皇室と靖国神社はなぜ擁護すべきか | 気になる映画とドラマノート

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 基本的には、英国王も日本の皇室も、いや、アメリカの大統領、韓国の大統領でさえ、真剣に称揚するのは、その社会の上流階級、あるいはセレブと呼ばれる人々であって、庶民が称揚する態度を取る場合があるとしても、それはそれで例のローマ法王やエリザベス女王やアン皇太子妃が来日すれば、ワーワーやる心性と変わりない。

 


 

 日本人が果たしてそれほど、天皇陛下に狂信したかといえば、それも怪しい。

 


 

 現在、男系を維持すべきか、女系のほうが皇室存続につごうがいいとか、いや、男系でなければ意味がない、という議論が潜在しているが、そんなのも、わたしにはどっちでもいい。

 


 

 どっちでもいいが、皇室がなくなってほしいとも思わない。

 

 皇室があって困る理由を言う人間は、社会主義、共産主義支持派に多く、彼等の皇室が社会に存続すれば悪影響のあるというその理由に納得したことも、一度としてない。

 


 

 差別とか、支配と被支配の関係なんてものは、共和制の国だろうと、自称社会主義の国だろうと、どこにでもあり、仮に、皇室が日本からなくなっても、それで、戦争の心配がなくなるわけでもなければ、差別が消えるわけでも、格差がなくなるわけでもない。

 


 

 日本で皇室を無くす意義があるとすれば、以上のような効果が皇室廃止によって得られるという馬鹿な左翼の妄想を、とにかく、やってみて、「関係なかったな」と確認するだけのことだから、わたしには、皇室を廃止すべきだと言う理由もない。

 


 

 天皇陛下が病気になれば、悲しむ日本人はいるだろうが、だからといって、悲しむ人を見て、土人だとも思わない。だって、有名な映画俳優が死んだって、参列する人はいるではないか。そのたぐいの人って、いるよなあ、としか思わないのである。

 


 

 松本健一という評論家は、生前、腹の中では、天皇制が廃止されてしまえばいいんだと内心思っていたにちがいないのに、それを言えば、敵をつくるのが嫌だったのだろう、なんと言ったかといえば、昭和天皇も、今上陛下も靖国に参拝しないのは、「A級戦犯が祀られているからだ。それが天皇陛下のお心であり、わたしの考えです。」と、言った。

 


 

 だが、天皇陛下の考えというものは、戦前も今も、どういう意思かを国民が忖度するような性質のものではない。そう思っていられるにちがいない、なんて言ったって結局は、天皇が「A級戦犯が祀られているから、はずしてほしい」なんて判断を言っていいものでもないし、最低限度、そうした政治判断を言っていいものではない、と知っているのが、立憲君主制以来の日本の天皇なのだ。

 


 

 もっとも正しくは、靖国神社に行く行かないで、新聞がああでもないこうでもないと言っているから、あたりさわりのない態度を取ったほうがよさそうだ、という遠慮をしたところが、行かなければ行かないで、松本健一のような隠れ左翼に利用されたというところだろう。

 


 

 阿含宗の管長、桐山靖雄氏は、ジャーナリストの上島嘉郎氏に「靖国参拝は日本人として当たり前だと思っています。」と言ったが、これまたおかしな考えかたである。

 


 

 靖国参拝は日本人として当たり前、なんてことはない。

 

 なぜ、日本人として当たり前ではないかというと、これは、反戦思想とはまったく関係のない話で、次のように考えてみるとわかる。

 


 

 日本国内には、人口10万人未満の市町村が多数あるが、じつはこれらの小さな市町村で生まれ育った人々は、昭和10年生まれくらいからでさえ、「友人、知人、祖父母、兄弟姉妹に、戦没者も、戦死者もいない。戦争を理由として肉親を失った体験を持たない」という日本人は、実はかなり多いのである。

 


 

