あれから。


無事区分が下り、トイレ工事が完成し、

ヘルパーさん初回日も決まり

これもまた色々あって、区分が下りたことを知っているはずの事業所から連絡が来なくて、結局私から基幹経由で連絡した。いつもいつも私から連絡しないといけないの何なの。


やっっと、すべてが終わりました。たぶん。

これで正式なひとり暮らしです。



なんだろう、すごい長い旅だったはずなのに

あっさりしていて実感がない()


嬉しいはずなのに、もやもやが残る。

終わった感覚を得られない()



最後まで、役所と基幹からは

対応が遅れたことを謝罪されませんでした。


別に謝って欲しいわけじゃないけど、私のこれまでのいろんなことがなかったかのようにされている気分。



役所はトップダウンの組織だから、個々のケースワーカーは謝れない(役所が非を認めたら責任を問われる)文化があるのだろう

ということも知ったし、それも想像できるのですが。


理解はできるけど、一障害当事者としては

だから何??と思うのです。

役所の文化なんて、ただの障害当事者には関係ないもん。


行政がおおごとにしたくない気持ちも分かる。責任の追及から逃れたいんだろう。

ケースワーカーも基幹もトップダウンの組織に抑圧されているのがよく分かる。

組織に抑圧されている人が、誰かのための権利を護る行動はできない、よね。



だけど、与えられた仕事を適切にこなすのはケースワーカーの役割であって、その機能が果たせていないなら

それは責任を問われて当然だろうと思うのです。



ちょっと考えたら分かるようなことから逃げて誤魔化して仕事するなんて、ほんとダサすぎる。

どれだけ自己保身に必死なんだろうか。



シンプルに、仕事しろよ。




と、考えていると支援者個人を責めたくなる気持ちもあるのですが。



一番は、

抑圧的な組織で仕事をしている職員が受けている抑圧が、結局回り回って力の弱い障害当事者やマイノリティーが受けることになる


のが、私は本当に許せないしやるせない。



私以外にも同じような思いをする人がこの先もいるのかと思うと、本当に悔しい。





行政を敵に回しても、何も良いことはないことは分かっていて。


行政のトップダウンの体質を私が変えられるわけでもなくて。


同じことが起きないように対策をお願いしたとしても、結局は対応する側の意識の問題だから、何か違う気がして。



じゃあ私は行政に何を求めているんだろう

って最近ずっと考えてて。




公的支援が適切に受けられないことで

私がどんな状況に置かれて、

どんな気持ちになったのか、

ちょっとでもいいから想像して欲しかったんだと思って。


同情はいらないから、ちょっとでも私が見えている世界を想像して、私のライフラインを担っている重さを感じて欲しかった。


事務処理の先には、私達の生活があることを知って欲しかった。

助けてってストレートに助けを求められる人ばかりでもないことを知って欲しかった。


そしたら、もしかしたらだけど、行政の対応もちょっとはマシだったかもしれない。





そう考えると、私がアクションを起こすべきなんだとしたら

それは開示請求でも、ケースワーカーとのお話でもなくて

どっちも考えてた


行政の対応によって起こった私のリアルな生活や気持ちを行政の人達に伝えて

社会課題として訴えることなのかもしれないと思った。

支援者に助けを求められない当事者ですが、こうして客観的に伝えるのはまだできる。主観的になれないしんどさの強みという皮肉



起きた出来事の中には、誰かに伝えるにはまだ早い、自分でも消化できてないものもあるけど。


その時の自分にできる範囲で、私が知って欲しかったことを伝えることで

私自身も救われるような、そんな気がする。


このもやもやを消化して昇華しなければ

私はずっともやもやを抱える気がする。



どうなるのかな。

どうしようかな。




これからのアクションは

また年明けに考えてみる。




それにしても本当に色々色々あった

ひとり暮らし計画。


途中何度かひとり暮らしを諦めかけましたが

その度に助けてくれる人がいて

なんとか踏ん張れた。


よく大きく体調も崩さず乗り切った、

とそこは自分を褒めたいような。



なんだかまだ振り返りきれないのですが

応援して下さった皆様

本当にありがとうございました。

コメント返せてなくてごめんなさい、お返事しました!

  


とりあえず、おつかれさま私。