気になる映画とドラマノート -2ページ目

気になる映画とドラマノート

厳選名作映画とドラマを中心に、映画、テレビ番組について、思いついたこと、美麗な場面、ちょっと気になる場面に注目していきたいと思います。

日本の歴史学者18300人。

 


 

 韓国の新聞記者は、日本には歴史学者が18300人いると思っているらしい。

 


 

 日本には、大学が約750校ある。

 

それくらいは、すぐ調べることができるので、手間ひまかけずに、大学数が750校の日本に、18300人の歴史学者はいないはずとすぐにわかるはずのところを、韓国の新聞記者はそれすら調べる手間を省いて、テキトーに記事を書いているのだとわかる。

 


 

 きょう、ハンギョレ新聞を読んでみたら、10月21日付で「日本の女性が1500人、従軍慰安婦についての声明を出したという記事がある。

 

 そして、その関連記事に、「アメリカで慰安婦のドキュメンタリー映画の上映会が開かれた」というのがあって、この記事の下部にさらに関連記事がるのだが、そこにギョっとする記事の見出しがある。

 


 

 日本の歴史学者13800人、「慰安婦は強制連行され」という記事がある。

 

 このニュースは、2015年5月26日の記事で、日本の16の歴史団体が声明を出したというのだが、なぜか、その見出しは、「日本の歴史学者13800人」なのだ。

 


 

 この16の歴史団体のうち、もっとも大きな団体が「歴史学研究会」なので、そのホームページを確認してみると、「科学運動」という項目がある。

 


 

 なんと彼等は「歴史学を科学」と思っているらしい。

 

 これは異様な事ではないか。

 

 実証研究とは言っても「科学」とは、ふつうに感覚ではいえないはずだが、彼等には常識が通用しないらしい。

 

 「科学運動」というのが、大まじめに歴史学研究会の運動に掲げられており、なにをしているのかといえば、「朝鮮学校無償化措置から除外する政府の措置に対する反対する声明」などが、掲げられている。それが、彼等の「科学運動」なのだ。

 


 

 「歴史学研究会とは」という項目を確認すると、会員数は2200名とある。

 


 

 入会資格は「職業、所属、年齢、専門を問わない」というから、中学教師でも高校教師でも会員になることができ、原則的には、民間のどんな職業の者でもこの歴史学研究会に入会することは可能だということになる。

 


 

 それでも、2200名なのである。

 


 

 とすると、ハンギョレ新聞のいう、「13800人の歴史学者」とはどういうことなのか。首を傾げたくなる。

 


 

 なんだこれ?というわけで、調べると、2015年7月17日には、東亜日報が、「重複加入をのぞいても、5000人から6000人の学者」が従軍慰安婦問題で、日本政府を批判している、とある。

 


 

 韓国中央日報5月26日記事になると、「6900人」という数字を出している。

 


 

 韓国の新聞記者というのは、頭の中で妄想をこしらえて記事を書いているのだろうか。

 基本的には、英国王も日本の皇室も、いや、アメリカの大統領、韓国の大統領でさえ、真剣に称揚するのは、その社会の上流階級、あるいはセレブと呼ばれる人々であって、庶民が称揚する態度を取る場合があるとしても、それはそれで例のローマ法王やエリザベス女王やアン皇太子妃が来日すれば、ワーワーやる心性と変わりない。

 


 

 日本人が果たしてそれほど、天皇陛下に狂信したかといえば、それも怪しい。

 


 

 現在、男系を維持すべきか、女系のほうが皇室存続につごうがいいとか、いや、男系でなければ意味がない、という議論が潜在しているが、そんなのも、わたしにはどっちでもいい。

 


 

 どっちでもいいが、皇室がなくなってほしいとも思わない。

 

 皇室があって困る理由を言う人間は、社会主義、共産主義支持派に多く、彼等の皇室が社会に存続すれば悪影響のあるというその理由に納得したことも、一度としてない。

 


 

 差別とか、支配と被支配の関係なんてものは、共和制の国だろうと、自称社会主義の国だろうと、どこにでもあり、仮に、皇室が日本からなくなっても、それで、戦争の心配がなくなるわけでもなければ、差別が消えるわけでも、格差がなくなるわけでもない。

 


 

