インタラクリ -1862ページ目

工事現場のメリークリスマス

先日、深夜。
編集室から会社に帰る時に見つけた、オブジェです。


明日には、撤去されるでしょうから、
ぎりぎり今日、上げときます。



kouji01
kouji02


ちょっと写真の露出が甘くて
画像が荒くて、わかりにくいですが、


道路の拡幅工事のようなものをしていて、
ボーリングの建機が、突っ立ってるのですが、
そこに、なぜか、クリスマス・イルミネーションが

チャカポカと、光っています。


なんでだろう?
殺風景じゃないように、配慮されたのでしょうか?


すごく意外だったので、驚きましたが、
同時に、少し、あたたかいような、
ありがたいような気がしました。


メリークリスマス、Mr.工事中。

メビウス、かく語りき。

大友氏のマンガを再読する流れで、
パソコンに取り込んでいた、古いキリヌキ(デザインの現場)で
メビウスのインタビューを読んだ。

大事なところを、OCRで引用。



京都や奈良で。パリでも、世界中どこでもそういうもの(*1)を強く感じるところがあるのです。
人類がもっと若く素朴だったころ、そういう地が示す理性では割り切れないことで世の中を計っていました。
シャーマンは当てずっぼうに場所を決めていたのではなく、そこにエネルギーがあるのを体で感じたのです。

科学発見の道は結局のところ昔の魔術と同じところに向かっています。言い方が違うだけです。


私は漫画家であるということですでに自動的に日本に結びついています。


日本の漫画家にある夢の自由な発露や心の襞の描写は、西洋にはまだないように思います。
フランスやヨーロッパでは発見しつつありますが、アメリカにははとんどない。
アメリカンコミックスといえばアクションと暴力。感情といえば怒り。まったくステレオタイプです。
ヨーロッパでは、私自身もちょっとそうですが、構築されたストーリー性とグラフィックの巧みさに重きを置く。
日本の夢と苦悩の描写はBD界(*2)ではとても斬新だと思います。


*1=メビウスがヴェニスで感じたという感覚、、土地の魔力、のようなもの。
*2=バンドデシネ、フランスでいう漫画


メビウス(ジャン・ジロー)といえば、80年代初頭の当時、
大友克洋や宮崎駿のマンガ表現に、多大な影響を与えた人。
この雑誌のキリヌキに載っているカットも、今見ても新鮮である。


mebius.jpg


ちゃんと読んだことがなかったので、
これを機会に、ちょっと掘り直してみようかなと、思った。

ファイアーボール、再読。

最近、体の疲れが、ものすごくて、
休みの日に、本当に、何もできない。

ただ、ただ、ぼけーっとして、
80年代の曲を聴いたり、
80年代のマンガを読み直したりしている。

(恥ずかしいが、歳とった感、アリアリ。)


前回、本棚の奥底から10年以上の歳月を経て、発掘されて
初めて読んだ「SOS大東京探検隊」につづき、
同じ頃、同じ版形で、出版された、もう1冊の短編集である
「彼女の想いで」を、ひっぱり出した。

今日、ぼんやりと読み返しながら、その中に、
当時、ようやく単行本に採録されて多くのファンが喜んだ、
名作「ファイアー・ボール」を再読した。

前に、読んだ時は、なぜか、あまりわかっていなかったのだが、
よく言われるように、「ファイアー・ボール」は「アキラ」の
直接のモトであることが、はっきり、わかった。

(というか、前に読んだ時、なぜ気づかなかったのだろう)

だいたい、兄である主人公の名前が大沢「明」だし、
反体制ゲリラの弟が警察に連行される時の番号が「42」だし。

あとがきの、大友氏自身へのインタビューによる、
作品解説を読むまでもなく「ファイアー・ボール」は未完成の作である。
本人の言によると、「ラストはあと20ページ欲しかった」とのこと。

出稿した作では、4ページくらいで、地球規模のカタルシスまで行くのだが、
本人も言うように、弟の合流も含めて、お話がわかるようには
まったく、なっていない。。。

未完成ゆえ、80年代初頭に出た、大友氏の単行本には、
まったく採録されず、長らく、その名は聞けど、作品は読めなかった、本作。
(今なら、すぐネットに流れたと思うけど)

当時のユリイカだったか、宝島だったかに、
兄が手術台から起きあがる1コマだけ、紹介されていて、
早く読みたいものだ、、、と憧れていた記憶がよみがえる。

それは、さておき、大友氏のインタビューを読むと、
(最新のブルータスのものも、この単行本に載っているものも)

