「砕ける月」第9章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 夕方の香椎商店街はアタシが住んでいた頃と同じように気忙しかった。
 生活感あふれるこの辺りが買い物客で賑わうのはこの時間からだ。〈クッキングパパ〉に出てくる商店街のモデルでもあるらしいが、香椎駅前の商店街は路地ごとに別の名前がついていて、どれがモデルに当たるのかはいまいちよく分からない。
 東区は市内にあるベッドタウンという感じの地域だ。香椎はその中心にあたる。県庁や県警本部といった公共機関が多いせいか公営住宅が多く、国道三号線沿いにはマンションと公営住宅とアパートと公営住宅と郊外型の大型店舗と公営住宅と工事現場しかない――まあ、それは言い過ぎかもしれないが。
 アタシが住んでいたのは香椎宮の参道沿いにある警察官舎だった。その前は県警近くの普通の賃貸だったのだが、母親の死後に引っ越したのだ。かなり築年数が経っている建物でいろいろ不便も多かったが、周囲も警察官の一家ばかりということで一人娘に留守番をさせるには安心だと父は考えたらしい。
 確かに近所の人たちはアタシに優しくしてくれた。あの事件で一斉に背を向けるまでは。
 考えてみると香椎に来るのは久しぶりだった。意識的に避けていたつもりはなくて単に来る用事がなかっただけだ。しかし、こうやって来てみると懐かしさと同時に胸のどこかに違和感を感じるのも事実だ。

(……ふん、なに感傷的になってんだか)

 駅の自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら、MOが入っていた封筒の会社名を確かめた。菜穂子にやり方を訊いて確かめたところによるとメール便の受付は松島にある福岡東営業所、日付は二日前。
 住所は三号線沿いに建ち並ぶ雑居ビルの一つだった。駅前から表通りに出たところで香椎のど真ん中と言っていい。周囲をぐるっと回ってみたが適当な場所が見当たらなかったので、バンディットはJRの駐輪場に停めてある。こういうとき車体が大きな四〇〇CCは原付のように適当なところに突っ込めなくて不便だ。
 携帯電話を非通知発信にして印刷してある番号を押した。電話に出たのはちょっと気忙しそうな口調の女性だった。
『――はい、タカハシ・トレーディングでございます』
「あ、スミマセン。間違いました」
 返事を待たずに通話を切った。休みではないということだ。
 あれからずいぶん悩んだが、アタシはどうしても由真に電話ができなかった。となると、事情を問い質せる相手はあのサモ・ハン・キン・ポーしかいない。あの男がタカハシ・トレーディングと関わりがあると決まった訳じゃないが――高橋なんてそんなに珍しい苗字じゃない――他にあてがある訳でもなかった。
 問題はどうやってコンタクトをとるかだった。下の名前を知っていればさっきの電話で呼び出す手もあったが「お宅の猿飛肉丸みたいな高橋さんお願いします」とはいくら厚かましいアタシでもちょっと言えない。ではどうするか。
 他には直接訪ねてみるしか方法を思いつかなかった。
 雑居ビルは各フロアに二つずつ、階段を挟んで向かい合わせにテナントが入る形になっていた。
 一階はベーカリーと雑貨屋、二階は二部屋とも学習塾で一つがアタシが生まれる前からある地元の学習塾、もう一つは個別指導を売り物にしている全国区の塾だ。家族住まいが多いせいだろうが香椎は塾が多いことでも知られている。引っ越してきてすぐにアタシも通わされそうになったが、その頃はそんなに成績が悪くなかったので何とか回避できた。今なら有無を言わさず通わされるだろう。目当てのタカハシ・トレーディングは三階。同じフロアには司法書士事務所が入っている。四階は二つとも空き部屋だった。
 階段の上からタカハシのドアを見張ることにしてエレベータで四階に上がった。
 無人なのをいいことに、タカハシ・トレーディングの前にはかび臭い大小の段ボールが廊下から階段まで堆く積まれていた。輸入物らしくどの段ボールにも”MADE IN CHINA”や”有限公司”と印刷してある。チョークで意味の分からない走り書きがしてあるものもあった。封を切られた箱があったので中を覗いてみたら健康食品だった。降脂とか減肥とか書いてあるので多分ダイエット関係だろう。
