映画 ハンナ・アーレント | 気になる映画とドラマノート

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ハンナ・アーレント




ドイツは「戦争賠償」はしていないが、「ホロコースト賠償」はした。
1952年に、イスラエル政府およびユダヤ人被害者に個人賠償を行なった。

この時、イスラエルでは、反対デモが起こり、イスラエル国会が襲撃されるほどの騒乱が起きた。

 なぜ、イスラエルで反対運動が起きたかというと、反対運動のリーダー、ベギンは「汚らわしい利益はイスラエル国民の尊厳を金で売り渡すようなものだ。」

 「金、金、金で片付けるのは、ユダヤ民族にとって、大きな屈辱だ」と言った。

 当時のイスラエルの首相は、これに対して「ドイツ人はユダヤ人から虐殺と略奪の限りを尽くしたのだから、その略奪の利益を享受させてはならない」と反論した。

 それに加えて、当時のイスラエルは建国まもなくの頃で、発展資金が不足しており、政府としては、ドイツからの賠償金は極めて重要なのものだった。

 14年間に分割して巨額の賠償金を、石油、鉄道、通信関連施設、重機械などの形で、イスラエルは受け取って、これをイスラエル国家建設に役立てた。

 1960年、イスラエルの諜報組織モサドが、ナチスの「ユダヤ問題」担当責任者だったアイヒマンを潜伏先のブエノスアイレスから拉致してくる。

 そして、イスラエルは、エルサレムにおいて、アイヒマンをホロコーストの罪によって、裁判にかけて、死刑判決をくだした。

 この時、ドイツの大学で哲学を教えていたハンナ・アーレントが、裁判傍聴を希望して、エルサレムに行った。

 当時ハンナ・アーレントは「全体主義国家の起源」を発表して、政治哲学者として有名だったので、アメリカの「ニューヨーカー」誌がアーレントに裁判を傍聴して考えた事を、
連載したいと言って、アーレントはニューヨーカー誌の特派員として傍聴した。

 わたし自身は、アーレントのこの時の「エルサレムのアイヒマン」を未読だが、映画「ハンナ・アーレント」によると、「検事が主人公になりたいだけのような気がする」と非常に懐疑的に感じたことになっている。

 つまり、ハンナ・アーレントはユダヤ人ではあったが、前のめりにユダヤ人の敵アイヒマンをつるしあげろ、という姿勢を取らなかった。

 映画の描き方ではなく、実際にアーレントが書いた「エルサレムのアイヒマン」の要旨は、アイヒマン裁判は、
1.イスラエル建国後、もはやユダヤ人は世界の中で、羊のように黙って耐えることはなく、このように反撃するぞ
2.ユダヤ人以外の世界は、ユダヤ人がたまたまユダヤ人だったというだけでホロコーストを受けたという事を恥じるべきだ。ユダヤ人迫害の前史を思い起こせ。
3.イスラエルの当時の青年たちに、ユダヤ人としての自覚を促す。

 このような政治的効果を狙った行なわれた裁判だとした。
 もうひとつ、アーレントは、以上のような演出効果を狙ったイスラエルのその先にあるものは、「ユダヤ人と非ユダヤ人という二分法」を固定し、ユダヤ人は世界の中で特殊な存在だとする点で憂慮すべき考えかただとした。

 映画「ハンナ・アーレント」では、「ユダヤ人指導者が強制連行された人々のリストを作ったことで協力したことが、ユダヤ人犠牲者を600万人という膨大なものにした」と書いた点が、ハーレントの故郷の友人やドイツ国内のユダヤ人、アーレントの教える大学の教授たちから激しい反発を受ける様が描かれる。

 現実のイスラエルは、立山良司氏によると、イスラエル国民にホロコーストを教育するに際して、かならず、「殉教者、英雄」のイメージと重ねて子どもたちに教育するという。

 映画「ハンナ・アーレント」が「当時のユダヤ人指導者には、ホロコーストを甚大な規模にした責任がある」とした見方が、いかにイスラエルの基本政策と真っ向からぶつかるものかがよくわかる。

 映画の中のアーレントのセリフが当時のアーレントの言った事と同一かどうかは不明だが、映画の中でアーレントが「ホロコーストは「人類に対してなされたのであって、ユダヤ人に対してなされたのではない」と言っているのは、アーレントが文章で「ユダヤ人と非ユダヤ人の二分法」を批判したからだろう。

そして、迫害者だけでなく、被害者にも、モラルの崩壊があったのだ、と。

 この映画のポイントは非ユダヤ人とユダヤ人の二分法の問題や当時被害者も含めた世界中にモラルの崩壊という現象があったという事ではない。
 アーレントが、故郷の親族、友人から非難されて、大学から辞職勧告を受け、ユダヤ人たちから、無数の抗議の手紙を受けてなお、その主張をとりさげなかった、という部分をい強調している部分にある。

 ひるがえって、日本人は、安保法制にしても、反原発にしても、親戚友人に非難されることはない。マスコミが応援してくれる。
 現在の日本では、孤立無援になっても、自分は自分の考えを取り下げない、というそういう思想は存在しなくなっているのである。