氏の特徴として、完成した作品の内、失敗したところ、
出来切らなかったところ、に、ばかり、気が行くらしい。
完璧主義の天才肌な人には、ありがちなことだ。

と、すると、もし仮に、
「ファイアー・ボール」が、あと20ページあって、
大友氏にとって、納得いくところまで、描き切っていたら、
ひょっとしたら「アキラ」は、描いていなかったかもしれない。

「アキラ」が描かれていなかったら、その後の、日本マンガ史、
日本アニメ史は勿論、その後の大友史も、大きく変わっていただろう。

「アキラ」がなければ、西洋世界に「ジャパニメーション」が
浸透する第1突破口も開けず、たぶん「攻殻機動隊」も作られず、
「マトリックス」も生まれていなかった、かもしれぬ。

勿論、今日の「クール・ジャパン」ブームも、
今のような規模とタイミングでは、来てなかったかもしれない。

と、思うと、「ファイアー・ボール」のお尻が、
20ページ足りなくて、本当に良かったなあ、、、と思うのである。

ブルータスと、大東京探検隊。

先週、出たブルータスの最新号


毎度おなじみ、世界が注目するクール・ジャパン特集。
(このテのものは、見つけると、必ず買ってしまう。。)


明け方のコンビニで、大友克洋のイラストの表紙を見た時、
一瞬、本人の作か、イミテーションか、わからなかった。
(さびしい。。)


新作の映画「蟲師 」のプロモーション用の別冊が挟み込んであり、
なんと、その別冊に、大友先生の「久しぶり」のマンガが
掲載されているのだが、、、申し訳ないが、さびしい仕上がりだった。



なぜか、その、ちょうど同じ日に、我が家の本棚の奥の奥から、
買ったきり全然読んでなかった、大友氏のマンガ本が、発掘された。

それが、この「SOS大東京探検隊 」である。
この週末に、これを読んで、大々後悔した。


SOS大東京探検隊/大友 克洋
¥1,223
Amazon.co.jp


なぜ、もっと早く読まなかったのか、、と。
この表題作と「RUN」は、出来れば発表年(1979年と80年)に
読みたかった。。。 


(「RUN」は、石井聰亙 の16ミリ映画「シャッフル」は知ってたのに、
 なぜか原作は、未見だった、)


メチャクチャ面白い。
メチャクチャ新鮮。


これほどのモノを、25年以上前に描いてしまったら、
もう、どうでもいい「受注マンガ」など、本気では描けないだろう。


「中途半端な出来になるくらいなら、徹底的に駄作にしなくては。」と、
天才系の人は、よく言うのだが、
ブルータスに載っているのは、まさに、そういう作品。



「SOS大東京探検隊」は、舞台を(80年代でなく)現在に移して、
最新の技術でアニメ映画 になっているそうだが、
これも、ぜひ見たいものである。


制作は「FREEDOM」と同じ、サンライズ・エモーションスタジオ。
大友氏が「スチームボーイ」の時に作ったスタジオである。

浮かんでは、消えるもの、を、共有する。

浮かんでは、消えるもの、を、共有する。


浮かんでは、消えるもの。
それを共有する、ための仕組み。
ネット、ブログ、SNS。


コメント。エントリー。日記。ネタ。。。
頭が、ブログに慣れてくると、これらは、
個人で溜めておいても、しょうがないもの、である、
かのように、思えてきてしまう。


今、思ったことを、
今、公開して、
今、共有する。


溜めるのは、システムが、
しっかり溜めてくれていて、
いつでも、どこからでも、アクセス可能だから、
生身の人間は、思考の保存は気にしなくていい、。



古来からの、本来の、文字の役目は、
思考を、書きとめておいて、
それを、時の流れに耐えて、保存可能なものにする。
。。ということだったと、思う。


ネットとブログの登場で、
文字の役目は、まったく、逆のもの、になった。


共時性と、共有性。



書籍も、映像も、
すべてが、ますます、
そういうモノに、なって行く、


(もう、なってる、)

と、思います。

ロンドンのアニメ、東京のアニメ。

(3年ほど前、ブリティッシュ・カウンシル主催の見学ツアーの

ツアーレポートとして広告批評 に書いた原稿です。

なぜか最近、PCから発掘されたので、ここにログっておきます。

ロンドンのアニメ+WEBスタジオツアーとか、また行きたいなあ。。)



なんでロンドンのアニメと、
東京のアニメは、こんなに違うんだろう?  