 とりあえず、しばらく様子を見てみるしかない。普通の会社なら仕事終わりで出てきてもおかしくなかった。出入りするところで捕まえられればベストだ。

 監視を始めてから三十分ほどが過ぎた。
 あまりにも退屈で、途中からアタシは物音にだけ気をつけて段ボールから引っ張り出した健康食品の効能のところを読んでいた。
 見張っている間、タカハシ・トレーディングに人の出入りはなかった。
 一方、向かいの司法書士事務所からはスーツ姿の風采の上がらない中年男と事務員らしきちょっと派手めな顔立ちの女が連れ立って出てきて仲睦まじそうに寄り添って階段を下りていった。どちらも指輪をしてないので夫婦じゃないが、親子というほど歳は離れていない。だが、雇い主と従業員の雰囲気にも見えなかった。大人の世界を垣間見たような気がしてちょっとだけドキドキした。
 この三十分の成果といえばそれだけだった。アタシは自分が何をやっているのか分からなくなり始めていた。
 何の目算もなく何かを待っているというのは予想以上にキツかった。ビル全体に西日が当たっているように暑くて、じっとしていても背中や額に汗がにじんでくる。風も入ってこないので空気が澱んで余計に気が滅入ってきた。もう少しだけ待ってみて動きがなければ帰ろうかすら思った。
 ふと、父親のことが脳裏をよぎった。
 アタシの父親は薬物対策課という内偵調査が捜査の大部分を占める部署にいたのでしょっちゅう聞き込みや張り込みをしていた。滅多に家で仕事の話などしない人だったが、酔ってたまにする時は大抵張り込みの苦労話だった。だからだろう。
 思い出したくもないことなのだが。

 誰に聞いたのか忘れてしまったが、警察の捜査関係の部署というところは何でも出来る人よりもむしろ一芸に秀でた専門家が多いものらしい。取調べで被疑者を落とす名人だとか、鑑識で普通の人が見落とすような物証を見つける達人だとか、そういうのがいっぱいいるのだそうだ。
 そんな中で父は張り込みの名人と言われていた。どんな小さな兆候も見逃さずマークした相手は尻尾を出すまで絶対に逃がさない。
 ある時、中国ルートの拳銃密輸の捜査で証拠が掴めずに誰もが苛立ちに包まれる中、父が幹部の反対を押し切ってマークしていたところに密輸品が持ち込まれて大金星をあげたことがあった。本部長表彰を受けてお祝いで食事に連れて行ってもらったのでよく覚えている。
 出世とは無縁の人で警部補になったのだって同期の中では遅いほうだった。けれど、アタシにとっては自慢の父親だった。刑事の仕事に誇りを持っていることは子供心にも伝わっていて、アタシは一人で家に取り残されていてもそれを寂しいと思ったことは一度もなかった。
 だからこそ、父の事件はアタシを打ちのめした。
 せめて父が裁判の場で何か自分の正当性を――たとえ認められなかったとしても――主張してくれればアタシはそれに縋ることが出来たかもしれない。アタシの父親は結果として人を死なせてしまったけれど、決して刑事の誇りを捨てていた訳じゃないんだと。人を死なせるために暴力を振るった殺人者ではないんだと。
 だが、父は法廷はおろか、拘置所に面会に行った時でさえ何も言ってくれなかった。ただ「迷惑をかけてすまない」と謝るばかりだった。

 カチャリというドアが開く音でアタシは我に返った。慌ててポケットから手鏡を取り出して階段の手すりから覗かせた。
 出てきたのは四〇代後半くらいのふくよかな中年女だった。紫色に染めた髪をアップにまとめていて、ワンピースの豹柄が本物の豹より似合っている。女は室内に向かって「早くしなさいよ!」と怒鳴った。声の忙しない感じは電話に出た女と同じに聞こえた。
 しばらくして、頭頂部の寂しい痩せた中年男が何やら大きなバッグを抱えて出てきた。こちらは女と違って終始のんびりした雰囲気を漂わせていて、女はその様子に余計にイライラを募らせている。不釣り合いなのは間違いないが二人がお向かいさんと違って夫婦なのも間違いなかった。男が入口の辺りで何かすると室内の蛍光灯が消えた。
 ……ハズレだったか。
 封筒がここのものであるのは確かだ。苗字も同じ。関係がないことはないだろう。だとすれば息子が親の会社の封筒を勝手にせしめて使った可能性が高いことになる。あり得ないことではなかった。
