「砕ける月」第3章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 翌日、由真は学校に現れなかった。 
 彼女が「アタマが痛い」だの「気分が悪い」だのと言って前触れもなく休むのはそんなに珍しいことじゃない。実際はどうだか知らないが学校では身体が弱いことで通っている。それに彼女は本来補習を受ける必要すらないのだから、来なくても何も問題はない。
 ただ、昨日の別れ際に由真は「明日、テストの前にもう一回おさらいするからね」と頼んでもいないのに一人で意気込んでいた。そして、意外に――というとむくれるが――由真は律義な人間で、その手の約束は滅多に破らない。どうしても都合が悪い時は必ず連絡してくる。
 ……何やってるんだかな。
 アタシは終わった小テストを裏返して、昨日と同じように澄んだ青空を眺めた。
 昨日はスタバで一服した後、延々とキャナルシティまで付き合わされた。見た目と違って堪忍袋の緒が長いアタシもさすがにぶち切れそうになったが、小テストの対策を伝授されるまでは我慢するしかなかった。
 というのも、アタシの様子はOG会の関係者(担任の井本もその一人だ)を通して逐一長崎へ報告されているのだ。叔父叔母にすれば厄介事さえ起こさなければそれでいいので、アタシの成績が悪かろうが授業態度が横着だろうが何も言われたりしない。アタシも彼らの顔色を伺う気などさらさらない。ただ、最近祖母の具合が良くないという話が伝わってきていて、無用な心配をかけない程度には普通を装っておく必要があった。
 勉強するにあたって由真はアタシの百道浜のマンションに来たがった。アタシはいつものようににべもなく断った。

 ――えー、なんでダメなの?

 初めて断られた訳でもないくせに由真はわざとらしく抗議の声を上げた。アタシは無視。理由を説明しろと毎回言われるが面倒を装って答えない。
 あのマンションはアタシにとって家じゃない。引き取りたくはないが捨てる訳にもいかない野良犬にあてがわれたただの檻だ。そんなところに誰を呼べるというのか。
 軽い押し問答の末、どこかの店に入ろうということになった。静かに話ができて長時間いられるところという条件を満たす店はあまりなく、アタシたちは天神IMSの上層階にあるカフェテラスのテーブルに陣取ることにした。”Terrassa”という微妙な造語の店名には由真と顔を見合わせて苦笑いした。
「――そうやって、いつも笑ってればいいのに」
 由真は少しだけ影のある微笑を浮かべた。
「悪かったな。仏頂面は生まれつきだ」
「そんなことない」
「あるよ」
「ない。絶対そんなことない」
 そう言われても何と答えようもなく、アタシはぶっきらぼうに「さっさとやるぞ」と言った。

 授業が終わると数学教師が恐る恐る声をかけてきた。
「あのぉ、榊原さん、徳永さんは……」
「知りません」
「仲、いいんでしょう?」
「それなりですけど。でも、彼女は補習に出なくてもいいんじゃないんですか?」
「そうなんですけど……」
 何ゆえに教師が生徒に敬語で媚びなきゃならないのか。聞いていて虫唾が走るがわざわざ文句を言うことでもない。アタシの雰囲気でこれ以上会話を続けない方がいいことくらいは分かるらしく、彼女はおどおどと何か呟きながら教室を出て行った。
 おかげ様で補習の延長は何とか免れそうだった。範囲は一緒だし、問題も数式や数値が微妙に変えてあるだけだったからだ。明日になったら解けなくなっているだろうがそんなことはどうでもよかった。
 それにしても由真だ。具合でも悪くなったんだろうか。
 だがこういうときに気になるからといって、迂闊に彼女の家に見舞いの電話をかけたりするのは危険だったりする。
 彼女と話すようになってすぐの頃、同じように休んだ彼女の家にお見舞いの意味で電話をかけたことがあった。ところが由真は学校に行っていることになっていて――ま、要するにサボリだ――彼女の母親に怪訝な応対をされたことがあるのだ。学校をサボることにかけては専門家であるアタシはとっさにその辺りのことを察して事なきを得たのだが、あとで由真から膝を突き合わせてこってり説教される羽目になった。大半は右から左に聞き流したが。
 とりあえず携帯電話を鳴らしてみたが、お決まりの〈――電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため――〉というメッセージを聞かされただけだった。
 さて、どうしたものか。