日本のアニメに愛と誇りを持つ人間の一人として、
ロンドンの様々なスタジオを見て回るツアーの間、
このことをずっと考え続けた。


なぜ?ロンドンのアニメと、東京のアニメは、
こんなに違うんだろうか? 


ロンドンのアニメの面白さは、
その極端な「表現の巾」の広さにある。
フイルムごとにベースとなる「絵柄」がまったく違う。


同じディレクターであっても、作品毎にスタイルを変える
(聞いて驚いたが、表現が陳腐化したら、
名前まで変えて再デビューする人もいるそうである)。


表現手法も、ストップモーションあり、
切り紙あり、カリグラフィあり、フォトコラージュあり、3Dありと、
CGを駆使しつつも融通無碍。


新鮮な映像を作るためには、
手段は選ばない(いや、選びまくる)という感じ。


規模の小さいスタジオが、かなり少ないスタッフで、
「他といかに『違うルックス』の映像を作れるか」に、
熾烈なシノギの削りあいをしている、という印象だった。

 

かたや、日本のアニメ界は、非常に乱暴に言えば、
ほぼ同じひとつの表現スタイル「アニメ絵のアニメ」を、
大量に作る巨大産業である。


その中で職人達は
「いかに他より『凄いアニメ!』映像を作れるか」に
アイデアと技巧のシノギを削りあっている。


強固な職人ピラミッドに支えられた、
究極に研ぎ澄まされた象牙の塔の、
そのテッペンの狭い床面積から生み出される映像は、
もはや世界中の他の誰にも作れない。


それはそれで素晴らしい。


でも、ロンドンで見た制作界は、
それとは正反対に裾野がすごく広い感じがした。


一作づつをつぶさに見れば、
アニメートの稚拙なところなども指摘できるのだが、
そういうオタク的な見方がハナから意味をなさない、
広さと風通しの良さがあった。 


ロンドンではアニメは、
動くグラフィックアートと、とらえているようだ。


「イラストレーションや絵が動く=アニメ」そういう認識。

日本では「動くマンガ=アニメ」という認識。


思い出してみると「イエローサブマリン」も
「ウォーレスとグルミット」も、実はかなり変なフィルムだ。 


ジブリとIGが大好きというユニット9のディレクターと、
喋っていたら「ウィアーベリーニッチ」と言っていた。


しかし、新しいフィールドで、
世界に向けたオリジナルな表現のビジネスを、堂々とやっている。
それはカッコイイと思う。


その彼は、イタリア出身。
ロンドンの表現の巾広さは、若い才能がいろんな国から
集まっていることにも支えられている。


実際、ツアーで出会った多くのアーティストたちが、
ドイツや、イスラエルや、チェコや、本当にいろんな国から来ていた。


これは、表現のベースになる幼児体験や記憶が
皆バラバラということだ。

これも、日本との大きな違いと言わざるを得ない。 


東京では、才能ある人たちが、
アニメ表現の「出来映えの高さ」を競っている。

ロンドンでは、「毛色の違い」を競っている。


これは、どちらも面白いと思う。


ただ、日本の「アニメ絵のアニメ表現」は、
観客が許容する「アウトプットの巾」が
あまりにも細いのではないか。


今ある技術力の上に、このロンドンの
「広すぎるバリエーション」を少し取り入れて、
もっと「変なのもアリ」にしたらいいんじゃないかと思う。


ファンの一人として、
日本アニメ界の横への成長を期待しています。

エバラ、と、ハウス、なの?

昨日、ワイドショーでチラ見して、
気になった、ニュース 。(ソースは日刊スポーツと、報知)


六甲山中で遭難した男性が、たまたまバーベキューの残りで持っていた
「焼肉のタレ」と「おいしい水」で3週間、生き延びた、とのこと。


動画ニュース まで、ありますね)


なぜ、気になったんだろう?


タレは、エバラかどうか、明示されてないし、情報源にもない。
水は、六甲のおいしい水だけど、ハウス製品ではなくて、
下山する時に、本当に六甲の山で、
ポリタンクに汲んで持っていたものだ、という。。。


それが、なぜか、昨日の朝のワイドショーでは、
エバラ 」と「ハウス 」の製品であるかのごとく、
パッケージがドーンと出てた。


でも、これって、広告効果アリなのだろうか?


