ちょっと長いうえに暗い内容があります・・・(ごめんなさい)。自分の気持ちを振り返り、整理をするのに少しお話させてください。

 

 昨年末、義父が69年の生涯を閉じました。少しだけ思い出をまとめさせてください。


 義父とは僕が研修医1年目の時に出会いました。初期研修の初めに僕が選択したのは心臓血管外科・呼吸器・乳腺外科、中でも呼吸器外科でした。医師としての自覚も技術もまだまだ足りない中、悪戦苦闘をしている毎日のなか初めての右肺全摘除術の担当としてお会いしたのが始まりでした。気管支鏡検査の入院のときから、不安な気持ちもあったと思うのにそんなことおくびにもださず、いつも笑顔で僕に缶コーヒーとお菓子をこっそりくれていました。(もう時効ですよね)術後も部屋に行くたびにしんどいはずなのに、いろんなお話をしてくれて、いつも緊張しきっていた僕の心を落ち着けてくれていました。少し変わった病型で発表もさせていただきました。退院後はなかなかお会いすることもなくなっていましたが、外来通院時にお見かけするといつも笑顔で手を振ってくれていました。
 数年が過ぎて、当直のバイトに行った病院で娘さんにお会いしました。お父さんのお話で盛り上がり、ちょこちょこバイトに行きお話をするうちに仲も良くなり、最終的に僕の妻になってくれました。はじめてご挨拶に行ったとき、少し驚きながらもにこにこと迎えてくれて、「もう帰るの?泊っていけばいいやんか」と言ってくれたことは今でも忘れていません。
 結婚し、ちょこちょこお会いする時も時々、傷口を見せてくれては、「ここまでは何ともないんやけどなぁ、ここからがかゆいんよ」とおそらく僕が少し縫わせてもらったであろうところを見せては笑いながらからかってくれました。今ではもうそんな傷のこしませんよ。
 何度か旅行にも行き、入院もされ、ほんとにあっという間の10年近くが過ぎました。義父は残った左の肺の上部にアスペルギルスを患い、少しずつ呼吸状態も悪くなりながらも何とかHOTで自宅で生活をしていました。
 発熱の後に呼吸苦と意識障害が出現し、救急車で以前に僕が働いていたこともある、かかりつけの大きな病院に運ばれたのが年末のある日でした。CT上も残った下肺野まで炎症の影が出てきており、ナルコーシスにもなっていて挿管しか方法はない印象でしたが、ERで義父はあまり望まれなかったとのことでNPPVでの対症療法となっていました。それでも、可能性があるのであればと、先生に気管切開になっても自宅で見ていくからと話したのちに、家族で相談していた矢先・・・。呼吸器のアラームが鳴りました。何が起こったかわかりませんでしたが、呼吸器が作動していないことだけは確かな状況でした。ただみているだけではどうしようもなく、すぐにナースコールをしましたがなかなか来ていただけず・・・。Drも来ないため僕が枕元に入り換気をしようと物品を頼むとなぜか酸素流量計が部屋にない・・・。でも、補助換気をしようとした時点では確かに自発呼吸も、反応も発語もありました。なのに・・・。徐々にHRが低下し、最終的にはPEAとなりました。後から思えば、100%酸素を呼吸器で使用しなければSpO2を90%保てないのに、それが止まればどうなるか・・・。必要なのは圧ではなく酸素なのに・・・。なんであのときすぐに気付けなかったのか。なんで他院だからって遠慮してしまったのか・・・。本当に自責の念に駆られてなりません。義父にはもちろん、妻にも悲しい場面を目の当たりにさせてしまった。仮にも集中治療を志しているのに僕は・・・。僕はこの日を二度と忘れません。だれにも同じ思いは二度とさせたくありません。
 でも、いつまでも下を向いていては、生前から優しくにこにこしていた義父が心配してしまうので、少しずつまた前に向かっていけるように考えていきたいと思います。いまはただ、傷ついた家族の傷を少しでもいやせるように。僕はただ、義父のように笑っていられるように頑張ろうと思いっます。
 おとうさん、本当にありがとうございました。まずはゆっくりと休んで、そのあとまた見守ってください。


 最後まで読んでくださってありがとうございました。家族一同少しずつ前にむかっていきますので今後ともよろしくお願い致します。