 問題はそうであるなら、アタシは今からこの夫婦の住まいを突き止めなくてはならないということだった。バンディットは駅前にあるというのに。
 メール便のことを訊いた時にタカハシ・トレーディングについて調べる方法がないかについても訊いてあった。株式会社か有限会社なら商業登記がしてあるから法務局に行けば調べられる、というのが菜穂子の回答だった。
 時計を見るまでもなくお役所は閉まっている時間だった。面倒くさくて張り込みを先にしてしまったことを後悔した。
 その時、会社の中からドタドタという音とともに若い男が出てきた。その膨れっ面と締まりのない体格を見たとき、アタシは思わず「……ビンゴ」と呟いていた。
 高橋家の面々は会社の戸締りをすると揃ってエレベータに乗り込んだ。
 エレベータのドアが閉まるのと同時にダッシュで一階まで降りた。二階の踊り場で郵便受けの前を通る一家を目で追った。ビルの裏通りにある駐車場に向かっているようだ。
 傍目から見る限りでは高橋家はごく普通の三人家族のようだった。のんびりした父親と気忙しい母親、頼りない感じだが優しそうな息子。喋っているのはほとんど母親だった。父親はそれに「ああ」とか「いいよ」とかいう感じで口数少なく答えている。どっちかといえば息子は父親に似ていて、夫婦の後を黙って着いていっている。
 アタシは距離を置きながら一家の後をつけた。住所は明日法務局で調べるとしても、せめてクルマの車種とナンバーだけでも控えておきたかった。
 一家は月極の駐車場に入ると並んで停まっている二台に分かれて乗り込んだ。先に動き出したのは夫婦のトヨタのセダンで、息子の乗った白いシビック・タイプRは停まったままだ。
 セダンが走り去るのを確認してから、アタシは息子の車に駆け寄った。途中で拳くらいの大きさの石ころがあったので拾って手の中に収めた。
 運転席の高橋はバケットシートに太った身体を押し込んで携帯電話でメールを打っていた。丸い顔立ちにそぐわない細めのサングラスをかけている。ハッキリ言って似合ってない。昨日のウェリントンよりはマシだが、そもそもメガネの類が似合わない顔立ちなのだ。
 アタシは運転席側の窓をノックして車内を覗き込んだ。高橋はアタシを見ても誰か分からずに怪訝そうな顔をしていた。アタシはこの男をじっくり眺めていたが彼がアタシを見たのはほんのちょっとのことだし、それも夜の暗い公園での話だ。
「……あっ」
 しばらくしてようやく記憶と繋がったのか、高橋は目を見開いた。
 もしここで高橋がクルマを急発進させようとするなら、アタシは遠慮なく手の中の石でフロントガラスを叩き割るつもりだった。事実、彼の手はシフトレバーに伸びた。
 しかし、そこまでだった。高橋は諦めたように手を離して窓を下ろした。
「――何の用だい?」
 押し殺しているにも関わらず、高橋の声は仏頂面には似合わない甲高さだった。テレビで初めてデイヴィッド・ベッカムのインタヴューを見たときもドナルド・ダックのような声に思わず笑ってしまったがそれと同格の意外さだった。顔は比べるべくもないが。
「話がしたいんだけどな」
「話?」
「そう。降りてきてくれてもいいし、アタシを乗せてくれても構わない。助手席が由真専用なら遠慮するけどな」
 高橋はジロリとアタシを睨んでから芝居がかったため息をついてみせた。手元のドアロックを操作すると運転席と助手席のロックが同時に外れた。アタシはシビックの助手席に乗り込んだ。

 高橋は志賀島に向かってシビックを走らせた。
 レース用のセッティングがしてあるシビックはサスペンションが硬く、乗り心地はお世辞にも良いとは言えなかった。助手席は普通のシートベルトだったが運転席は”SABERT”というロゴの入った赤い四点式のものだ。ロールケージも本物が入っている。
 クルマのドアに埋め込まれたスピーカーからは小さな音量でカニエ・ウェストの〈スルー・ザ・ワイヤー〉が流れていた。グローブボックスに無造作に突っ込まれたCDはラップ・ミュージックばかりで、想像していたようなローティーン・アイドルのものは見当たらなかった。この手の男とその手のジャンルを結びつけるのはやはり偏見なのだろう。
「名前から訊いていいか?」
 たっぷり三〇秒ほど沈黙してから高橋は口を開いた。
「――高橋。高橋拓哉」
