「砕ける月」第6章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
「――セイヤァ!!」
 丹田に意識を集中させて裂帛の気合を放つ。
 小刻みなステップの中から左の中段を叩き込むとサンドバッグがゆらゆらと踊る。続けざまに右の上段。蹴り足を戻すと同時にそのまま後ろ上段回し蹴り。
 大技の連続は見た目は派手だがバランスを取るのが難しいし、勢いだけでやると最後の一発まできちんと体重を乗せられない。言い方を変えればあまり実戦的じゃない連続技にもそのあたりの感覚を養う効果がある訳で、アタシは左右を入れ替えながらこのセットを繰り返す。
 今度は右中段、左上段、左後ろ回し。最後の一発の高さが少し足りない。くそ。
「ふう……」
 揺れるサンドバッグを手で押さえて大きく息を吐いた。
 補習授業も無事に終わり、アタシにもようやく夏休みらしい日常が訪れていた。
 本当はせっかくなので夜更かしして昼まで眠る生活を満喫するつもりだった。バイトは基本的に夜のシフトだし、自堕落な日常を送っていても誰からも叱られたりしない。盆の親戚の寄り合いは一番上の叔父から先手を打って「帰ってこなくていい」と御達示があった。帰ってこいと言われても行かないが。
 ところが自堕落生活は僅か一日で終わった。代わりにアタシは毎日朝から南区の大橋くんだりまで道場通いをしている。
 理由は”家で悶々と考え事をするのが嫌だから”という単純なものだ。
 
 早いもので由真に手ひどくシカトされた日から一週間が過ぎていた。
 他人から背を向けられることには慣れているつもりだった。父が事件を起こした時に散々な目に遭わされているからだ。奴が何が気に入らないのかは引っ掛かるが、最初から友だちじゃなかったんだと思えば済むことだ――アタシが知っているアタシはそう思う筈だった。
 しかし、そのときの行動は自分でも意外なものだった。アタシはまるで逃げ出すように学校を後にしていたのだ。

(アタシが何か悪いことしたってのかよ?)

 逆にそう問い詰めてもいい筈だった。今、思い返してもアタシが非難される要素なんか一つもないからだ。あんなところで彼氏とヨロシクやっていたのは由真の方であって、アタシは偶然にその場に居合わせたにすぎない。
 なのに、アタシは未だに何もアクションを起こせていなかった。慣れないメールを打とうとしても文面が思い浮かばないし、直接言ってやろうとしても最後の通話ボタンが押せないままだ。終いには手紙を書こうとレターセットを用意する始末だったが、アタシは自分でも嫌になるほど字が下手なのであっという間に嫌気が差してやめた。
 なんでこんな思いをしなきゃならないのか。だったらあの時、アタシはどうすれば良かったというのか。
 考えれば考えるほど迷路にハマっていく。こっちが由真に対して腹を立ててもいいくらいなのに、それもできないでいるのが現実だ。そんなに由真に嫌われたくないのか。
 ふん、アタシもいつの間にかヤワになったもんだ。

 呼吸を整えてから立つ位置を変えた。
 サンドバッグを吊っている金具は天井のレールに架けてあって、レールの方向に沿って蹴ればバッグが移動するようになっている。レールの端から端まで約六メートル。最初は二〇発近くかかっていたが最近は何とか一〇発でいけるようになった。目指すは六発だがまだそこには至っていない。
「フンッ!」
 今度は一発一発しっかり力を込めて蹴っていく。その度にドスンという重い音が道場に響く。バッグが動くと金具がギシッという音を立てる。
「ずいぶん荒れとるの」
 背後から声をかけられた。振り返るとジジイが道着姿で立っていた。
「……誰が?」
「おまえ以外の誰がおる。頼むからサンドバッグを壊さんでくれ」
「そこまでボロくないでしょ」
 吊り金具に錆が浮いてるのが気にならなくはないが、さすがにアタシの蹴りで千切れることはないだろう。とはいえ、半年前に一つバッグを破った前科があるので大きなことは言えない。元々傷んでいたのがたまたまアタシのときに限界を迎えただけなのだが、あのときは道場中から化け物を見るような視線を浴びる羽目になった。
「何か用?」
 ジジイは腕組みをしたまま、ため息をついた。
「用というほどのこともないが。学校で何かあったのか?」
 アタシは思わずジジイの顔をまじまじと見返した。
「何かって?」
「質問しとるのはわしだぞ」
「……別に何もないけど。つーか、何で学校でって言い切れるの?」
「他に誰かと揉めるようなところに出入りしとらんだろ」
「ひとを引きこもりみたいに言わないで。ホントに何もないから」
「ならいいが。――そうそう、今度の能古島合宿のことだが、おまえだけ申込用紙が出とらんぞ」
「へっ?」
 そういえば書いて出せと言われた紙を出してない。
 ジジイが主宰するこの道場では毎年夏休みに能古島で二泊三日の合宿をやっている。まあ、合宿とは名ばかりのサマーキャンプで、午前中は向こうの施設を借りて稽古をするが午後にはみんなで海に繰り出す。去年、半ば無理矢理参加させられたときはそうだった。なかなか揃わうことのない門下生同士の親睦を深めるというのが本当のところらしい。
 何が悲しくて顔馴染みでもない連中と博多湾のど真ん中で二泊しなきゃならんのだ、という思いはしなくもない。特に夜の部の連中はむさくるしい男ばかりで、こいつらが海でアタシの胸の辺りをジロジロと見まくるのだ。
 見られたって減るもんじゃないが、というか少しくらい減ってくれてもいいのだが、野郎どもの夜のおかずにされるのは御免だ。
「ねえ、パスしちゃダメ?」
 ちょいと小首を傾げてみる。ジジイは盛大に鼻を鳴らした。
「こういうときだけ可愛いふりをするな」
 ……ふりって何だ、ふりって。
「おまえは強制参加だと何度言わせる」
「どうしてアタシだけ?」
「おまえが行かんと誰があの子らに稽古をつけるんだ」
「ま、そうだけど」
 ジジイの視線の先には少年の部に属する中学生の女子たちがいる。
 何が楽しくてこんなボロっちい町道場に来るのかよく分からないが、門下生には意外とこの年代の子がいる。しかも女子の割合が結構多かったりする。ジジイに言わせると「道場主が人格者だから」だそうだが、アタシに言わせると人格者は弟子の水着姿を眺めるために仕事をさぼってプールに来たりしない。いつも偶然のような顔をしているが三度あったらそれは必然だ。このエロジジイが。
「とにかく、申込用紙はわしが書いとくぞ」
「へいへい」
 くるりと踵を返したジジイに向かって思いっきり中指をおっ立ててやった。こっちを見ていた女の子たちがそれを見て一斉にくすくすと笑いだす。
「――真奈?」
「何?」
 ジジイが振り返った時にはアタシはすでに素知らぬ顔だ。おおよそ何事かは想像がついているのだろうが、ジジイはじろりとねめつけるだけで何も言わない。
「……真奈、一息ついたらあの子らの相手をしてやってくれ」
「はーい」

