体は決して珍しいことではない。はっきり聞かされたことはないが同じように捜査が中断に追い込まれて、アタシの前では滅多に荒れない父が不機嫌そうに酒を呷るところを見たことがある。
 現場の刑事たちは反発した。しかし、上の決定に逆らえるはずもなく、誰もがこの事件は終わったと思った。
 だが実際はそうじゃなかった。理由はよく分からないが父はこの事件にひどく執心していて、他の事件を追いながら独自にこの密売事件を追っていたのだ。そして、グループのリーダー格の少年が手に入ったばかりのMDMAを持って親不孝通りのクラブにくるという情報を手に入れた。
 そうやってあの夜、父は少年を現行犯逮捕するべく相棒の若い刑事を伴って現場に現れたのだ。
 少年は情報が洩れていることに気付かずまんまとクラブに現れた。父が少年に職務質問をかけ、同時に若い刑事が彼の腕を捻りあげた。あとは彼の懐にある麻薬のパッケージを取り上げ、少年を連行すれば父たちの仕事は終わる筈だった。
 ところが実際はそうはならなかった。一瞬の隙をついて若い刑事の鳩尾に一撃を入れた少年が逃走したのだ。父は相棒を残して少年を追った。
 それから二人の間で何があったのかは、実はよく分かっていない。
 若い刑事が長浜公園で二人に追いついたときには父は肩で荒い息をしていて、少年はその足元でぐったりと伸びていた。父の拳は少年の鼻血と裂けた傷口から流れる血で染まっていて、通行人の通報で駆けつけた舞鶴交番の制服警官が父を激しい口調で詰問していたそうだ。少年は救急車で病院に運ばれたが倒れたときの打ちどころが悪く、明け方を待たずに息を引き取った。死因は倒れたときに道路の縁石で頭を打ったことによる頭蓋骨骨折と脳挫傷だった。
 報告を受けた県警上層部はさぞ戦慄したころだろう。捜査終了を命じた筈の事件を単独で捜査していただけでも十分に命令違反なのに、被疑者を死なせてしまったのだから。前代未聞とはこういうときのためにある言葉だ。そして、追い討ちをかけるように――といっていいのかどうか分からないのが――とんでもない事実が発覚した。
 死んだ少年がMDMAを持っていなかったのだ。密告に気付いた少年がとっさに隠したのか、密告自体が罠だったのかは分からない。ただ、状況が警察にとって非常に厳しいものになったことだけは間違いなかった。
 父は傷害致死の容疑で逮捕された。
 暴力警官に対する世論の追求は激烈の一語に尽きた。アタシも”人殺しの娘”として凄まじいイジメの真っ只中に放り込まれた。入ったばかりの高校ではクラスメイトから一斉に背を向けられ、通っていた空手の道場からは丁重に出入り禁止を宣告された。始めたばかりのアルバイトは即日クビになった。
 裁判で父は大筋で起訴事実を認めて謝罪の意を示したが、少年を殴った理由については「カッとなって覚えていない」の一点張りで動機が明かされることはなかった。
 父は懲役六年五か月の実刑判決を受けた。一審は検察が量刑不当で控訴したが、二審では検察・弁護側双方が上告せず刑が確定して、父は程なく北陸の刑務所に収監された。
 問題はアタシの身の振り方だった。父の両親は早くに病没していたし、親類縁者といえば遠い海外に嫁いだ妹がいるだけだった。アタシは母の親類に頼らざるを得なかった。
 母の実家は長崎でガソリンスタンドとコンビニエンスストア、ファミリーレストラン、観光ホテルなどを経営する裕福な一族だ。父の弁護士から聞いた話では、父は「どうか真奈のことをお願いします」という内容の手紙を送っていたらしい。達筆なくせに筆不精で報告書すら相棒の若い刑事に代筆させていた父からは想像もつかないことだった。アタシはほとんど行ったこともない長崎に引っ越すことになるのだろうと漠然と考えていた。
 ところが意外なところから横槍が入った。亡き祖父の弟、アタシからすると大叔父にあたる県議会議員が一族が人殺しと親戚関係にあると知れ渡るのを嫌ったのだ。今さら死んだ姉の忘れ形見に戻ってきてほしくない二人の叔父と一人の叔母もそれに同調した。祖母の籍に移って佐伯姓から榊原姓に変わったのは親権者がいなくなったアタシをそのままにしておけなかったからだが、長らく療養生活を続けていて実権を失った祖母にはそれが精いっぱいだった。
 アタシは”住み慣れた街を離れるのは嫌でしょう?”というもっともらしいが的外れな心遣いによって、叔母が所有する百道浜のマンションで一人暮らしをすることになった。
 事実上の厄介払いであることを除けば扱いは悪くなかった。追い出された高校の代わりに祖母の母校である今の高校に無試験で編入させてくれたし、そこら辺の若いサラリーマンの給料以上の小遣いが口座に振り込まれるようにもなった。マンションには週に二度、ハウスクリーニングのサービスもくる。父とアタシでシェアして乗るつもりで買っていたスズキ・バンディット400Vの代金も支払ってくれた。事前に断るように言われているが大きな買い物も祖母名義のクレジットカードで自由にできる。