 高橋はアタシの方を見ようともしなかった。女扱いされないのは今に始まった話じゃないが、高橋の場合は本当に興味がないという素振りだった。
「アタシは真奈。榊原真奈」
「知ってるよ。由真ちゃんから君の話は何度も聞かされてる」
「……へえ、そう。由真と付き合ってるんだってな」
「ずいぶんプライベートなことだけど、答えなきゃいけないかな?」
「そんな義務はないな」
 高橋の口許に微かに笑みが浮かんだ。
「そうだ、と言えたらいいんだろうけどね。――可愛いし、頭はいいし、優しいし」
 ワガママで一度言い出したらきかないし、思いつきで突拍子もないことを言い出すし、キライな相手にはとことん冷酷だし、と心の中で付け加えた。
「違うのか?」
「まぁ、好意的に言ってもオトモダチだろうね。彼女、僕がバイトしてたショップのお客さんだったんだ」
「ショップ?」
「コンピュータ関係のね」
「ふうん……。けど、由真はおまえのこと彼氏だって言ってたぜ?」
「……だったら、最初の質問は何なんだよ?」
「おまえはどう思ってるのかってことさ。バイトしてたって今は違うのか?」
「今は親父の仕事を手伝ってるからね。ウチの事務所に来たならあの段ボールの山を見ただろ」
「ああ。すげえ量だな」
「ウチの親父は元商社マンでね。ま、いろいろあって会社を辞めたんだけど、再就職しないで個人輸入代行の会社を作ってさ。一昨年くらいからは健康食品の輸入を始めたんだけど、自分で売った方が儲かるんでネットショップを立ち上げることになって、僕がそれをやることになったって訳さ。家内制手工業だからやり始めると忙しいんだよね。親父は買い付けでしょっちゅう海外に行ってるし、おふくろ一人じゃムリだから梱包から発送まで僕がやんなきゃいけないし」
 アタシは適当に相槌を打ちながら「へぇ」と気のない返事を繰り返した。
 無口な印象に反して呼び水が向くとよく喋る男のようだった。どうでもいいが自分を”僕”と呼ぶ九州男児にはあまりお目にかからないので、何となく背筋がむず痒くなってきた。
 アタシは核心に迫ることにした。シートに座るのにジャマだったので腹の方に回していたシザーバッグからMOディスクを送ってきた封筒を取り出した。MOそのものは持ち歩いていて破損させるのが嫌なので置いてきた。
「コレを送ってきたのはおまえだろ?」
 高橋はアタシがかざした封筒にチラリと視線を投げた。沈黙が返事のようなものだった。
「由真の名前を騙るのに、会社の封筒使っちゃバレバレだろうに」
「……騙ったつもりはないよ。由真ちゃんから頼まれたんだ。君に送っといて欲しいってね」
「由真が?」
「あのMOは彼女のもので僕が預かっていたんだ。彼女の名前で出したのは、君が僕のことを知らないからさ。差出人不明で出してもよかったんだけど、由真ちゃんからダイレクト・メールは読まずにゴミ箱行きだって聞いてたからね」
「さすがは由真だな。アタシの習性をよく知ってる」
 高橋は小さく鼻で笑ってから話を続けた。
「MOを入れる適当な封筒がなかったんだ。それで会社のを使ったんだけど。――まさか、まっすぐウチを訪ねて来るとは思わなかったよ。中身は見たの?」
「まだだよ」
 高橋は怪訝そうな視線を向けてきた。おい、よそ見運転すんな。
「一般家庭にあるパソコンにMO用のドライブなんて付いてねえんだよ」
 得心がいったようで高橋は小声で「なるほど」と言った。
「中身が何なのか、教えてくれると手間が省けるんだけどな」
「由真ちゃんから聞いてないの?」
「残念ながら」
「だったら、僕の口からは言えないな。と言ってもファイルにプロテクトはかかってないから、見たければ見ればいいさ。ドライブが必要なら貸してあげてもいいよ」
「考えとく」
 MOを見る方法についてはあてがないこともなかった。アタシが通う高校の地学教師が大のコンピュータ・マニアで、アタシはある事情でこの男の弱みを握っているのだ。言えば準備させるくらい造作もない。問題は夏休み期間中の教師の出勤ローテーションが分からないことだが、教務課で訊けば何とかなるだろう。
 クルマはいつのまにか和白通りから海の中道に入っていた。しばらく走ると雁ノ巣のレクリエーションセンターが見えてくる。アビスパ福岡のクラブハウスやソフトバンク・ホークスの二軍グラウンドなどがある辺りから急速に民家がなくなって、辺りはうっそうとした森に囲まれ始める。もともとこの辺りは玄界灘に面しているので防風林だらけなのだ。