 日本で皇室を無くす意義があるとすれば、以上のような効果が皇室廃止によって得られるという馬鹿な左翼の妄想を、とにかく、やってみて、「関係なかったな」と確認するだけのことだから、わたしには、皇室を廃止すべきだと言う理由もない。

 


 

 天皇陛下が病気になれば、悲しむ日本人はいるだろうが、だからといって、悲しむ人を見て、土人だとも思わない。だって、有名な映画俳優が死んだって、参列する人はいるではないか。そのたぐいの人って、いるよなあ、としか思わないのである。

 


 

 松本健一という評論家は、生前、腹の中では、天皇制が廃止されてしまえばいいんだと内心思っていたにちがいないのに、それを言えば、敵をつくるのが嫌だったのだろう、なんと言ったかといえば、昭和天皇も、今上陛下も靖国に参拝しないのは、「A級戦犯が祀られているからだ。それが天皇陛下のお心であり、わたしの考えです。」と、言った。

 


 

 だが、天皇陛下の考えというものは、戦前も今も、どういう意思かを国民が忖度するような性質のものではない。そう思っていられるにちがいない、なんて言ったって結局は、天皇が「A級戦犯が祀られているから、はずしてほしい」なんて判断を言っていいものでもないし、最低限度、そうした政治判断を言っていいものではない、と知っているのが、立憲君主制以来の日本の天皇なのだ。

 


 

 もっとも正しくは、靖国神社に行く行かないで、新聞がああでもないこうでもないと言っているから、あたりさわりのない態度を取ったほうがよさそうだ、という遠慮をしたところが、行かなければ行かないで、松本健一のような隠れ左翼に利用されたというところだろう。

 


 

 阿含宗の管長、桐山靖雄氏は、ジャーナリストの上島嘉郎氏に「靖国参拝は日本人として当たり前だと思っています。」と言ったが、これまたおかしな考えかたである。

 


 

 靖国参拝は日本人として当たり前、なんてことはない。

 

 なぜ、日本人として当たり前ではないかというと、これは、反戦思想とはまったく関係のない話で、次のように考えてみるとわかる。

 


 

 日本国内には、人口10万人未満の市町村が多数あるが、じつはこれらの小さな市町村で生まれ育った人々は、昭和10年生まれくらいからでさえ、「友人、知人、祖父母、兄弟姉妹に、戦没者も、戦死者もいない。戦争を理由として肉親を失った体験を持たない」という日本人は、実はかなり多いのである。

 


 

 彼等のように、まったく、戦没者、戦死者との体験的な関わりを持たない人間は、真実のところ、靖国神社に行って、参拝しようという気持ちが起きないのは、千鳥ヶ淵に行こうという気持ちにならないというのと、まったく同じなのである。

 


 

 ただし、間違えてならないのは、そういう、切実な気持ちの起きない人間が、会津の白虎隊の慰霊碑や全国の様々な遭難事故の慰霊碑に、なにかのきっかけで、行った時、「おれには、関係ねえ」と平気な気持ちにでいたり、厳粛な態度をする人に、「関係ねえじゃないか」と言うのもまた、おかしいだろう。

 


 

 戦没者、空襲で友人、恋人、祖父母、夫を亡くした人は、千鳥ヶ淵に深い思いを持っていくだろうし、友人、恋人、祖父母、夫が戦地で戦死した人は、靖国に行って追悼したいと思うのは当然のことだ。

 


 

 この当然のことだ、という考えは、日本人だからではなく、世界普遍性のある考えにちがいない。ところが、そうは考えないのが、中国、韓国、そして、日本の左翼なのである。

 


 

 念のために言うと、松本健一をはじめ、靖国神社を否定したがる者は、「靖国神社は西郷隆盛を祀っていないから、おかしい、正当性がない」と言うし、もっとうがった意見では、橋爪大三郎のように、「靖国神社の歴史は非常に浅い」というのがある。

 


 

 しかし、靖国神社というのは、そういう問題ではない。

 

 次のように考えればよい。

 

 有名な航空機事故にしても、列車脱線事故にしても、つきつめて合理的に考えれば、実は、遺族は本当は現場の慰霊碑に行く必要はないと言えない事もない。亡くなった場所とお墓とは、本当は関係ないとも言えるのだから、遺族はお墓とか位牌に向って冥福を祈れば、それで十分だとも言える。

 