トマトジュースや、ココアが、健康にいい、というのとは、
やや違う気がします、けど。。。


あるある で、実証番組にしても、
なんだか、痛いたしいし、寒い、気がしますね。


(とはいえ、生き延びた男の方、、ご無事でなによりでした)


(と、言いつつ、その、足を滑らせて、腰の骨を折ったのが、
「打越」さんだというのも、なんだか、気になるのですが。。)

80年代の自主映画と、21世紀のエンタメ。

雑誌ユリイカ の12月号が「監督系女子ファイル」という特集で、
つい、買ってしまった。。。


特集名のページ「監督系女子ファイル’06」があり、
ファイルの1Pとして、PFF ディレクターの荒木啓子氏が、語っている内容が、
WEB的にも、示唆があり、引用してログっておきます。
(OCRって、便利ですね)



『自主映画って基本的にオーダーされて作るものではなく、言ってしまえば趣味。そういうバカげた趣味に情熱を注ぐのは圧倒的に男性のほうが多かった、』


『70年代80年代の自主映画には、「商業ベースに侵されない純粋なもの作り」という空気が強かったけれど、極端に言えば21世紀は自主映画=商業映画と言っていい。同時に「自主映画をやろう」とは思わずに、多くの場合「映画=エンターテインメントを作る」と変わってきていて、』


『今は映画産業あるいは教育制度にしても、半世紀以上続いたシステムが終焉を迎えていて、そこからどうすれば自分なりに生きる道を見つけられるか葛藤している状況だと思います。それを個人のフィールドで体現しているのが自主映画 』



80年代ど真ン中に、自主映画青年だった自分が、
去年、WEB界にやってきた時、強く感じたのは、


「今、自主って、ココなんだな」ということでした。


マス界にいた時も、新しい方法論を見つけたい、と思って
レスフェス などのデジタル自主映画を、マメに見に行ってたのですが、


WEB界に来て、天動説→地動説、的に、驚いたのは、


「ココって、インフラそのものが、自主じゃん。。。」


、、て、ことでした。

(しかも1年で、自主がハリウッドになるくらいの
下克上的、状況の変化感?。。。)


YIGのWEBオブザイヤー の、話題賞第1位は you tube でした。
去年 は、mixi でしたね。)
来年は、何だろう。。それって、すでに、出現しているんですかね?
まだ、ですかね?


「インフラが、自主」のWEB界は、
「自分なりに生きる道を見つけ」ようとする人々で、
世界そのものが、日替わりです。


すげ。

今年を、漢字一文字であらわすと?

「今年を漢字一文字であらわすと、何?」


今朝のワイドショーで、チラ聞きして、
「何だろうなあ」と、考えてた。


わからんなあ。。何年か前、中越地震のあった年が、
「災」で、うまいなぁと、思ったのを覚えている。


午後、発表になると言ってたので、めずらしく気になって、
ヤフーニュースで検索した。


答えは「コチラ 」、、、なるほどねぇ。

(と、同時に、そうかなあ。。?)


自分の今年は、
漢字一文字にしたら、何だったろうか?と考えて、

「活」だな、と思った。


・・・あくまで「忙」ではなく。「活」。

似顔絵に、ギャラ?

ウェイキングライフ 」でおなじみの、
リチャード・リンクレイター監督と、
アニメ監督のボブ・サビストンの、新作が
今週末から公開される。


スキャナーダークリー 」である。
たまたま、拾った新聞で知った。
P・K・ディック原作だそうだ。
それは、期待したい、ところなのだが、、、


しかし、微妙というか、謎なのは、
なぜ、ボブ・サビストンの「あの手法 」で、


キアヌ・リーブスや、ウィノナ・ライダーが
出演しなきゃいけないんだろ?


BIGスターだから、顔をグチョグチョに
「デフォルメ」したら、誰だかわからなくなって、
もったいないし、


と言って「あの手法」で顔だけ「似てる」って
のも、ねぇ、、、微妙である。


・・というか、もと素材のビデオ撮影を、
本当にキアヌ本人で、やったのだろうか?
(たぶん、当然、やったんでしょうね)


製作総指揮のソーダバーグは、リンクレイターの
自主映画時代からの友人のはずだ。
どうも、このジョージ・クルーニーが、怪しくないか?

(本人には、悪いけど)


この謎を解くには、、、さっそく、見に行くしかない。