一晩経っても興奮がおさまらない

去年の夏の映画で

何度も観てるのに

なんでこんなに興奮するのだろう?

 

そう思う朝です

おはようございます

 

やはりあの映画の中での二人は

連ドラからの流れをちゃんと引きずって

「春田と牧のその先」を生きてくれたから

それだけで満たされていくものがあるんだと

実感しています

 

「お芝居をしている」

という意識は常に持っているでしょう

そこはプロとして当然のことで

 

だけど何故かあの世界の中では

どの感情も「生」に近くて

ライブを見ているような

そんな気持ちになります

 

ストーリーもセリフも入っているし

次に何が起こるのかも

どういう結末なのかも知っているのに

まるで自分があの世界の住人のように

目の前で見ている感覚

 

遣都くんが

「数分でも数秒でもその世界に引き込みたい」

と言った言葉がまさに体感できるんです

 

彼の目指す演技が

ほぼそのまま閉じ込められているんだろうと

 

「ロズギル」の時に

「相手を信じて」

と指導された、という話を目にしたことがありますが

きっと受け芝居が上手い圭くんを間近で見て

「ああ、こういうことか」と

納得したのかもしれないなぁと思います

 

どちらかと言えば力が強くて

押すタイプの役者さんである遣都くんが

圭くんを理想と言い憧れていると言ったのは

自分に足りないと思っていた部分を

持っている人だからでしょう

 

そんな力の強さを

きちんと受け止めたり流したりして

「牧凌太」として生かしたのが圭くんだったから

だから遣都くんは

「感謝している」と何度も語ったのだと思います

 

それはきっと逆も然り

圭くんも凄く受けやすくて流しやすい相手だったんじゃないか

自分の一番いい部分を出せる相手だったんじゃないか

そう思えてくるんですよね

 

ほんとうに素で相性がいいから

きっちりとハマっていく

奇跡的なコラボレーションだったんだと

昨日じっくりと観て思いました

 

何よりも私を含めて

みなさんが「よかった」とおっしゃる部分は

ほぼアドリブなわけですよね

 

役を纏い、相手役を前にした時に

ふと湧いてくる感情がそのまま反映されるのが

アドリブだと思うんですけど

 

彼らの間には

「好きでたまらない」という感情が

常に流れていたと思います

 

演技というのは「嘘をつくこと」と

俳優さんはよくおっしゃいますが

その時に流れる感情は

その役の気持ちになりきらないと

湧いてこないものがあると思います

 

話す言葉も素振りも

「用意された設定で作られたもの」

というのは大前提としてありますが

その時に爆発させる感情は

その役になりきって湧いてくるものだろうし

相手を本気で好きだと思えなければ

出せないものもあると思います

 

ラストの春田の切ない顔は

もう素を出そうと思ったという通り

お芝居ではないと感じるのですが

「おっさんずラブ」の中では

春田の感情と圭くんの感情が

ほぼリンクしているんじゃないかと

思えるほどに

「ライブ感」がありました

 

遣都くんもそうだと思いますが

彼はどこかちょっと引いた目で見ているような気がして

集中して役に入り込むけど

そこにはきちんとした骨格と計算があると

感じる部分もあります

 

でも多分

撮影が進むにつれて

圭くんに引っ張られた部分も大きかっただろうと

お互いにお互いを引っ張り合って

生の感情を引き出し合ったんじゃないかと

思えるほどにリアルでした

 

だからきっと私は

彼らが並んでいるだけで

幸せな気持ちになるし

もっとその先を見守っていたいと思う

 

人の幸せを願うほど

私はいい人ではありません

ましてや顔も合わせたことがない

他人の幸せを祈るほど出来た人間でもない

 

そんな私ですら

彼らが永遠に幸せであれと祈り

もっともっと幸福が降り注ぎますようにと

願わずにはいられないのです

 

この世のどこかで存在するであろう

いろんな形の

「春田と牧」が

笑って暮らせますようにと

幸せが当たり前に手に入る人生でありますようにと

自然に願う自分に

ちょっとだけ戸惑っています

 

それくらい彼らの影響力は大きかった

 

本気で愛し合う人たちは

応援したくなるんですね

そして本気で愛し合う人たちは

周りの人を幸せにする

 

彼らが絡むといい事しか起こらない現象が

私にずっと続いています

人を幸せにする力というのは

狙って出せる物じゃない

 

だから彼らの永遠を祈り

幸せを願えるんだろうなぁと

昨日、映画を観てしみじみと感じました