 しかし、その何もかもがアタシの心をささくれ立たせるのに充分だった。アタシは誰の目もないのをいいことにすっかり荒れて、夜の街を遊び歩くようになった。

        *        *        *

 去年、九月になっても自主的な夏休みを続けていたアタシは中洲のど真ん中にある小さなゲームセンターで徳永由真と出会った。
 お人形さんみたいだなというのが最初の印象で、アタシは自分のボキャブラリーの貧困さに呆れたものだ。
 実は彼女には見覚えがあった。というより学校で彼女のことを知らない者はいなかったのだ。祖母の頃と違うといっても未だに“お嬢様学校”と呼ばれるウチの高校でも由真は指折りのお嬢様だ。家は西区にあるバカでかい総合病院を経営していて、分院やクリニックが市内を始めとして福岡県内にいくつもあると聞いていた。
 ゲームセンターにいるのに遊ぶ様子もなく、ただ興味深げにキョロキョロと店内を眺めて歩いている様は買い物をする親から「見てるだけよ」と言われて玩具売り場で待っている小さな子供を思わせた。
 控えめなフリルの付いたサックス・ブルーのワンピースは猥雑で騒々しい夜の街では明らかに異質だった。飛んで火に入る夏の虫じゃないがその姿は隙だらけで、店内で遊んでいる男どもから見ればエサ以外の何物でもなかった。連中はしばらくは遠巻きに――といっても狭い店内では大して遠くなかったが――見ていたが、やがてナンパ待ちの女の子をモノにするのが生きがいのバカが馴れ馴れしく声をかけて、肩を抱かんばかりに彼女に寄り添った。
 どうするのかと見るとはなしに見ていたら、彼女は女のアタシでさえドキリとするような艶然とした微笑を浮かべていた。
(……ふん、お嬢様っていってもその程度か)
 興味を失って苦戦中のクレーンゲームに戻ろうとした。度肝を抜かれたのはその直後だ。
 次の瞬間、パァンという男の頬を張る小気味のいい音が鳴り響いた。由真はそのままその場を立ち去ろうと踵を返した。誰もが呆気にとられてその姿を見送ろうとした。
 最初に我に返ったのは引っ叩かれた男だった。屈辱で顔を紅潮させながら駆け寄って由真の細い腕を捻り上げた。由真は悲鳴を上げたが男は収まらなかった。入口に逃げようとする由真をゲーム機に押しつけようとする。子供の頃からタバコを吸ってる感じの小柄な男だったが更に小柄な由真に逆らえる相手じゃなかった。
 周囲は事の成り行きを最初と同じように遠巻きに見ていた。眉を顰める向きはあったが誰も止めに入ったりしない。盛り場の揉め事に口を差し挟むほど中洲の住人は暇じゃないからだ。
 アタシはやれやれと思いながらクレーン・ゲームの前から離れた。狙っていたものがどうしても取れなくてイラついていたのもある。
「――てめえ、何やってんだ?」
 驚いた男がアタシの方を振り返った。その瞬間、アタシは男の顎に渾身の掌底を叩き込んだ。
 由真は何が起こったのか分からないように目を瞬かせていた。
「え、あの、その……」
「ボーっとしてないで逃げろッ!!」
 ところが腕を捻られたときに取り落としたバッグがちょうど男の身体の反対側に転がっていた。そんなものほっとけと言いたいところだがそういう訳にもいかない。
 しかも男はノロノロと立ち上がり始めていた。派手に鼻血を吹いているがダメージはそうでもなさそうだった。掌底で顎を狙う場合は下方向から打ち上げるとうまく入るが、相手が小柄だとどうしても打ち下ろしになってしまう。そのせいでノックアウトできなかったのだ。
 男は鼻血を袖でグイッと拭うと、ジャケットの内ポケットに手を突っ込んだ。息苦しそうに口で呼吸をしている。
「――ぐそっ、てめ、ぶっ殺す」
 そうはいくか。
 ポケットから出した手に鈍く光るものを認めた瞬間、アタシの体は動いていた。左の下段前蹴りで男の出足を止めて、その脚を下ろさずに左の上段横蹴りでナイフを蹴り飛ばした。男は蹴られた腕を押さえながら後ろへ下がった。
 転がるような勢いで男はゲームセンターから中洲の表通りに飛び出した。助けを呼ぶのかもしれない。さっさと片付けないと面倒なことになる。
 アタシも後を追って外に出た。通りを行き交う人々の驚きの視線を感じたが気にしている余裕はなかった。アタシはもう一度、左の下段で男の脚を狙った。位置的な関係もあるがアタシは相手に近い左ばかりを使っていた。それは決め技への伏線だった。
 男がアタシの左の届かない右側へ動こうとした。その刹那、アタシは軸足をスイッチして右の上段回し蹴りを放った。
