侵略と植民地支配の日本史 5 | 気になる映画とドラマノート

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日本の統帥権独立の問題。すなわち、なぜ日本は、軍隊を動かす権限の指揮権が、陸軍参謀総長と海軍軍令部総長の二名がトップで、陸軍大臣、海軍大臣ではなかったのか、という問題。

 


 

 東京大学の加藤陽子は、山県有朋が、当時の自由民権運動が軍隊内に波及しないように、政治から軍隊を切り離した、と言っているが、納得しがたい。

 

 「たぶん、加藤陽子自身も理解できていないのである。「軍隊内に波及」ではなく、正しくは軍隊を動かす権限が議会、ひいては、議会の多数派が擁立する自由民権派が内閣を形成した時、陸軍大臣、海軍大臣、首相の合議に指揮権を持たせてあると、自由民権クーデターが起こるからで、「軍隊内」ではない。

 


 

 統帥権とは、陸軍大臣、海軍大臣、首相という内閣から、指揮権を切り離して、軍令部と参謀本部に指揮権を置いた制度を言う。

 

 おそらく、まちがいなく、この統帥権独立の真意は、当時、日本の指導者にとって、軍隊は、西欧列強に対して、防衛以上の機能を持たせる事は、貧しい日本では夢のまた夢で、ただ問題は、民権家による革命だけが心配だった。これを防ぐには、軍隊は、政府ではなく、天皇に直属し、その証として、大臣ではなく、軍令部に指揮権があるとすれば、間違いなく、軍隊が天皇を否定する行動だけは取れない。

 


 

 ただし、その後、日本は発展して、軍隊内に政治構想を思い描くような秀才たちが現れて、政府の方針がバカに見えてしかたがなく、勝手に動き出す人間が出てきたのが、明治の元老の誤算だった。当時はまさか、軍人が、軍事知識以外に広い視野で日本の進路まででしゃばって考えだすようになるとは、山県有朋らは、予想できなかったのだ。

 


 

 統帥権独立は、皇帝、天皇を大衆の気まぐれから、保護するには、最適だが、軍人が天皇をかついだまま、民主政治を抑圧するのには無力なのだった。政治に口出ししないまじめな軍人を前提にして成り立つ制度なのだ。現在の日本でも、國民が日本共産党を多数党に選び、首相を共産党党首とすれば、首相は軍隊指揮権を発動して、右翼を制圧し、その上で、政府提案で、天皇制廃止を法案に上程できるのだから。これを、明治人は、防いだつもりだったのだ。

 


 

※このあと、社会党・共産党政権は、インターナショナリズム思想にもとづいて、内閣や議会に外国籍の人間も、平等の名のもとに、入れることになる。まっ極端な話、できるだけ国境なき政府を目指すだろう。だからこその、日の丸・君が代否定なのだ。

 


 

大統領に指揮権を持たせ、議会が大統領を制し、それでも、ポピュリズムで暴走する政府の反抗する機会を保証するために、銃所持の自由がアメリカにはある。そこまで、アメリカは、最悪の場合を考えているが、日本人はまったく、国家の構造を考えていない。

 


 

 軍隊の内部にマルクス主義が広まったら同じではないか。軍隊が危険なものになるに変わりがない。加藤陽子の説明は意味不明なのだ。

 


 

 加藤陽子と別な説が存在する。

 

 政府すなわち、陸軍大臣、海軍大臣に指揮権があると、万が一、社会主義政党が議会の多数を占めて、その議会の推す陸軍大臣、海軍大臣が軍を指揮して、軍隊を動かして、元老を排除する事を恐れた。

 


 

 もうひとつの説は、ドイツは1870年にフランスと戦争して勝利。その時のドイツ陸軍参謀のモルトケの直弟子メッケルが日本に来て、明治18年から三年間、陸軍軍制に助言。その時、政治家に軍隊の指揮権を与えると、見当違いな指揮をして、参謀と意見が対立するという理由で、統帥権独立を提唱。

 


 

 後に、これが、日本政府、陸軍大臣、海軍大臣が強硬に陸軍、海軍の動きを戒める事ができず、また、陸軍は海軍の事を知らず、海軍は陸軍の事を知らない。統括総指揮官がどこにもいない、という一大欠陥につながった。現在は、首相。当時は首相に命令権限はなかった。

 


 

 創氏改名

 


 

 1910年から1936年まで、26年間は、むしろ日本は、朝鮮の人々が、中国人向けに、日本名を名乗る事を禁じた。

 


 

 朝鮮人の中に、現在の韓国人にも日本人にも、ジェームス何とかとか、ミッキーなんとかとなのりたがる洒落者がいるように、当時、朝鮮の人々に中国人と相対する時に日本名を名乗るほうが格好がつくからと、日本名を名乗りたがるものがいた事も事実だったが、日本はこれを禁止していた。

 


 

 1937年には、新生児にかぎり、日本名を名乗りたければそれでもよい、と禁止をゆるめた。

 


 

 1939年になってはじめて本格的に「創氏改名」が現実味を帯びて論議され、1940年になってこの制度が導入されるのだが、ここには、次のような事情がからむ。

 


 

 日本人もまた、アメリカかぶれで、アメリカ人風の芸名を名乗りたがる風潮があるように、高麗時代はモンゴルにかぶれ、李氏朝鮮時代は、支那にかぶれた韓国人は、日本併合後は、少なからず日本かぶれして、日本名を名乗りたがるお調子者は、一部ではあったが現れた。これを日本は日本で、日本人にも、謙虚な心を持する人間もいれば、頭に乗る傲慢不遜な人物もいるわけで、「大和大愛の発露にて、半島人の要望をいれる」などと、まったく、とんでもない上から目線で、創氏改名を導入することになった。

 


 

 日本かぶれした一部のお調子者の朝鮮人と傲慢不遜の身の程知らずの一部日本人の合作が、「創氏改名」という奇妙な政策だった。

 


 

 これは、少なくとも、併合後、30年目にして施行された、非強制の制度であり、当時の新聞は、口すっぱく、くれぐれも、強制ではないから思い違いするな、と見出しをつけて記事になっていた。


 また、当時の文学雑誌には、何人もの、朝鮮名の作家が名前を連ねて、登場しているのだが、戦後、これを勘違いして、強制されたというようになった。