 それから小一時間ほど中学生の女の子の相手をして過ごした。
 もちろん本気なんか出さない。というよりも出せない。自惚れるつもりはさらさらないが、アタシが本気を出したりしたら彼女たちは楽しい夏休みの残りを病院のベッドで過ごすことになってしまうからだ。それもまた青春の一ページといえばまあそうだが、アタシとしてもそんな形で他人の思い出になんか残りたくない。
 とはいえアタシの指導は結構厳しい。
「ほらッ、踏み込みが甘いってんだろーが! そんなんだから蹴った時に身体が泳ぐんだよッ!」
「なんだ今の突きのぺちって音は! 撫でてんじゃねえぞ!」
「てめえらそこ、何くっちゃべってんだ! ぶちのめすぞコラ!」
 てな具合だ。好かれようとか仲良くしようとかいう気がないので言葉遣いは荒いし、割と平気で足を蹴ったり小突き回したりもする。もしそれで門下生が減ったとしても悪いのはアタシに指導をさせたジジイなので心も痛まない。
 だいたい、アタシに空手を教えてくれた人――父親の指導はこんな生易しいものじゃなかった。幼心に何度「アタシは拾われた子なんだ」と思ったことか。
 にもかかわらず。
「押忍! 真奈さん、ありがとうございました!」
「ありがとうございました!!」
「……おう、お疲れ」
 稽古が終わると女の子たちはキラキラした笑顔であいさつして道場を出て行った。アタシはいつもどんな顔でそれで応じていいか分からなくて、口の中でもごもごと答えるだけだ。
「ずいぶん慕われてるねぇ」
 からかうように声をかけてきたのは少年男子を教えている工藤ジュニア――要するにジジイの息子だ。
 この道場を主宰しているのはジジイだが、ジジイは整骨院に詰めていることの方が多いので責任者は息子が務めている。なので、この人には館長という肩書がついている。
 思わず三白眼で「あ?」と言い返しそうになったが、これでも年長者に対する言葉遣いくらいわきまえている。
「何がですか?」
「いや、何て言うのかな。女子高の空手部みたいだなって思って。カッコよくて強い先輩ってモテるんだよ。バレンタインデーには靴箱にチョコレートが入ってたりしてさ」
「へぇ……」
 館長は何処かの高校で空手を教えていたという経歴の持ち主で、いかにも教育者っぽい無駄な爽やかさを漂わせている。悪い人間でないのは知っているが、最初に入った高校の教師を思い出させるのでアタシは距離を置いている。
 それはともかく、その手の女子高ノリには心当たりがなくもない。何を隠そう、今年のバレンタインデーにアタシの靴箱で同じことが起こっていたからだ。しかも〈いつも遠くから見てます〉という書き出しの鳥肌が立つような手紙までついていた。
 生まれて初めてのことにアタシは柄にもなく狼狽した。
 だが、誰にも相談のしようがなかった。一瞬、由真に話そうかと思ったが、寸でのところで思い止まった。自分を徹底的に冷やかすネタを提供するほどアタシは物好きじゃない。普通の相手ならちょっとばかり不機嫌を装って睨みつけてやれば済むが、困ったことに由真はアタシのそういう態度をものともしない。
 結局、チョコレートは出所を伏せて由真の胃袋に送り込んだ。アタシは甘いものが苦手でチョコレートはかなりビターじゃないと食べられないのだ。「間違えて買ったからやるよ」というやや不自然な言い訳に由真は怪訝そうな顔をしたが、やつはアタシと逆に甘いものが大好きなのであっという間に平らげた。
 懸命に思いの丈を綴った手紙を捨てるのは忍びない気もした。だが、持っている訳にはいかないので我慢して三回読んでからシュレッダーにかけた。どうでもいいがとてもキレイな字だったのにはびっくりした。しばらくの間、アタシは誰かの肉筆を見ると手紙の痕跡を捜して凝視してしまう奇妙な癖に悩まされた。
 結局、その後のアプローチがなかったので、手紙の主が誰だったのかは分からないままだ。
 よく誤解されるのだが、アタシは天地神明に誓ってそっち方面の趣味はない。しかし、ひょっとしたら――かなりの誤解、または勝手な思い込みであるにしても――アタシという人間に好意を抱いてくれる人間がいたのかと思うと、せめて誰だったかくらい知りたかった。
 そう思っても罰は当たらない筈だ。