 普通は面識もない若い男にこんなところに連れてこられたら身の危険を感じるべきなのだろう。
 だが、シビックの車内にそんな気配は微塵もなかった。こいつがアタシに興味がないというのは置いておくとして、不思議と高橋にはそういう卑怯な振る舞いをしなさそうな雰囲気があった。もちろん、こっちが勝手にそういう印象を抱いているだけで性根は分かったものではないが、そんな男なら由真が付き合っている筈もない。あれで結構曲がったことは嫌いな性格なのだ。
 そんな高橋と話して分かったことといえばディスクが由真のものであること。アタシにディスクを送りつけたのは由真の意思によること。アタシに中を見る手段を確保できるかどうかは別にしても中身を隠すつもりはなかったこと。そして由真にとって高橋はそういうことを頼める仲であるということだった。
 由真がアタシにMOを送った理由は高橋も知らないと言った。
「ところで何処まで行く気だ。志賀島か?」
「僕はどうでもいいけど。行きたい?」
「……別に。適当なところでUターンしろよ。あんまり奥まで行くと海水浴帰りの渋滞に巻き込まれるぞ」
「そうだね」
 玄界灘に向かって突き出しているブーツのような形の海の中道の先端、ちょうど蹴られたボールの位置にあるのが志賀島だ。島と行っても事実上陸続きで歩いて渡れるし、そうでなくても橋が架かっているので島という感じはしない。世間的には”漢委奴国王”の金印が出たところとして有名だ。アタシも志賀島国民休暇村でレプリカを見たことがある。
 志賀島や海の中道は福岡市民が手軽に遊びに行ける海というより遠隔地から来る人間が多く、今の時期は海水浴客が多い。現に今も反対車線の流れはいいとは言えない状態だ。人工島を経由する橋が開通してからはアタシたちが通ってきた三苫経由の道はあまり混まなくなっているが、その分岐点まではやっぱり混む。
 シビックはホテル海ノ中道の敷地に入った。最近、名前が変わったとのことだが興味がないので今の名前は知らない。ここや海の中道海浜公園は夏になるとライブフェスタや野外コンサートが開催されるところで、会場周辺は道路沿いまで音が聴こえてくるので辺りは違法駐車で一杯になる。
 いつだったか、菜穂子の夫に連れられて遊びに来たとき、路上駐車の列の後ろにパトカーが停まる現場に出くわしたことがある。

(取り締まりかな?)
(……かもな。まあ、仕方ないだろう)

 ところが降りてきた警官は何事もなかったように音楽を聴き始めた。連れは渋い顔をしていたがアタシは「……さすがは福岡県警」と思ったものだ。福岡がかつて”日本のリヴァプール”と呼ばれたほどの数多くのミュージシャンを輩出した街だそうだが、音楽に理解があることとそれが関係があるかどうかまでは分からない。
 シビックはロータリーをくるっと一周して市内に戻る方に針路を取った。一応、目的は果たしたので帰ることに異存はなかった。バイトは休みなので急ぐ必要はなかったが、夜の部でやっている少年クラスの師範が食当たりで倒れたので手が空いてるなら来て欲しい、とジジイからメールが入っている。身体を動かしてリフレッシュした上に晩御飯まで御馳走になれるチャンスを逃す手はない。
 高橋はCDをエミネムに変えた。ラップ・ミュージックにはあまり興味がないのでヒット・ナンバーでもない限り曲名まで分からない。高橋はリズムに合わせて微妙に体を揺らしていた。それ以上何も話題がないので、帰りの車中は破局寸前のカップルのデートのように沈黙に満ちていた。
 最初の駐車場でいいと言ったが、高橋はバンディットを停めた駅前までアタシを送ってくれた。
「連絡先を聞いといてもいいか?」
「構わないよ。ちょっと待って」
 高橋は自分の携帯電話を操作した。するとアタシのケイタイが短く鳴った。
「履歴をメモリに入れておいて」
「どうしてアタシの番号を――あ、由真が教えたのか?」
「いや。人のケイタイの番号を調べるのなんて、そんな難しいことじゃないんだよ。そういうの得意なんだ。時間をくれれば君のスリー・サイズだって調べられるかもね」
「……探偵にでもなったらどうだ?」
「考えとく。じゃあね」
 シビックは短いクラクションと一際大きなエグゾーストノートを残してその場を走り去った。