 しかし、それでも、ある種の社会性を帯びた、大規模な事故、事件、戦争などで、愛する人が亡くなった時、理屈を越えて、その現場なり、象徴的な慰霊碑、共同墓苑に行きたいと思うのが、日本人にかぎらず、世界共通の「人間」の心理なのである。

 


 

 その心理、心情が「靖国神社」を成立させたものの本質であって、西郷隆盛や江藤新平が祀られたかそうでないか、歴史が古いか浅いか、そんなのはどうでもいい事なのだ。

 


 

 そして、このことは次の事を意味する。

 

 A級戦犯が祀られているから、靖国に行くなとか、戦死者を英霊視するのはいけないという人々が、いくら眉をひそめようと、嫌な言い方ではあるが、「どっちみち」、100年後、200年後には、靖国神社に行くとき、「親しい人、愛する人の思いを胸に行く人」は、居なくなる、ことは避けられないということだ。

 


 

 それは、日本全国にある様々な事故や災害の慰霊碑の中には、もはや、亡くなった人を直接知る人が居なくなった「社会の共通の記憶」の意味しかなくなってしまった慰霊碑もある事と変わりない。

 


 

 そういうもののひとつでもある靖国神社をそう、ああでもこうでもないと、否定してかかかる意義があるのか、いや、ない、とわたしは言いたいのだ。

 


 

 わたしは、国会議員、とりわけ閣僚は、靖国神社に積極的に行くべきものだと考える。

 

 なぜかといえば、時の政府の責任ある立場にある者は、たとえば、大東亜戦争前には、常々、日露戦争の戦死者を思って、自分たちの政策、決定がまかり間違えば靖国に祀られる英霊の名前を増やすことにもなり、また、現在ただいまの国民の暮らしが経済政策、社会福祉政策の真剣な運営次第で苦楽が左右され、それを靖国の英霊がどう思って見ているか、そこに思いをいたすべきだという意味である。

 


 

 つまり、なにも、国会議員、閣僚が靖国に行くのは、不戦の誓いなのではない。

 

 現在の繁栄の礎になっていただいた事への感謝と、現在の国政のいたらなさを痛切に内省するためにこそ、彼等は進んで行くべきなのである。

 文芸誌「文学界」2015年1月号で、平野啓一郎が「慰安婦問題」に言及している。

 


 

 対談の相手は、政治哲学研究家の萱野稔人だが、ふたりとも共通して、物事を倫理的に考えたがらない事がわかる。

 


 

 倫理的に考えたがらない、というのは、どういう事かというと、次のような彼らの主張が、倫理的理由を拒絶しようとしているからだ。

 


 

 「萱野は在特会の主張をナショナリズムの典型としてみており、その主張の背景を「社会的資源の有限性の意識」に見ている事がわかる。

 


 

 日本人が享受すべき社会保障や雇用を、在日コリアンが享受しているという不当性の意識があり、それは左翼が、あたかも資源が無限であるかのように、気前よく配分、譲渡しようとし、在特会のようなナショナリストは、資源の有限性に敏感になっているからだ、という。

 


 

 ちがうのではないか。

 

 在特会の主張の根にあるのは、資源の有限性を気にかけているというのではなく、ある種の在日コリアンが、日本人を加害者、悪人と糾弾して、自らを被害者、善人だと主張しており、その理由に日本人の歴史に対する無知と倫理性の欠如と退廃を指摘し続けてきた事への反発が問題なのであって、富の有限性を意識しているかどうかは、まったく枝葉の問題なのである。

 


 

 補償せよ、という左翼が、富の有限性を知らないわけではなく、富を欲さぬ事が道徳的態度だと考える傾向が政治に強い関心を持つ人間には、少なからずある事とも関係がある。

 


 

 特徴的なのは、平野も萱野も、在特会をナショナリズムの例としてとりあげるのはいいとして、事に「有限な資源の中で、余裕がなくなり、人心が荒んでいくのを食い止めるには、どうしたらいいのでしょうか。」と、在特会の参加者たちが、貧困層出身で、自分自身の生活の貧困感覚から発して、人心が荒んだ結果ヘイト・スピーチという行動に発しているかのように論じる。

 


 

 この解釈はしかし、なにもいまにはじまった事ではなく、大江健三郎の「セブンティーン」のような右翼青年や、新左翼の内ゲバで殺し合いをして社会から顰蹙を買った左翼青年たちにも本人の貧しさと精神の閉塞感は言われた事で、現在のナショナリズムに特徴的な事ではない。