 一時間後、アタシは平尾浄水の由真の自宅の前にいた。
 百道浜から平尾浄水までは城南線を通ればすぐでバンディットの試運転には物足りなかったが、いきなり郊外に走りに行って壊れたら身動きが取れなくなる。馴染みのバイク屋の親父に電話してキャリアを寄越してもらえば済む話ではあるが、整備一つ満足にできないのかと叱られるのはできれば願い下げにしたい。その意味では妥当なテストランだった。
 中央区と南区の境にある平尾の丘陵地は古くから福岡の高級住宅地として知られている。平尾浄水はその頂上付近で目の前には福岡市動植物園がある。アタシが住む百道浜も高層マンションが立ち並ぶ福岡で指折りのお高いところだが、浄水通りを下れば街中まですぐのロケーションでありながら静かで緑豊かというのはちょっと羨ましい。
 由真の家は場所柄、敷地はそれほど広くないが煉瓦色の外壁と背の高い生垣に囲まれたモダンな洋館だった。
 斜面に建っているので道路に面したところは半地下のガレージになっていて、その脇を上がっていく階段の先に門扉がある。ガレージの上も部屋になっていて、その窓の一つのカーテンレールにウチの学校の制服らしき半袖のブラウスが架けられているのが見えた。由真の部屋なのだろう。アタシなら夜遊びに抜け出せと言われているのと同じだが、運動神経の存在を感じさせない由真に足場のない窓から下まで飛び降りるのは無理だ。まして、帰ってきてから部屋までよじ登ることなどできる筈もない。
 バンディットを停める場所を探して周囲を見渡した。ガレージの前には狭いエプロンがあるが車の出し入れがあったら邪魔になりそうだ。階段の前にはバイク一台くらいなら何とか停められるスペースがあったが、邪魔という点ではあまり変わらない。しかし、動植物園の駐輪場に停めて歩いて戻ってくる気にはならなかった。
 長居する気はなかったし、階段前にバンディットを停めさせてもらうことにした。
 由真が家にいるかどうかは確かめていなかった。あれから何度か携帯電話にかけてみたが繋がらなかったからだ。
 しかし、だから家を訪ねてみようと思うのはアタシにしては珍しいことだ。どうしてそんな気になったのかは自分でもよく分からない。理由があるとすれば夕べ、別れた後に由真から届いたメールのせいだ。

〈……今日は楽しかったよ〉

 たったそれだけ。件名すらなかった。
 由真がメールを送ってくること自体は珍しくも何ともない。本当に誰とでもやり取りしているし、アタシにもしょっちゅう送ってくる。アタシが滅多に返信しないのと長い文面だと面倒くさがって読まないことを知っているので、一方的な連絡メモのような内容のものばかりだが。
 だからこそ、昨日のようなわざわざメールする必要がないものは珍しいのだ。これでただ思わせぶりなだけだったら、それこそ落とし前をつけさせなくてはならない。
 門扉に続く階段を上り始めようとしたとき、横のガレージのシャッターが開く音がした。アタシは足をとめた。
 ガレージは車が三台横並びに停められる広さだった。大型の4WDを入れるには天井が低いが並んでいる車はどれもセダンタイプなので問題はない。階段から見て奥からシルバーのメルセデス・ベンツ、赤いフォルクスワーゲン・ゴルフ、ダークブルーのBMWのステーションワゴン。ドイツ車ばかりなのに意味があるのかどうかは分からない。
 ガレージの奥の方で扉が開く音がして、せわしない歩調で出てくる若い男の姿が見えた。
「……あれっ?」
 突っ立っているアタシに気付いて男はぎょっとしたように目を見開いた。しかし、それはすぐに柔和なものに変わった。
「由真の友だち?」
「はい。彼女いますか?」
 男は返事をせずにアタシの頭から足先まで視線を往復させた。遠慮はまったくなかったが不思議と不快な感じはしなかった。
 それはこの男が漂わせている雰囲気のせいだ。由真もどちらかといえば丸顔だが、それとは違ういかにもという感じの愛嬌のある丸い顔。二重瞼の大きな目は目尻が垂れているし、鼻は本物の団子鼻だ。短くて茶髪をワックスで逆立てているのでかろうじて子供っぽさが控えめになっているが、これでナチュラルな黒髪だったら文字通りのとっちゃん坊やだ。鍛えているらしい身体の線がくっきり出る半袖のサマーニットとスリムジーンズとでは首から上と下で別人に見える。
「あの……」
「えっ?」
 男は我に返ったように目を瞬かせた。それからやわらかく破顔一笑した。
「そうだったね。ごめん、由真は出かけてるんだ。約束してたの?」
「いえ、そういう訳じゃないんですけど」
「携帯電話にかけてみた?」
「みました。繋がりませんでしたけど」
「そっか……。僕もさっき帰ってきて、また出かけるところなんだ。由真とは……もう何日も会ってない」
「お兄さんですよね。彼女から話は聞いてます。お医者様なんでしょう?」
 由真の家族はみんな医者だ。西区にある総合病院の院長を務める父親は脳神経外科、医療法人の理事長で副院長の母親は循環器外科。兄はもともとは小児科医だったが今は救急外来(ER)のエースだという。兄は由真と歳が一回り違っていて、一昨年だかその前の年だかに大阪の大学病院から一族が経営する総合病院に戻ってきている。
 由真はブラコンの気があって兄の話になると少し落ち着きがなくなる。アタシがこの男の来歴を知っているのは、もちろん由真が聞かれもしないことを自慢げにまくし立てたからだ。
「……”様”をつけられるほどのことはないんだけどね。兄の祐輔です。君のことも由真から聞いてるよ、榊原真奈さん」
 徳永祐輔はごく自然に右手を差し出してきた。暑苦しい体育会系にはたまに誰彼構わず握手したがるやつがいるが、目の前の男がそうするとは思っていなかったのでアタシは面食らった。それでもぎこちない握手は交わした。
「しっかし由真のやつ、何やってんだろうな」
「そうですね」
 徳永祐輔はやれやれという感じで顔をしかめた。それでも人の良さそうなところは変わらない。
「家には誰もいないから伝言もできやしない。置き手紙でも残しとこうか?」
「いえ、そこまでしなくても――」
 たかだか今朝から連絡が取れないだけだ。約束をすっぽかされた理由は気になるがそこまでする必要はないだろう。
「後で会ったら君が訪ねてきたって伝えておくよ」
「よろしくお願いします」
 それ以上、何も言うことはなかった。祐輔がBMWに乗り込むのを横目に見ながらアタシはバンディットのエンジンをスタートさせた。