 とっさに男の腕がガードに跳ね上がったのは褒めてやってもいいかもしれない。しかしアタシの得意技の前には無意味だった。膝をたたんだまま振り上がったところで腰と軸足を返し、ガードの上から力いっぱい脚を振り下ろす。
 軌道の変化する上段縦蹴り――グラウベ・フェイトーザばりのブラジリアン・ハイキックが男の肩口にめり込んだ。
「ふぐッッ!!」
 不気味な悲鳴とともに鎖骨が折れる感触が伝わってきた。男は肩を押さえて座り込んだ。
 誰かが吹いた口笛で、アタシは我に返った。
 いつの間にか周りを囲んでいたギャラリーは思わぬ見世物に大興奮だった。しかし、その向こうにいかにもという感じの剣呑な雰囲気を漂わせた若い男たちの姿が見えた。
「早く逃げよっ!!」
 誰かがそう言ってアタシの手を取った。
 由真だった。さっきまでの可愛らしい表情は消えていて、有無を言わせない力強さでアタシを引っ張った。アタシたちは脱兎のようにその場から逃げ出した。

 インターハイに“四〇〇メートル逃げ足”という競技があったらブッチギリで優勝できそうな勢いで逃げ出したアタシたちは、那珂川に架かる福博であい橋(ホークスが優勝するとファンがダイブすることで有名な橋だ)の袂まで来たところで足を止めた。
 息を整えながら追ってくる気配がないことを確かめて、アタシは橋の欄干に体を預けた。
 立ち並ぶビルの屋上のネオンが水面に映り込むテレビや雑誌でお馴染みの風景は幻想的で見る者を惹きつける華やかさと猥雑さを併せ持っている。光に照らされたところの美しさとその陰にある暗い闇が持っている別の意味で人の心を捉えて放さない力。
 アタシは自分がここにいることの現実感のなさにしばし呆然とした。
「――真奈ってば強いんだね」
 由真はいきなりアタシを呼び捨てにした。彼女にはそういう細かいことを気にしないようなところがあったし、アタシもそういうことにそれほどうるさいわけでもなかった。
「つーか、なんでアタシの名前知ってんだ?」
「みんな知ってるよ。有名人だもん」
「……ま、そうだけどな」
 苗字が変わったせいで父の事件とアタシをすぐに結び付けられる人間は減った。しかし、人の口に戸は立てられない。おまけにアタシは前の高校を辞めて今の高校に移る間、学校に行っていないせいで一年留年している。ただでさえ珍しい編入生がダブリとなれば物珍しい視線を浴びせられても仕方がない。
「あたし、徳永由真」
「……榊原真奈。本名は佐伯だけどな」
 由真は不思議そうな顔をした。しかし、事情を訊いてこようとはしなかった。代わりに意外な質問をぶつけられた。
「あれ、何ていう技なの?」
「どれ?」
「あいつをやっつけた脚を高ーく上げるやつ」
「上段縦蹴り。ブラジリアン・ハイキックともいうんだけどな。グラウベ・フェイトーザって知ってるか?」
 答えの前に彼女の表情で知らないのが分かった。まあ、一時期ほどK-1にも出てないのでアタシもあまり見ていないが。
「すごいんだね。あたしにはとてもじゃないけどムリだな」
 ついさっき危険な目にあったとは思えない由真の無邪気な口調に、アタシは呆れるのを通り越して笑い出しそうになっていた。
「変わってるな、おまえ」
「……そうかなぁ?」
 それからどちらともなく「お腹すいたね」ということになった。
 由真がいい店を知っていると言うので、二人で今泉まで歩いて公園の向かいにある洒落たカフェに入った。こんな夜中に女子高生二人組なのを見咎められるかと思ったがアタシはもともと女子高生には見えないし、由真もメイクをしていたので何も言われなかった。
 アタシはコーヒー、由真はアップルタイザーを頼んだ。食べるものは由真が適当にオーダーした。
 何となく来てしまったものの何を話せばいいのか、アタシは困惑を隠せなかった。こんな感じで誰かと食事を共にするなど久しぶりだったからだ。
 興奮していたのもあっただろうが由真は本当によく笑った。
 夜の街で遊ぶようになってから、アタシは人が浮かべる笑顔とその裏側で浮かべている違う種類の笑顔について、とても敏感になっていた。
 由真はアタシの身に起きたこともアタシがどんなに荒れた生活を送っているのかも知っていた。特に隠しもしないし、興味本位で訊いてくる相手には却って気まずくなるほど詳しく話して聞かせたこともあるからだ。そしてそういう人間とは疎遠になるのが常だった。
 由真は妙な気遣いをするでもなくありがちな同情もしなかった。ただ、笑いかけてくれただけだ。そして、そんな笑顔を向けてくれる人間はアタシの周りにはいなかった。
 店を出てからアタシはタクシーが拾えるところまで由真を送った。別れ際に由真は静かな声で「助けてくれてありがと」と言った。アタシは何と返事していいか分からなくて、ただ「……うん」とだけ答えた。