 


 

 ※しかし、こう書いてみてあらためて、おや?という意識で気づくのは、かつての学生運動の担い手は、間違いなく、隠しようもなく、自他ともに認める貧乏生活に耐えつつの学生運動家だったのが、現在の学生運動家、社会運動家は、なにやら、知的エリートめいたイメージとお坊ちゃん、お嬢さんのような外見を誇示しているのであり、まちがっても学生運動、社会運動に携わる一方、その生活においては、貧乏生活に耐えているとは、まちがっても、思われたくないと決意しているかに思われる雰囲気を醸し出しているのだ。

 


 

 シールズや「ママの会」はインテリめいたイデタチがあらわで、まったく貧乏臭がない。

 

 

 

 平野「国家の悪を批判されると、あたかも自身のアイデンテティが攻撃されているかのように感じて、強烈に拒否反応を起こす人たちがいる。」

 


 

 この平野の見方は間違いである。私自身、日本人の弱点を指摘して、「おまえは反日だ」言われたことがある。

 

 日本への悪口を聞けば、すぐに「反日」姿勢にこり固まる者の発想だと考える人はたしかに多い。だが、その理由は、「自分自身のアイデンティティが傷ついたと思った」結果ではない。案外、右翼だ、保守だと言われている人も日本人の弱点を指摘していない事もない、という事実を知らないという浅薄性、独り合点が原因なのであり、なにも国家と個人のアイデンティティを無意識に同化させて、傷ついているのとはちがう、とわたしはずっと思ってきた。

 


 

 平野「ぼくは、「他の国でもあったことだ」というロジックは、加害者同士の目配せでは成り立つかもしれないけれど、被害者に対しては通用しないと思います。被害者の存在を無視した議論はどうしても許せない。」

 


 

 この平野の加害者同士の目配せは成り立つという言い草は簡単に呑み込めるものではない。とりあえす、会社にたとえてみれば、公害で被害者を出した会社がうちの会社だけではない、という主張をしたとして、他の会社はどういう反応をするかというと、「うちと一緒にするな。程度が違う」という拒絶反応がかえってくる。

 


 

 けっして、「加害者同士の目配せ」と「他の国でもあった」という様相はそぐわない。

 

 類似のどのようなケースを想定しても、加害者同士の目配せなどというものはそう簡単に成り立つものではない。ましてや、「自分だけではない」という論理は、「加害者同士の目配せ」ではなく、否応のない「自国だけではなく、他国も非難されるべきだ」という事を帰結する。その典型が、橋下大阪市長の「他国も、日本とともに、謝罪すべきだ」という発言で、それは他国からすれば、「日本だけが謝罪すればいいのであって、われわれを巻き込むな」という拒絶にあう。

 


 

 このように、平野の言う「他の国でも似たような事があった」という言葉が、「加害者同士の目配せ」として成り立つという事自体が実は元々ない。

 


 

 もうひとつ、平野の認識に欠落があるのは、「ソープランド」やら「性感マッサージ」(?)、(かつてなら「のぞき部屋」「テレフォン・クラブ」があった。)らが、「制度」「様式」であるように、またそれらがけっして、「強制連行」の結果ではなく、実入りのいい、水商売のひとつであって、「国家犯罪」とは言えないと同じ意味で、戦時「慰安婦」制度も、本質的には、様式の異なる「性風俗」のカテゴリーに収まるという認識が平野にないという事だ。

 


 

 たしかに、そのような性風俗の根絶が人類の理想の社会の要件のひとつとして数えるべきかもしれないし、その観点からすれば、現在の世界のあらゆる性風俗は、広い意味で「女性の人権抑圧」と言えないことはない。それなら、戦時犯罪ではなく、人類史も世界史も、女性に対する人権抑圧の歴史と言えないこともない。

 


 

 が、それなら、日本だけが謝罪して、なにかが始まるとも、なにかが終ったとも考えられるはずがない。むしろ、日本の戦時、慰安婦という様式の性風俗は、女性に対しる人権抑圧のカテゴリーの中でも、極めて貧困層出身女性にやさしい制度上の特性を持っていたからである。

 


 