 彼等のように、まったく、戦没者、戦死者との体験的な関わりを持たない人間は、真実のところ、靖国神社に行って、参拝しようという気持ちが起きないのは、千鳥ヶ淵に行こうという気持ちにならないというのと、まったく同じなのである。

 


 

 ただし、間違えてならないのは、そういう、切実な気持ちの起きない人間が、会津の白虎隊の慰霊碑や全国の様々な遭難事故の慰霊碑に、なにかのきっかけで、行った時、「おれには、関係ねえ」と平気な気持ちにでいたり、厳粛な態度をする人に、「関係ねえじゃないか」と言うのもまた、おかしいだろう。

 


 

 戦没者、空襲で友人、恋人、祖父母、夫を亡くした人は、千鳥ヶ淵に深い思いを持っていくだろうし、友人、恋人、祖父母、夫が戦地で戦死した人は、靖国に行って追悼したいと思うのは当然のことだ。

 


 

 この当然のことだ、という考えは、日本人だからではなく、世界普遍性のある考えにちがいない。ところが、そうは考えないのが、中国、韓国、そして、日本の左翼なのである。

 


 

 念のために言うと、松本健一をはじめ、靖国神社を否定したがる者は、「靖国神社は西郷隆盛を祀っていないから、おかしい、正当性がない」と言うし、もっとうがった意見では、橋爪大三郎のように、「靖国神社の歴史は非常に浅い」というのがある。

 


 

 しかし、靖国神社というのは、そういう問題ではない。

 

 次のように考えればよい。

 

 有名な航空機事故にしても、列車脱線事故にしても、つきつめて合理的に考えれば、実は、遺族は本当は現場の慰霊碑に行く必要はないと言えない事もない。亡くなった場所とお墓とは、本当は関係ないとも言えるのだから、遺族はお墓とか位牌に向って冥福を祈れば、それで十分だとも言える。

 

 しかし、それでも、ある種の社会性を帯びた、大規模な事故、事件、戦争などで、愛する人が亡くなった時、理屈を越えて、その現場なり、象徴的な慰霊碑、共同墓苑に行きたいと思うのが、日本人にかぎらず、世界共通の「人間」の心理なのである。

 


 

 その心理、心情が「靖国神社」を成立させたものの本質であって、西郷隆盛や江藤新平が祀られたかそうでないか、歴史が古いか浅いか、そんなのはどうでもいい事なのだ。

 


 

 そして、このことは次の事を意味する。

 

 A級戦犯が祀られているから、靖国に行くなとか、戦死者を英霊視するのはいけないという人々が、いくら眉をひそめようと、嫌な言い方ではあるが、「どっちみち」、100年後、200年後には、靖国神社に行くとき、「親しい人、愛する人の思いを胸に行く人」は、居なくなる、ことは避けられないということだ。

 


 

 それは、日本全国にある様々な事故や災害の慰霊碑の中には、もはや、亡くなった人を直接知る人が居なくなった「社会の共通の記憶」の意味しかなくなってしまった慰霊碑もある事と変わりない。

 


 

 そういうもののひとつでもある靖国神社をそう、ああでもこうでもないと、否定してかかかる意義があるのか、いや、ない、とわたしは言いたいのだ。

 


 

 わたしは、国会議員、とりわけ閣僚は、靖国神社に積極的に行くべきものだと考える。

 

 なぜかといえば、時の政府の責任ある立場にある者は、たとえば、大東亜戦争前には、常々、日露戦争の戦死者を思って、自分たちの政策、決定がまかり間違えば靖国に祀られる英霊の名前を増やすことにもなり、また、現在ただいまの国民の暮らしが経済政策、社会福祉政策の真剣な運営次第で苦楽が左右され、それを靖国の英霊がどう思って見ているか、そこに思いをいたすべきだという意味である。

 


 

 つまり、なにも、国会議員、閣僚が靖国に行くのは、不戦の誓いなのではない。

 

 現在の繁栄の礎になっていただいた事への感謝と、現在の国政のいたらなさを痛切に内省するためにこそ、彼等は進んで行くべきなのである。