 平野「この問題は、韓国と歴史認識を共有し、元慰安婦の人たちが納得する形での外交的な解決がなされない限り、国際社会でいくら「日本だけじゃない」と言ってみたところでけっして受入れられない。」

 


 

 テレビ局が時々、余興めいた企画で、アフリカや南太平洋の裸族の人々を日本にホームステイに招待することがある。

 

 そういう文明様式、生活様式の大きく異る人々の言うことを聞いていると、結婚観、死生観、自然に対する考えかたなどがかなり違う事がわかり、そう簡単に共感しあえるわけではない事に気づく。

 


 

 それこそ、ここがヘンだよ日本人、といわゆる文明国が日本人の発想を奇妙だと指摘することも少なくない。韓国と歴史認識を共有できると思う事自体が、浅はかなのである。

 

 

 

 自分はブスだブスだというので有名なAKB48のトップアイドル指原莉乃が、ブスだブスと言いながら、「ぼく、指原さん、好きですよ」と言われて、「わたし、狙われてる?」と言ったところ、明石家さんまが、「おまえ、頭おかしいのとちがうか?」と言った。

 


 

 アイドルの場合は、もともと、ふざけて言っているから、つじつまの合わない事を言って、「頭おかしいんじゃないのか?」とからかわれる事はままあるが、国際社会では、お互いに真剣にまじめに考えていても、「頭がどうかしているとしか思えない発言」はいくらでもあるのだ。

 


 

 韓国の知識人の考えかたには、日本人からすれば、「あたまがおかしいのじゃないのか」と思える事は多々ある。そのため、共通の歴史認識を持つなどということは夢のまた夢なのである。

 


 

 わたしには、同じ日本人の平野啓一郎の発想でさえ、共感できない。

 

 平野は、慰安婦の被害者性に対する加害者を誰だと考えているかというと日本軍、または日本政府、あるいは、日本軍人と考えているらしいが、その考えかたはおかしい。

 


 

 昔の江戸吉原の花魁にしても、現在の性風俗にしても、女性にしてみれば、「なんで、この地獄のような人間世界に、わたしを生んだのか」と親を恨む場合もあったろうし、女に学問はいらない、という言い草を典型にして様々な親の身勝手な論理、娘を身売りに供して、残った家族が生きるよすがに小銭を手に入れることなども含めて、「親が悪い」「女衒が悪い」と言う発想もあれば、この「朝鮮人の伝統的女性観」が悪い。「日本人の伝統的女性観が悪い」「金銭的取引のために、人身売買する人権感覚の薄さが悪い」というように、様々な批判の観点がある。

 


 

 にもかかわらず、平野はこともなげに、「軍国日本時代の日本政府が悪い」という見方が唯一正しい見方だと決め込んでいるのだ。

 


 

※平野のいう「加害者同士の目配せ」というのは、世の中に無いわけではないが、それは、けっして「他人だってやっている」という言明がなされる状況下では起きない。他者への批判が自分にもかえって来るという後ろめたい自覚のもとに、他者への非難を差し控える場合に、「加害者同士の目配せ」という形での加害者同士のかばいあいによって、沈黙のうちに、弱者の被害を切り捨てるという状況はありうる。

 

 ところが、中国、韓国、日本の人権派のやっている日本批判とそれにする橋下大阪市長のような「他国もやっている」論は、「加害者同士の目配せではなく、ともに、謝罪しよう、という事であって、ともに罪を逃れようという発想ではない。

 


 

 平野の態度は、「まさにおまえが、罪びとなのだ」と、自分の罪を隠しつついいつのる卑怯者に対して、憤る事なく、「そうだ、自分が悪い。君は悪くない」と忍従する姿勢なのである。自己をの罪を知らぬふりをして、他国の非を言い募る中国、韓国も呆れた卑劣な態度だが、そういう卑劣を卑劣とも思わず、「おまえだってやっているじゃないか」と言ってはいけない。まず、自分が反省すべきだ、とする日本人、平野啓一郎の発想も相当おかしい。

 


 

 実際には、他国も、日本も同じような事をやったとは、言えない。日本が一番ましだったのであり、その一番ましな日本が、一番悪辣だったと認定を受け、かつ受けつつあるのが、昨今の南京大虐殺資料のユネスコ認定であり、従軍慰安婦像のアメリカ国内各地の設置なのである。